二章 七話
裏側の通路へ入ると、昨日とは空気の流れが違っていた。
青白い作業灯は同じだ。
壁面を走る配管やケーブルも、見覚えがある。
だが、配置が少しずつ変わっている。
昨日は壁際をまっすぐ走っていた太い配管が、
今日は天井側へ持ち上げられていた。
床面には新しい誘導ラインが引かれ、
通路脇には仮設の補強材が積まれている。
小型点検オートマトンが何台も走り、壁面の新しい接合部へ光を当てていた。
リオンが歩きながら、静かに周囲を確認する。
「前回と、ルートが違います」
「気づいた?」
ナンディーヌは振り返らずに言った。
「昨日通った道は、もう拡張工事に入ってる。
今は通路じゃなくて工事区画だね」
「昨日の今日で、ですか」
イルルが小さく呟いた。
ナンディーヌは当然のように頷く。
「使える場所が見つかったなら、使えるようにする。
危ないところが見つかったなら、先に塞ぐ。
人が増えたんだ。
こっちも止まってられないよ」
通路の先で、作業アームが古い壁材を外していた。
その隣では、別のアームが新しい補強材を差し込んでいる。
人の姿は少ない。
だが、機械の動きだけで、場所そのものが組姿は少ない。
だが、機械の動きだけみ替えられていくのが分かる。
シェスターは少し呆れたように言った。
「すげえな。迷路みたいに変わってくじゃねえか」
「だから案内なしで動かれたら困るんだよ」
ナンディーヌは笑った。
「昨日通れたから今日も通れる、が通じない場所もある」
紫乃は周囲を見ながら、柔らかく言う。
「生きている建物みたいね」
「いい表現だね」
ナンディーヌは少し嬉しそうだった。
「このシェルターは、住んでる人に合わせて変わる。
壊れたところを直すだけじゃない。
必要なら形も変える」
一輝は工具箱を抱えたまま、前方を指した。
「こっちッス。新しい入口は、前の穴より少し奥です」
さっき紫乃の前で赤くなっていた顔は、もう仕事の顔に戻っていた。
歩く速度も、案内の声も、迷いがない。
紫乃がそれを見て、少しだけ微笑む。
一輝は気づいていない。
ナンディーヌが端末を操作すると、先の扉が開いた。
その向こうは、前回見た保守通路よりも広くなっていた。
床面はまだ仮設だが、歩行用のパネルがきちんと敷かれている。
天井には新しい照明がいくつも取り付けられ、白い光が奥まで届いていた。
「前は、ここまで暗かったはずです」
リオンが言う。
「あれから照明を増やした。霧が抜けた後なら、見えない方が危ないからね」
「黒い金属片は」
「そのまま。
位置記録を取って、触らず残してあるよ。
端っこに寄せようとしたら怒られたからね」
ナンディーヌは悪びれずに言った。
リオンは表情を変えない。
「位置情報も重要です」
「分かってるって。今は分かってる」
その言い方に、シェスターが少し笑った。
やがて、通路の先に広い空間への入口が見えてきた。
前回、一輝が岩盤へ穴を開けた場所ではない。
今回は、きちんと人が通れる大きさに切り開かれた入口だった。
縁は荒いが、崩れないよう仮補強が入っている。
足元には金属製のスロープが敷かれ、機材を運び込めるようになっていた。
一輝が少しだけ胸を張る。
「ここッス。昨日の夜から朝にかけて、切削と補強を入れました」
「一晩でか」
シェスターが言う。
「ウッス!」
「お前らの現場、徹夜が多くないか」
「多いッス!」
ナンディーヌが横から言う。
「威張ることじゃないよ」
「すんませんッス!」
入口を抜けると、岩盤に囲まれた四角い空間が広がっていた。
前回より、ずっと見やすくなっている。
天井の各所には仮設照明が取り付けられていた。
床面にも照明機材が置かれ、崩れた壁や巨大なクレーター、
円錐状に穿たれた穴の輪郭がはっきり見える。
そして、黒い金属片。
昨日よりも多く見えた。
床面から浮き出るように、いくつも露出している。
へこみの周辺、崩れた壁際、大きなクレーターの縁。
大小さまざまな破片が、古い戦いの跡に沿うように残っていた。
イルルは思わず足を止める。
「これ、全部……」
「床整備機材が拾ったやつだね。触らず印だけつけてある」
ナンディーヌが答えた。
黒い金属片のそばには、小さな光るマーカーが置かれている。
リオンは周囲を確認した後、通信を開いた。
「現地到着。内部照明、仮補強、新入口を確認。
黒い金属片は現地保存されています」
『映像を受信している』
通信からリヴァルの声が返った。
その後ろで、フィリアの声も聞こえる。
『マナ反応、前回記録と大きな差はありません。
黒い金属片周辺に微弱な保持反応があります』
イルルが少しだけ緊張したように端末を見る。
シェスターがその横へ立った。
「大丈夫か」
「うん」
イルルは頷く。
「大丈夫。ここまで来たから」
紫乃は室内を見回した。
「配置は?」
『リオンとミス・シノは中央へ』
リヴァルが答える。
『封印解除装置は、床面のマナ反応が最も安定している地点に設置する。
誘導を出す』
空間中央に、薄い青のマーカーが投影された。
リオンは封印解除装置のケースを持ち、中央へ向かう。
紫乃もその横へついた。
彼女は周囲を確認しながら、リオンの死角を自然に補っている。
『シェスター、イルル、ローム主任、直入一輝は入口付近で待機』
リヴァルの声が続く。
『異常発生時は、シェスターを中心に避難判断。
イルルは負傷者が出た場合の治療準備。
ローム主任と直入一輝は入口確保と退路維持』
「了解」
シェスターが答える。
「逃げ道担当ってわけだな」
『正確には、撤退判断と人員誘導だ』
「分かってる」
イルルは入口付近で循環停止装置を確認した。
手はまだ少し強張っている。
だが、先ほどより震えは少ない。
ナンディーヌは工具デバイスを軽く叩く。
「入口はこっちで見る。崩れそうならすぐ補強を入れるよ」
一輝もパイルデバイスのロックを確認する。
「退路、確保しますッス」
中央では、リオンが指定地点に到着していた。
封印解除装置のケースを開ける。
球体が、内部で淡く光っている。
紫乃はその周囲を一周し、床面の傷と黒い金属片の位置を確認した。
「ここで起動すると、マナアーツは床面へ広がるのね」
『そうです』
リヴァルが答える。
『ただし、床面の破損が多い。広がり方に乱れが出る可能性があります』
「その時は?」
『フィリアが補正値を出す』
フィリアの声が続いた。
『反応が乱れた場合、
中央から右側のクレーター周辺に流れが偏る可能性があります。
紫乃さん、そこに注意してください』
紫乃が小さく笑う。
「ええ。任せて」
リオンは球体を両手で持ち上げた。
「設置します」
『設置を許可』
リヴァルが言う。
リオンは封印解除装置を、指定された床面へ静かに置いた。
球体の下部が開き、細い固定脚が床の亀裂へ沿うように伸びる。
小さな音を立てて固定され、球体の内部光が少し強くなった。
室内の空気が変わる。
黒い金属片の周辺で、微弱なマナ反応が揺れた。
イルルが息を止める。
シェスターはその前へ半歩出た。
ナンディーヌは入口の補強材へ視線を走らせ、
一輝はパイルデバイスを構えられる位置に足を置いた。
紫乃は中央で、静かに袖口を整える。
リオンは球体の前に膝をつき、起動端末を開いた。
「起動準備、完了」
『こちらでも確認した』
リヴァルの声は、いつもより低かった。
『全員、配置を維持。異常があれば即時報告』
一瞬、誰も動かなかった。
岩盤に囲まれた空間。
旧時代の決闘跡。
黒い金属片。
封印解除装置。
すべてが、静かに次の瞬間を待っている。
そして、リヴァルの声が通信越しに響いた。
『封印解除装置を起動して』
リヴァルの声が、通信越しに響いた。
リオンは球体に接続した起動端末へ指を置く。
一瞬だけ、空間全体の音が遠くなったように感じた。
「起動します」
短く告げて、リオンは認証を通す。
球体の内部で、淡い光が走った。
最初は細い線だった。
それが球体の内側を巡り、表面の溝をなぞるように広がっていく。
白とも青ともつかない光が床面へ落ち、球体の固定脚を通じて、
古い石床の亀裂へ染み込んだ。
床が光った。
強い光ではない。
水が乾いた地面へ広がるように、解除用のマナが床面を這っていく。
亀裂の中へ、クレーターの縁へ、古い足跡の窪みへ、崩れた壁の影へ。
静かに。
ゆっくりと。
封印へ向かって進んでいく。
オペレーション室から、フィリアの声が入った。
『封印核にマナ進行中』
その声は、少し緊張していた。
けれど、言葉は途切れなかった。
『出力、安定。封印予定地点に、解除用マナの照射を開始しています』
中央に立つリオンは、球体から離れすぎない位置で周囲を見ていた。
紫乃はその横で、床面に広がる光と、周辺の黒い金属片を交互に確認している。
入口付近では、シェスターがイルルの前に立ちすぎない位置を選んでいた。
退路を塞がず、何かあればすぐに手を伸ばせる距離。
ナンディーヌは入口の仮補強を見ている。
一輝はそのそばで、パイルデバイスのロックを確認していた。
『封印解除時間は不明』
フィリアの声が続く。
『ただし、封印マナの切削は進んでいます。
解除用マナ、封印層へ到達。表層の削減を確認』
リヴァルの声が重なる。
『全員、配置維持。変化があれば即時報告』
「了解」
リオンが答える。
だが、現場には何も起きなかった。
球体は光り続けている。
床面のマナは広がっている。
けれど、それだけだった。
地面が割れるわけでもない。
闇の霧が噴き出すわけでもない。
昨日見たクレーターも、崩れた壁も、黒い金属片も、
ただ照明の下に沈黙している。
シェスターが小さく息を吐いた。
「思ったより静かだな」
「静かな方がいいよ」
ナンディーヌが入口の補強材を軽く叩きながら言う。
「派手に動かれると、こっちは直すものが増える」
イルルは笑おうとして、うまく笑えなかった。
視線は床面に広がる光へ向いたままだ。
あの光が、封印を削っている。
その向こうに何があるのか、まだ誰も知らない。
リオンは周囲の音を拾う。
遠くから、低い振動のようなものが聞こえた。
空気が鳴っているのではない。
岩盤そのものが、どこかで小さく震えているような音。
「こちらは異常なし」
リオンは通信へ報告した。
「多少のマナ反響音が聞こえてくる以外に、変化もなし」
『反響音、こちらでも拾っている』
フィリアが答える。
『封印層への干渉に伴うものと思われます。
現時点では、異常値ではありません』
紫乃は足元を見た。
床面を這う解除用マナが、彼女の足の周囲を避けるように流れている。
「おばさんも何も感じないわね」
紫乃は穏やかに言った。
「足元のマナ以外は、特段変わったところは……」
その声を遮ったのは、入口付近からの叫びだった。
「ローム主任! 足!」
一輝の声だった。
リオンと紫乃が同時に振り向く。
シェスターもイルルの前へ出ながら、入口側を見る。
一輝がナンディーヌを指していた。
ナンディーヌ自身も、自分の足元へ視線を落とす。
岩盤が、伸びていた。
床から生えた薄い岩の層が、ナンディーヌの安全靴に絡みついている。
それはただの石ではなかった。
溶けた泥のように形を変え、しかし固まる時は岩そのものの硬さを持つ
。足首へ、脛へ、まるで根が巻きつくように這い上がっていく。
「なんだいこれは!?」
ナンディーヌが足を引こうとする。
だが、動かない。
「くっ……外れない!」
「主任!」
一輝が走り出した。
パイルデバイスを構えるより早く、手を伸ばそうとする。
その瞬間、ナンディーヌが顔を上げた。
「来るな!」
言葉と同時に、彼女は自由に動く上半身で一輝を突き飛ばした。
一輝の身体が後ろへ飛ぶ。
シェスターが即座に動いた。
「っと!」
片腕で一輝を受け止め、もう片方の手でイルルの腕を掴む。
一輝は息を詰まらせながらも、すぐにナンディーヌへ手を伸ばそうとした。
「主任!」
『離れろ!』
リヴァルの声が、通信越しに鋭く飛んだ。
シェスターは反射で動いた。
イルルの腕を引き、一輝を抱えるようにして入口側へ下がる。
一輝は暴れた。
「離してくださいッス! 主任が!」
「今行っても巻き込まれる!」
シェスターは一輝を押さえながら叫んだ。
中央にいたリオンと紫乃も、すでに入口側へ走っていた。
リオンはストライカーアーツデバイスに手をかける。
紫乃はナンディーヌと一輝の間に入れる位置を測りながら、しかし踏み込まない。
ナンディーヌの身体を覆う岩は、もう膝上まで来ていた。
彼女は一輝が離れたのを見た。
そして、にっと笑った。
いつもの、現場で若手を安心させる時の笑みだった。
「いい判断だよ」
誰に向けた言葉かは分からなかった。
一輝はそれを見て、顔を歪めた。
「主任! 主任っ!」
シェスターは一輝を一度、床に座らせるように押しとどめた。
それから、自分が前へ出ようとする。
循環停止装置に手を伸ばす。
だが、リヴァルの声が止めた。
『待て、シェスター』
「待てるか!」
『このままだと、君も一緒に飲み込まれる』
「だったら、これを打ち込めばいいだろ!」
シェスターは円盤状の装置を握った。
「これで助けるために来たんじゃねえのか!」
『まだ精霊のマナ反応がない』
リヴァルの声は苦しそうだった。
それでも、判断は揺らがない。
『今打ち込んでも無駄だ。接続点が形成されていない。装置が機能しない』
「ただ黙って見てろって言うのかよ!」
シェスターの声が、岩盤の空間に響いた。
イルルが息を呑む。
一輝は拳を握りしめ、ナンディーヌを見ている。
ナンディーヌの腰まで、岩が迫っていた。
リヴァルは一瞬、沈黙した。
それから、低く言った。
『僕だって、そこに居たら手を伸ばしてた』
シェスターの顔が歪む。
『だが、僕は救うための装置を作って、君たちに託した』
通信の向こうで、フィリアが息を止めたような気配があった。
リヴァルの声は続く。
『彼女の命の可能性を、僕に預けてくれ』
命令ではなかった。
懇願だった。
『頼む』
シェスターは、歯を食いしばった。
循環停止装置を握る手に力が入る。
今にも走り出しそうな足が、床を踏み締めている。
それでも、彼は動かなかった。
握った拳が、ゆっくりと緩む。
「……くそ」
短く吐き捨てる。
それが、止まるという判断だった。
一輝はその横で震えていた。
「主任は……主任はどうなるんスか!」
紫乃が一輝の肩に手を置いた。
その手は強くない。
けれど、不思議と逃げ場を作らない温かさがあった。
「大丈夫」
紫乃は静かに言った。
「おばさんたちが必ず助け出すわ」
「でも!」
「だから、信じて」
紫乃は一輝の目を見る。
「直入くんは、自分を守ることを考えるのよ。
あなたが倒れたら、ローム主任はきっと怒るわ」
一輝の喉が鳴った。
「……ッス」
絞り出すような返事だった。
ナンディーヌの胸元まで、岩が覆った。
腕も、肩も、首も。
彼女は最後に、入口側を見た。
一輝。
シェスター。
イルル。
リオン。
紫乃。
皆が離れていることを確認して、また笑った。
「まったく……厄介な現場だね」
それが聞こえた最後の声だった。
岩が、ナンディーヌの顔を覆う。
彼女の身体は、完全に岩石の塊になった。
次の瞬間、床が沈んだ。
ナンディーヌを覆った岩が、吸い込まれるように地面へ落ちていく。
「主任!」
一輝が叫ぶ。
だが、もう手は届かない。
岩は床の下へ消えた。
同時に、空間全体が揺れた。
低い地響き。
岩盤が腹の底で唸るような音。
封印解除装置の光が一瞬乱れ、床面のマナが大きく波打つ。
『強いマナ変動!』
フィリアの声が通信から響いた。
『封印層の下から上昇しています!』
床が盛り上がった。
まず、鋭利な角のような岩が一本、生える。
続いて、もう一本。
さらに、別の場所から三本目が突き出した。
それは角ではなかった。
背中の棘だった。
丸い山のように床が膨らみ、古い石材と岩盤を押し上げる。
クレーターの縁が砕け、黒い金属片が跳ねる。
巨大な何かが、床の下から身体を起こそうとしていた。
「下がれ!」
リオンが叫ぶ。
入口付近の全員がさらに距離を取る。
紫乃は一輝の肩から手を離さず、シェスターはイルルを背に庇う位置へ動いた。
盛り上がった岩の山から、前脚が現れた。
爬虫類のような太い脚。
だが、肉ではない。
岩盤そのものが筋肉の形を取り、関節を作り、爪を生やしている。
もう片方の前脚。
後脚。
長い尾。
尾は床を削りながら伸び、振られた先で古い石材を砕いた。
最後に、頭部が現れた。
低く、広い頭。
顎は岩を割ったように鋭く、目にあたる部分には、
光ではなく濃いマナの揺らぎが宿っている。
口元には牙のような岩片が並び、首から背へ向けて鋭い棘が連なっていた。
爬虫類。
巨大なトカゲ。
いや、ただの獣ではない。
地面そのものが、古い戦場の記憶を使って形を作ったような存在だった。
その岩盤の獣は、ゆっくりと頭を持ち上げた。
天井の仮設照明が、その全身を照らす。
岩でできた身体。
分厚い四肢。
長い尾。
背に並ぶ鋭利な棘。
そのままでも十分に巨大で、十分に危険だった。
だが、それで終わりではなかった。
岩の獣が、頭部を床へ叩きつけた。
轟音。
空間全体に衝撃が走る。
その衝撃に呼応するように、床に散らばっていた黒い金属片が浮き上がった。
一つ。
また一つ。
大小さまざまな黒い破片が、空中で震える。
古い金属片。
錆びず、風化しながらも形を保っていたもの。
それらが、まるで呼ばれたように岩の獣へ向かって飛んだ。
最初の一片が、肩に張り付く。
次の一片が、前脚を覆う。
さらに、首へ、背へ、胸へ、顎へ。
黒い金属片は、岩盤の身体に次々と貼り付き、
互いの隙間を埋めるように噛み合っていく。
鎧だった。
完全な板ではない。
割れた破片の集合。
だが、それらはまるで最初からその場所にあるべきだったかのように並び、
岩の獣の全身を覆っていく。
背の棘の間に黒い装甲が走る。
胸部に厚い板が重なる。
前脚の爪の根元に、黒い金属が食い込む。
頭部の半分が、兜のような装甲に覆われる。
岩盤の爬虫類は、黒い鎧をまとった。
イルルが震える声で言う。
「これが……精霊……?」
誰もすぐには答えられなかった。
通信から、フィリアの声が入る。
『強大なマナ反応を確認。封印を守る精霊と思われます』
続いて、リヴァルの声。
『封印核の切削マナ、遮断。封印マナ増大中。精霊と接続された模様』
封印解除装置の光が弱まっている。
床面へ広がっていた解除用マナが、精霊の足元で押し返されるように乱れていた。
岩の獣は、ゆっくりと身体を起こす。
黒い鎧が擦れ合い、重い音を立てた。
リオンはストライカーアーツデバイスを抜いていた。
紫乃も構えを取る。
シェスターは循環停止装置を握りしめ、イルルを庇う位置を変えない。
一輝は、ただ震えていた。
恐怖ではない。
怒りと、悔しさと、どうしようもない焦りで。
その視線は、精霊のどこかにナンディーヌを探していた。
『全員、聞いて』
リヴァルの声が響く。
それは先ほどよりも、はっきりと指揮官の声だった。
『あのバケモノのどこかに、ローム主任の身体が必ずあるはずだ』
精霊が、低く唸る。
岩盤が鳴るような声。
『彼女を見つけ出し、接続点に循環停止装置を打ち込む』
リオンの指が、ストライカーのトリガーへかかる。
紫乃の視線が、精霊の全身を走る。
シェスターが一輝の前へ出る。
イルルは震えながらも、治療用のマナを掌に集め始めた。
『それが、僕らのリヴァイヴ・プランのゴールだ』
地の精霊が、黒い鎧を鳴らして一歩を踏み出した。
床が沈む。
古い決闘場が、再び戦場へ変わった。
地の精霊が、一歩を踏み出した。
それだけで床が沈んだ。
岩盤に囲まれた空間全体へ、重い振動が広がる。
古い石床の亀裂が軋み、天井に設置された仮設照明が小さく揺れた。
黒い鎧をまとった爬虫類の巨体。
岩でできた四肢。
床を削る尾。
背に並ぶ鋭い棘。
そのどれもが、生き物の形をしているのに、生き物の手触りを感じさせなかった。
血も肉もない。だが、確かに動いている。
「来る」
リオンが短く言った。
次の瞬間、地の精霊の尾が振られた。
横薙ぎの岩塊。
床を削りながら伸びた尾が、入口付近へ向かって走る。
「下がれ!」
シェスターがイルルの腕を引く。
一輝も反射的に後ろへ跳んだ。
紫乃は一歩だけ横へ滑るように移動し、尾の軌道を避ける。
尾が壁際の機材をかすめた。
金属製の照明台がひしゃげ、床に転がる。破片が跳ねたが、
シェスターが身体を入れてイルルの前に立った。
「大丈夫か」
「うん」
イルルは頷いた。
声は震えていたが、目は精霊から逸らしていない。
『全員、距離を保って。封印解除装置はまだ稼働中です』
フィリアの声が通信に入る。
『ただし、解除用マナは精霊の足元で阻害されています。
精霊体を排除、または接続点を停止しない限り、
封印核への切削は再開できません』
『目的は変わらない』
リヴァルが続けた。
『ローム主任を見つけ、接続点に循環停止装置を打ち込む。
そのために、まず精霊体の性質を見極める』
「なら、少し試してみましょうか」
紫乃が軽く袖を払った。
その声だけ聞けば、これから茶菓子の包みを開けるような気楽さだった。
彼女はクナイを指先で回し、地の精霊の前脚へ向かって踏み込む。
精霊が爪を振り下ろす。
紫乃はそれを真正面から受けない。
爪の影に沿って滑り込み、黒い装甲の隙間、
岩盤の関節部にクナイを差し込んだ。
「おばさん疲れるから、ちょっとおとなしくしててほしいわ」
紫乃の指が、クナイの柄を軽く叩く。
微細なマナが流れた。
痺れ毒。
生身なら、神経を伝って一瞬で動きを鈍らせるはずのもの。
だが、地の精霊は止まらなかった。
前脚が紫乃を押し潰そうと曲がる。
紫乃はすでにそこにいない。
軽く後ろへ跳び、何事もなかったように着地する。
「うーん」
紫乃は首を傾げた。
「この子、神経系つながってないわね。痺れ毒にまったく効果がないわ」
『神経系なし?』
フィリアが聞き返す。
「少なくとも、この外側にはね。
岩と金属でできた身体に、毒を流す管がないみたい」
紫乃は精霊の足元を見た。
「ローム主任に痛みが直接届いている心配は、今のところ薄いと思うわ。
叩くなら、叩いて大丈夫」
その言葉に、一輝が息を呑んだ。
ナンディーヌがこの中にいる。
その事実は変わらない。
けれど、外側を壊してもナンディーヌ本人に痛みが届く可能性は低い。
それだけで、全員の動きに少しだけ余白が生まれた。
リオンが両手のストライカーアーツデバイスを構える。
「外殻破壊、試行します」
左右の銃口が、精霊の前脚を捉えた。
短い駆動音。
氷弾が走る。
アイス・バレットは黒い装甲の継ぎ目に着弾し、白い霜を一気に広げた。
岩盤と金属片の接合部が凍りつき、精霊の前脚の動きがわずかに鈍る。
「表面凍結は有効」
リオンが報告する。
「ただし、停止には至りません」
地の精霊が頭を振る。
黒い装甲が鳴り、背の棘が天井の光を裂くように揺れた。
凍りついた前脚を無理に動かし、氷ごと表面の岩を割る。
砕けた破片が床に落ちた。
だが、その下からまた岩が盛り上がろうとしている。
紫乃が別の角度からクナイを打ち込む。
金属と岩の継ぎ目を切り、装甲の小片を剥がした。
しかし、刃は深く入らない。
「刃物は難しそうね」
紫乃は後ろへ下がりながら言った。
「やっぱり岩だからかしら。隙間は作れるけれど、割るには向かないわ」
『なら、鈍器のイルルなら効果があるかもしれない』
リヴァルの声が即座に返る。
入口付近にいたイルルが、顔を上げた。
一瞬、恐怖はあった。
けれど、戦うことそのものに怯えているわけではない。
イルルはハンマーアーツデバイスを握り直した。
「行きます」
シェスターが彼女の横へ立つ。
「遠慮なくぶっ飛ばせ」
イルルがシェスターを見る。
「でも、近づいたら」
「危なくなったら俺が引き戻してやる」
シェスターは精霊を見据えたまま言った。
「俺たちはチームだ」
イルルの目が、少しだけ揺れた。
それから、強く頷く。
「うん」
『リオン』
リヴァルが指示を出す。
『イルルは細かい打点調整が得意なタイプじゃない。
打ち込む場所を先に作ってほしい』
「了解しました」
リオンは銃口を下げない。
『イルル。リオンが凍らせた場所を叩いて』
「分かりました」
『シェスターはイルルの退路確保。危険なら即時回収』
「任せろ」
精霊が前脚を持ち上げた。
狙いはイルル。
鈍重に見える巨体とは裏腹に、振り下ろしは速い。
リオンの右手が動いた。
アイス・バレットが三発、続けて放たれる。
一発目が前脚の外側装甲へ。
二発目が関節の継ぎ目へ。
三発目が、イルルの進行方向に近い内側へ。
白い霜が走り、黒い金属片の隙間を凍らせる。
「そこです」
リオンの声。
イルルが踏み込んだ。
ハンマーを大きく振りかぶる。
「はああっ!」
鈍い音がした。
刃物ではない。
突き刺す音でもない。
重いものが、さらに重いものを叩き割る音。
イルルのハンマーが、凍りついた装甲の継ぎ目を正確に叩いた。
黒い金属片が割れる。
岩盤が砕ける。
精霊の前脚の一部が、えぐれるように吹き飛んだ。
「効いた!」
一輝が叫んだ。
地の精霊の巨体が傾く。
片方の前脚が崩れ、頭部が大きく下がった。
黒い鎧が軋み、床に亀裂が走る。
イルルは反動で足を取られかけた。
シェスターが即座に動く。
彼はイルルの腰に腕を回し、後ろへ引いた。
「下がるぞ!」
「うん!」
イルルが引き戻される。
その直後、精霊の尾が叩きつけられた。
さっきまでイルルがいた場所の床が割れる。
シェスターはイルルを抱えたまま転がるように避け、膝をついて体勢を戻した。
「大丈夫か」
「大丈夫!」
イルルは息を切らしながらも、ハンマーを離していなかった。
紫乃はその様子を見て、少しだけ微笑む。
「いい一撃ね」
リオンは精霊の前脚を見ていた。
えぐれた場所。
露出した内部。
岩盤の奥に、一瞬だけ空洞のようなものが見えた。
『内部反応、出ました!』
フィリアの声が通信に走る。
『今の破砕で、精霊体内部に空洞反応が一瞬だけ……』
言葉は途中で止まった。
えぐれた前脚の周囲で、黒い金属片が浮き上がった。
床に散っていた破片が震え、割れた装甲の隙間へ戻っていく。
同時に、岩盤が内側から盛り上がった。
砕けたはずの部分を埋めるように、新しい岩が生える。
黒い金属片がその上へ張り付き、隙間を塞ぎ、装甲を再構成していく。
精霊の前脚が、戻っていく。
完全ではない。
だが、戦闘に支障がない程度には、あっという間に形を取り戻した。
一輝の顔から、喜びが消えた。
「なんで……」
リオンが冷静に報告する。
「外殻破壊は有効。ただし、再生が早い」
『再生開始まで、およそ二秒』
フィリアが続ける。
『内部反応は確認できました。でも、すぐに遮断されています』
イルルはハンマーを握ったまま、精霊の前脚を見ていた。
自分の一撃は効いた。
確かに砕いた。
けれど、届かなかった。
リヴァルの声が、低く響く。
『壊せる。だが、ローム主任のいる場所までは届かない』
地の精霊は、再生した前脚を床に叩きつけた。
黒い鎧が鳴る。
岩盤の身体が、再び前へ進む。
紫乃の毒は効かない。
リオンの氷弾は止めきれない。
イルルのハンマーは砕ける。
シェスターは守れる。
それでも、ナンディーヌには届かない。
古い決闘場の中央で、地の精霊は黒い鎧をまとい直し、
何事もなかったように頭を持ち上げた。




