二章 四話
砕けた岩の向こうに、保守通路が続いていた。
先ほどまで塞がれていた場所を抜けると、通路の空気がさらに冷たくなる。
壁面の金属外装は少なくなり、
補強材で押さえられた岩盤がむき出しになっている場所が増えていた。
点検オートマトンが、通路の端を静かに走る。
小さな脚で壁際を移動し、時折止まって、岩盤や配管へ細いアームを伸ばす。
光を当て、反応を読み取り、問題がなければ緑の信号を点滅させて次へ進む。
その動きは、人間の見回りよりずっと速く、ずっと淡々としていた。
ナンディーヌは先頭を歩きながら、端末に表示される点検ログを確認している。
「この辺りは、普段はメカ任せだね。人が毎日歩いて確認するには広すぎる」
「見たところ、点検密度はかなり高いですね」
リオンが携行センサーを見ながら言った。
「古い亀裂まで記録されています」
「放っておいていい亀裂と、放っておいちゃ駄目な亀裂があるからね。
メカはその境目を見つけるのが得意さ。
で、判断が必要になったら、あたしに投げてくる」
ナンディーヌは端末の画面を軽く叩いた。
「今日の岩も、その類。
自動で削るには場所が悪い。
けど、急いで住民を避難させるほどじゃない。
だから、受け入れが終わってからあたしが見る。
それだけ」
「現場の優先順位ですか」
「そういうこと」
ガイが後ろから、開いたばかりの通路を振り返る。
「それであの岩が一個減っただけ、か」
「減っただろ?」
「減ったな」
ガイは少しだけ笑った。
一輝はナンディーヌの後ろを歩いている。
右腕のパイルデバイスはまだ装着されたままだが、
杭状の機構は折り畳まれ、ロックがかかっている。
本人は工具箱を抱え、ARKの面々から少し距離を置いていた。
織葉が時折その名札を見る。
一輝はそのたびに、少しだけ背筋を伸ばした。
フィリアは胸元のレイアーツデバイスを押さえながら、周囲を見ていた。
ここは、メインホールとはまったく違う。
あちらは人を迎える場所だった。
ここは、人が暮らす場所を裏から支える場所。
人の声より機械音が多い。
足元の誘導ラインも、来訪者を歓迎するためのものではなく、
作業者を安全な方向へ導くためのものだった。
『現在位置を確認した』
通信からリヴァルの声が聞こえる。
『そこから先は、候補地点の推定範囲に入る。
リオン、ガイ、織葉。各自センサーを展開して』
「了解」
リオンが即座に返す。
ガイは腰のケースから携行センサーを取り出した。
「これ、向けりゃいいんだよな」
『まずは岩盤側へ。反応が出たら三秒固定して』
「了解」
織葉も静かにセンサーを構える。
「こちらも準備できています」
『三方向から取る。
リオンは正面、ガイは左側の岩盤、織葉は右の補強材付近。
反応が薄くても、そのまま送信して』
三人がそれぞれ位置を取った。
小型センサーの光が、岩盤や補強材をなぞっていく。
数値がリヴァルの側へ送られる。
リオンは自分の端末を見た。
「微弱反応あり。ただし、位置が安定しません」
ガイがセンサーを少し動かす。
「こっちは、出たり消えたりだな。ちょっとずらすと反応しねえ」
織葉も目を細めた。
「岩盤の奥で、何かに遮られているように感じます」
『受信している』
リヴァルの声は冷静だった。
『ただ、ノイズが多い。周辺設備の稼働反応と、岩盤の鉱物反応が重なっている』
「場所を変えますか」
リオンが聞く。
『少し待って。今、比較する』
通信の向こうで、短い沈黙が生まれた。
フィリアはその間、三人のセンサーの向きと、
リヴァルの指示と、通路の形を見ていた。
リヴァルの隣にいた時なら、こういう時に自分は何をしていたか。
送られてくる数値を並べる。
反応の強い場所だけを見るのではなく、
弱い場所、消える場所、ぶれる場所も見る。
そのぶれが、何かに遮られているのか。
それとも、見ている側の角度が悪いのか。
フィリアは胸の前で端末を握り直した。
「主任」
『フィリア?』
「私のセンサーを使いますか」
ほんの少しだけ間があった。
『使おう』
リヴァルの声が返る。
『説明通りに起動して。あとは、僕の隣にいる時と同じだよ』
その言葉で、フィリアの中の何かが切り替わった。
戦う時とは違う。
レイアーツデバイスを構える時の緊張とも違う。
自分が、どこを見ればいいのか。
何を整理すればいいのか。
それだけは、分かる。
フィリアは腰のケースから、薄い板状のセンサーを取り出した。
三人の持つ簡易センサーよりも一回り大きく、表面には複数の小さな表示窓と、
マナ反応を受けるための透明な受信面がある。
「起動します」
端末を接続する。
画面に、三人のセンサーデータが流れ込んできた。
ガイの左側岩盤。
リオンの正面。
織葉の右側補強材。
そこに、自分のセンサーが拾う周辺反応を重ねる。
最初は、ただの数字の群れだった。
だが、フィリアはそれを見慣れていた。
リヴァルの隣で、何度も見た。
何が必要な数値で、何が一度捨てていい情報か。
どこに注目すると、リヴァルが次の判断に移れるのか。
「ガイさん」
「おう」
「今の位置から、少し下です。
岩盤の境目に向けてください。
動かしたら三秒固定でお願いします」
「こうか?」
「はい。そこで」
ガイがセンサーを固定する。
フィリアの画面に、反応の端が少しだけ濃く出た。
「リオンさん、正面のまま、角度を二度だけ上に。
補強材ではなく、奥の層を取りたいです」
「了解」
リオンはすぐに角度を変えた。
「織葉さん、右の支柱側ではなく、その奥の岩肌へ。
反応が重なっているので、比較値が欲しいです」
「承知」
織葉は無駄なく位置を変える。
ナンディーヌが感心したように眉を上げた。
「へえ」
一輝も少しだけ目を丸くしている。
「すげ……」
「一輝、声」
「ッス」
フィリアはそれを聞いていなかった。
画面を見る。
三つの点。
いや、点ではない。
反応はずれているように見えるが、角度を補正すると、同じ奥行きに並ぶ。
岩盤の中に、反応を遮る層がある。
しかし、遮っているのは自然の岩ではない。
反応の途切れ方が直線的すぎる。
フィリアは自分のセンサーに、ほんの少しだけマナを流した。
受信面が淡く光る。
胸元の奥が、わずかに熱を持つ。
レイアーツデバイスとは別の感覚だった。
撃つためではない。
探るために、マナを通す。
画面のノイズが薄くなる。
岩盤の鉱物反応が、一段後ろへ引く。
設備の稼働ノイズも、周期で分けられていく。
その奥に、低く、重い反応が残った。
フィリアは息を止めた。
反応は、丸くなかった。
自然な空洞のように、不規則でもなかった。
四角い。
広い。
外側から見れば、完全な岩盤。
だが、マナ反応だけが、その内側に人工的な境界を描いている。
フィリアの指が、画面の上で止まった。
これは。
言いかけて、フィリアは口を閉じた。
ここで、自分が断定してはいけない。
見つけたのは、自分かもしれない。
けれど、確定させるのは自分の役目ではない。
フィリアは、画面上のデータを整理する。
三人のセンサー値。
自分のマナ補正後の反応。
岩盤厚。
人工境界の推定線。
周辺設備ノイズとの差分。
計算結果。
それらを一つの束にして、リヴァルへ送る。
「主任。統合データを送ります」
『受け取った』
リヴァルの声が返る。
フィリアはまだ、何も言わなかった。
ガイがこちらを見る。
「何か分かったのか?」
フィリアは一度だけガイを見た。
それから、ゆっくり首を横に振る。
「確認中です」
嘘ではない。
まだ、確認中だった。
リヴァルの通信が沈黙する。
数秒。
通路の機械音が、妙にはっきり聞こえた。
点検オートマトンが壁面を這う音。
遠くの修理アームが動く音。
一輝が工具箱の持ち手を握り直す音。
そして、リヴァルの声。
『フィリア』
「はい」
『君の計算で合っている』
フィリアは小さく息を吐いた。
『外側は岩盤だ。構造図にも空間は登録されていない。
けれど、その奥に人工的な空間がある』
その言葉で、全員の視線が岩盤へ向いた。
ただの岩に見える。
亀裂があり、補強材があり、点検用のマーキングがあるだけの岩盤。
けれど、そこに何かがある。
外からは見えない。
記録にもない。
それでも、確かにそこにある。
リオンが端末を確認する。
「人工空間……この奥にですか」
『そうだ。反応の形状は四角形に近い。かなり広い』
織葉は岩盤を見つめた。
「自然の空洞ではない、ということですね」
『自然にできた形ではない』
ガイが低く呟く。
「よりによって、岩の中かよ」
ナンディーヌはフィリアを見た。
それから、岩盤へ視線を戻す。
「よく見つけたね」
フィリアは返事に困った。
「私は、データを整理しただけです」
「それができるのが大事なんだよ」
ナンディーヌはそう言って、端末を開いた。
「で、開けるならここかい?」
リヴァルの声が返る前に、フィリアが画面を確認する。
外殻には触れない。
生活維持ラインもない。
点検ルートからも外れる。
だが、そこだけが、人工空間へ最短で届く。
「……ここです」
フィリアは岩盤の一点を示した。
「たぶん、この位置なら、空間の外壁に届きます」
今度は、言い切った。
計算結果ではなく、穴を開ける位置として。
ナンディーヌはにっと笑った。
「なら、仕事はこっちだね」
彼女は一輝へ振り返る。
「一輝。今度は穴だけだ。五パーでいくよ」
一輝はパイルデバイスのロックを確認し、小さく息を吸った。
「ウッス」
フィリアは岩盤を見つめた。
ただの岩にしか見えない場所。
けれど、その向こうに、記録にない広い空間がある。
自分はそれを見つけた。
まだ何なのかは分からない。
けれど、何もない場所ではなかった。
胸元のアイギスフレームの裏側に、クラリスの文字がある。
無事に帰れますように。
フィリアはその重みを感じながら、一歩だけ後ろへ下がった。
岩盤の前に、一輝が立つ。
パイルデバイスの杭が、静かに前へ出た。
一輝は岩盤の前に立った。
先ほどの岩塊を抜いた時とは違い、
今度は通路を塞ぐものを破壊するためではない。
岩の奥にあるはずの空間へ、穴を開ける。
それだけだった。
ナンディーヌは端末を見ながら、岩盤の一点を指示する。
「一輝。ここだ。さっきみたいに飛ばさなくていい。穴だけでいいよ」
「ウッス」
一輝は右腕のパイルデバイスを構えた。
杭状の機構が、ゆっくり前へ出る。
「五パーでいく」
「ウッス!」
返事は大きい。
けれど、動きは慎重だった。
さっきのように空気が大きく歪むことはない。
熱のような揺らぎは、一輝の肩から右腕へ細く集まり、
パイルデバイスの起動部へ収束していく。
フィリアは一歩下がって、それを見ていた。
五パー。
先ほどの十六パーで、巨大な岩を内側から砕いた。
その一部にも満たない出力で、今度は何をするのか。
「いきます!」
一輝が短く言った。
杭が岩盤へ打ち込まれる。
重い音がした。
だが、先ほどのような破砕音ではない。
岩が割れるのではなく、穿たれる音。
一点にだけ力が通り、岩盤の表面に丸い穴が開いた。
そこから細かい粉塵が落ち、奥へ向かって暗い空洞が伸びる。
一輝はすぐに杭を引き戻した。
「開きました!」
ナンディーヌが照射機を向ける。
細い光が、開いた穴の奥へ入っていった。
「……当たりだね」
その直後だった。
穴の奥から、黒いものが吹き出した。
闇の霧。
ただの空気ではない。
圧縮され、閉じ込められていたものが、出口を見つけたように一気に溢れ出す。
フィリアは反射的に胸元のレイアーツデバイスを押さえた。
織葉が一歩前に出る。
ガイも大剣の柄に手をかけた。
だが、ナンディーヌの動きは早かった。
「排出系、起動」
彼女は端末を操作する。
保守通路の天井近くで、閉じていたシャッターがいくつも開いた。
低い吸引音が響く。
吹き出した闇の霧は、通路へ広がる前に天井側へ引き寄せられ、
排出ダクトへ吸い込まれていった。
壁面の表示が黄色に変わり、次いで青へ落ち着く。
「慌てなくていいよ」
ナンディーヌは淡々と言った。
「外部の闇の霧は、上へ逃がす機構がある。
シェルター内に溜めるような作りにはしてない」
『こちらでも排出を確認した』
リヴァルの声が通信に入る。
『霧濃度、上昇は一時的。区画内の維持機能に問題なし』
リオンは端末を見た。
「こちらも異常値は低下中。探索継続可能です」
ガイは息を吐く。
「便利なもんだな」
「便利なもんは使わなきゃ損だって言ったろ」
ナンディーヌは笑い、一輝へ視線を向けた。
「穴、もう少し広げるよ。今の縁を崩さないように、追加で二発。
三パーで十分」
「ウッス!」
一輝は再びパイルデバイスを構えた。
今度はさらに小さな衝撃が二度。
穴は人が一人通れるほどの大きさへ広がった。
穴の縁はきれいではない。
けれど、無理に破壊したわけでもない。
岩盤を必要な分だけ削り、奥へ続く入口を作ったような開き方だった。
ナンディーヌは照射機を奥へ差し入れる。
「中の霧、もう少し抜く」
排出音が続いた。
闇の霧が薄くなるにつれ、奥の空間が見えてくる。
最初に見えたのは、壁だった。
ただし、自然の壁ではない。
岩盤に覆われた外側とは違い、奥には人工的に整えられた広い空間があった。
フィリアは思わず息を呑む。
「本当に……部屋がある」
「部屋って広さじゃねえぞ」
ガイが低く言った。
穴の向こうには、四角く広い空間が広がっていた。
天井は高い。
床も広い。
それでいて、現代のシェルター設備とはまったく違う。
照明も誘導ラインもない。
金属外装も配管もない。
壁や床は、古い石材と岩盤が混ざり合うように組まれている。
人工物。
だが、外側は完全に岩だった。
まるで岩盤そのものが、空間を隠すために後から覆いかぶさったようだった。
ナンディーヌは先に穴をくぐり、足元を確認する。
「床、問題なし。霧も許容値まで落ちた。入れるよ」
一行は、順に内部へ入った。
中へ足を踏み入れた瞬間、音の響き方が変わった。
保守通路の機械音が遠ざかる。
代わりに、何もない広い空間に、靴音だけが反響した。
フィリアはセンサーを起動したまま、周囲を見回す。
闇の霧はまだ完全には消えていない。
床に薄く漂い、壁際に溜まり、
天井の割れ目へ向かってゆっくり引き上げられている。
その奥で、古い傷跡が姿を現した。
四面ある壁のうち、一面だけが、ひどく崩れていた。
他の三面は傷だらけではあるが、形を保っている。
しかしその一面だけは違う。
壁そのものが、何度も叩きつけられ、削られ、
押し潰されたようにぼろぼろになっていた。
石材の層は裂け、岩盤はえぐれ、崩れた破片が床へ積もっている。
さらに、その崩れた壁の一部には、円錐状の穴が穿たれていた。
一点から奥へ向かって、深く、鋭く。
まるで巨大な杭か、圧縮された衝撃が壁を貫いたような痕跡だった。
「なんだよ、これ」
ガイの声から、いつもの軽さが消えていた。
床にも、無数の跡がある。
人一人が叩きつけられたようなへこみ。
靴跡のような圧痕。
浅いクレーター。
そして、その中に混ざって、人間の数倍はある巨大なクレーターが五つ。
床に落ちた隕石の跡のように、丸く沈んでいた。
織葉は壁と床を見比べる。
「戦場、ですか」
リオンは端末を構え、映像を記録し始めた。
「ただの戦場とは思えません。痕跡の密度に対して、方向が散っていない」
フィリアもセンサーの映像記録をリヴァルへ送る。
「主任。内部映像、送ります」
『受け取った』
リヴァルの声が、少し低くなった。
『全員、その場で動きを抑えて。足跡や破損痕を踏まないように』
「了解」
ガイが足を止めた。
織葉もその場で姿勢を整える。
リオンは壁際の記録を続ける。
ナンディーヌは内部の構造を見回し、感心したように口を鳴らした。
「よく残ってるね。外から完全に岩盤に飲まれてるのに、中は形がある」
「構造図にはない空間です」
リオンが言う。
「当然だろうね。少なくとも、今のシェルター工事で作ったものじゃない」
ナンディーヌは壁へ触れずに、照射機を向けた。
「年代までは現場じゃ分からないけど、古い。うちの設備よりずっと前だ」
フィリアは床面のへこみを見た。
小さなもの。
大きなもの。
人が倒れたような跡。
何か巨大なものが踏み込んだような跡。
そのすべてが、闇の霧の薄い残り香の中に沈んでいる。
『フィリア』
「はい」
『映像解析を手伝って。
床面の圧痕、壁の衝撃痕、クレーターの中心点を抽出。
大きなものと小さなものに分ける』
「分かりました」
リヴァルの指示は、長くなかった。
けれどフィリアには、何をすればいいか分かった。
僕の隣にいる時と同じ。
その言葉が、まだ耳の奥に残っている。
フィリアは端末の表示を切り替えた。
「ガイさん、足元の大きなへこみの近くに立たないでください。
比較のために、靴跡のサイズが欲しいです」
「俺のか?」
「はい。踏まない位置で、横に立ってください」
「分かった」
ガイが指示通りに立つ。
フィリアはその足元と、床にめり込んだ古い圧痕を比較した。
大きさは近い。
靴の形も、人間のものに見える。
ただし、深さが違う。
「主任。人間サイズの足跡があります。ガイさんと大きさは近いです」
『深度は?』
「現代の通常装備では再現困難です。床材への沈み込みが深すぎます」
ガイが顔をしかめる。
「俺が全力で踏んでも、こんな跡つかねえぞ」
『だろうね』
リヴァルは即答した。
『でもサイズは人間の範囲だ』
リオンが壁面の痕跡を追う。
「大きなクレーターは五つ。
中心点の高さと角度から、同一の大型対象が衝突、
または叩きつけられた可能性があります」
織葉は崩壊した壁を見つめていた。
「こちらの壁は、攻撃を受けたというより、
同じ方向から幾度も圧を受けて崩れたように見えます」
『映像を重ねる』
リヴァルの声が返る。
少しの沈黙。
フィリアの端末に、解析補助線が表示された。
圧痕。
衝撃痕。
移動経路。
大きな痕跡と、小さな痕跡。
それらを結ぶ線は、広範囲へ散っていなかった。
部隊同士の交戦ではない。
多数が入り乱れた戦争でもない。
二つの存在が、何度もぶつかったように見える。
『ここで行われたのは、戦争ではない可能性が高い』
リヴァルが言った。
『少なくとも、複数部隊の交戦ではない。
痕跡の系統が大きく二つに分かれている』
「二つ」
フィリアが繰り返す。
『一つは人間サイズ。
もう一つは、それよりはるかに大きい。
大型の装甲、あるいは人型とは限らない対象』
ガイは大きなクレーターを見る。
「化け物同士がぶつかった跡にしか見えねえけどな」
『現代の基準なら、そう見える』
リヴァルの声は静かだった。
『でも、人間サイズの足跡がある。ここには、人間がいた』
織葉が低く呟いた。
「一対一……決闘、ということでしょうか」
『その可能性が高い』
決闘。
その言葉が、空間に落ちた。
フィリアは周囲を見回した。
壁の崩壊。
床のへこみ。
巨大なクレーター。
めり込んだ足跡。
ここで、人間と何かが戦った。
誰にも知られず。
記録にも残らず。
この岩盤の中で。
「記録には、ないんですか」
フィリアが聞いた。
『少なくとも、僕が確認できる範囲にはない』
リヴァルは少し間を置いた。
『ただ、旧時代の人類は魔族との戦争に勝利している。
ここがその時代の戦闘跡だとするなら、
この場でも人間が勝った可能性は高い』
「勝った……」
フィリアは崩れた壁を見る。
勝利の跡には見えなかった。
あまりにも壊れすぎている。
あまりにも激しすぎる。
けれど、もし人間が勝ったのなら。
この足跡の主は、ここから出ていったのだろうか。
それとも。
フィリアがそこまで考えた時だった。
リオンが、ふと動きを止めた。
彼は壁面の映像を記録していた。
だが、その視線が、崩れた壁際の一点へ吸い寄せられた。
探していたわけではない。
センサーに強い反応が出たわけでもない。
ただ、その一点だけが、リオンの目を奪った。
崩れた石材の隙間。
薄い闇の霧が抜けていく中で、白く光るものが見えた。
白銀よりも白い。
金属でありながら、光を反射しているだけではないように見える。
小さな破片だった。
曲面を持ち、何かの装具の一部のように見える。
表面には、旧時代の祈りを示すような紋章が刻まれていた。
リオンは無言で近づいた。
「リオン?」
ガイが声をかける。
リオンは答えなかった。
膝をつき、崩れた石の隙間に手を伸ばす。
指先がその白い金属片に触れた。
冷たい。
なのに、ひどく手に馴染んだ。
リオンはそれを拾い上げた。
掌に収まる程度の破片。
しかし、それを握った瞬間、リオンはなぜか、手を離すという選択肢を失った。
軍人として、発見物は報告する。
回収手順に従う。
必要なら保管容器へ入れる。
それは分かっている。
分かっているのに、
その破片を誰かに渡すことだけが、ひどく間違っているように思えた。
「主任」
リオンは通信へ声を送った。
「未知の金属片を発見。マナ応答あり。
形状から、旧時代装具の一部と思われます」
『映像を』
リオンは破片を手の上で開き、映像を送る。
フィリアのセンサーにも、微弱な反応が出た。
強くはない。
だが、安定している。
「反応があります」
フィリアが言った。
「周囲の残留マナとは違います。金属片そのものが、微弱に応答しています」
『現地で断定はしない』
リヴァルはすぐに言った。
『回収して、施設で解析する。リオン、保管できる?』
「可能です」
リオンは答えた。
答えたのに、破片を握った手は開かなかった。
ガイがそれを見ていた。
「リオン」
「問題ありません」
「まだ何も言ってねえ」
「問題ありません」
ガイは少しだけ眉を上げる。
織葉も静かにリオンを見る。
「リオン殿」
「はい」
「その破片を、手放したくないのではありませんか」
リオンは即座に否定しようとした。
しかし、言葉が出なかった。
手は、白い金属片をしっかり握っている。
力を込めすぎているわけではない。
だが、離す気配もない。
「……回収物として、保持します」
リオンはようやくそう言った。
織葉はそれ以上、何も言わなかった。
ガイも肩をすくめる。
「なら、持ってろよ。そんな顔してるやつから取り上げるもんじゃねえ」
「顔には出していません」
「出てる」
「……そうですか」
フィリアはリオンの手を見た。
白い金属片は、彼の掌の中で、かすかに光っているように見えた。
『リオン。そのまま保持していて構わない』
リヴァルが言った。
『ただし、帰還後に解析へ回す。現時点での判断は、未知の旧時代遺物。
それ以上は保留だ』
「了解」
リオンは答えた。
だが、その破片をしまう時も、動きは普段より少しだけ慎重だった。
まるで、ただの回収物ではなく、大事なものを扱うように。
調査はその後も続いた。
フィリアは空間全体のマナ反応を記録し、
リオンは映像と痕跡の位置情報を取り、織葉は壁面の破壊方向を確認した。
ガイは比較用に立ち位置を調整し、
ナンディーヌは霧の排出ログと構造安定性を見ていた。
一輝は入口近くで、パイルデバイスのロックを確認しながら待機している。
空間の中から、新たな敵は出てこなかった。
精霊の気配も、直接現れることはない。
ただ、古い戦いの跡だけが、そこに残されていた。
『必要なデータは取れた』
リヴァルの声が通信から響く。
『現時点で、封印そのものに触れる準備はない。
精霊を呼び出す装備も、止める装備も、今日は持ち込んでいない』
フィリアは端末を見る。
記録済みの映像。
圧痕データ。
マナ反応。
未知の金属片。
『今回の任務は移送が主目的だ。調査としては、ここまでで十分だ』
リヴァルは続けた。
『調査は完了した。戻れる時に戻ってきてくれて構わない』
「了解」
リオンが返す。
織葉も頷いた。
「承知しました」
ガイは周囲をもう一度見回した。
「戻るか」
フィリアも頷こうとして、ナンディーヌの声で止まった。
「しかし、いいところ見つけたね」
全員がナンディーヌを見た。
ナンディーヌは空間を見回している。
崩れた壁。
広い床。
高い天井。
無数のクレーター。
そのすべてを、恐ろしいものとしてだけではなく、
現場の空間として見ていた。
「霧をきっちり抜いて、床をならして、危ない壁に補強を入れればさ。
運動場とか、訓練スペースに使えそうなくらい広いじゃないか」
ガイが呆れたように言う。
「ここ見て、その感想かよ」
「使える場所は使う。住民も増えたばっかりだしね」
ナンディーヌは悪びれない。
「それに、こういう壊れ方をしてるなら、補強の入れ方も分かりやすい。
完全に潰れてるより、よっぽど助かるよ」
リオンが少しだけ目を細めた。
「旧時代の決闘跡を、運動場に」
「決闘跡でも、床は床だろ」
ナンディーヌは笑った。
「もちろん、管理官と相談してからだけどね」
フィリアはもう一度、空間を見た。
過去の戦いの跡。
誰かが、ここで戦った場所。
誰にも知られず、記録にも残らず、それでも確かにあった場所。
それがいつか、子供たちが走る場所になるかもしれない。
人が身体を動かし、笑い声が響く場所になるかもしれない。
その考えは、不思議だった。
けれど、嫌ではなかった。
「……そうなったら」
フィリアは小さく言った。
「ここも、少し変われるんでしょうか」
ナンディーヌはフィリアを見る。
「場所は使われ方で変わるよ」
彼女は、あっさりと言った。
「壊すために使われた場所でも、次は生きるために使えばいい」
その言葉に、フィリアは何も返せなかった。
胸元のアイギスフレームの裏側には、クラリスのサインがある。
無事に帰れますように。
フィリアはその文字を思い出しながら、静かに頷いた。
「戻りましょう」
リオンが言った。
その手には、白く光る小さな金属片がある。
彼はそれを、まだ大切そうに握っていた。
一行は、開けた穴へ向かって歩き出す。
背後には、岩盤に囲まれた広い四角の空間が残された。
古い戦いの跡を抱えたまま。
そして、初めて現代の人間に見つけられた場所として。
帰還車両の準備は、出発時よりもずっと静かに進んでいた。
荷物はほとんどない。
移送してきた避難民たちは、このシェルターの居住区へ案内されている。
メインホールのざわめきも、今は少し遠くなっていた。
帰るのは、ARKの移送組だけだった。
受け入れ区画では、職員とオートマトンが後片づけを進めている。
案内表示は通常運用へ切り替わり、床の誘導ラインも淡い白へ戻っていた。
エドガーは、帰還車両の前まで見送りに来ていた。
「本日は、本当にありがとうございました」
白い髪を後ろへ整えた初老の管理官は、
いつものように背筋を伸ばし、静かに頭を下げた。
「新しい住民の皆さまは、ひとまず居住区へ案内できました。
数名はすでに休まれています」
「そりゃよかった」
ガイが言った。
「こっちも、運んだ甲斐がある」
「ええ。皆さまが無事に届けてくださったおかげです」
エドガーはそう言って、今度はフィリアへ視線を向けた。
「レイフィールドさんも、お疲れさまでした」
「私は……ほとんど座っていただけです」
フィリアは少し困って答えた。
「移動中も、仕様書を読んでいましたし」
「それも大切な仕事です」
エドガーは穏やかに言った。
「座っているだけで、不安な人のそばにいることもあります。
学ぼうとする姿を見せることで、誰かが安心することもあります」
フィリアはすぐに返事をできなかった。
褒められた、というより。
見られていた、と思った。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
エドガーは柔らかく微笑んだ。
少し離れた場所では、ナンディーヌが端末を片手に職員へ指示を出している。
「補強材の仮見積もり、先に出しといて!
あの穴の周り、次に使うまでには足場入れるよ!」
「ッス!」
一輝の返事が響いた。
「一輝、返事より先にパイルデバイス片づけ!」
「ッス!」
「あと走るな!」
「ッス!」
一輝は走りかけて、慌てて歩きに変えた。
ナンディーヌはそれを見届けると、こちらへ歩いてくる。
「次に来る時までには、あの入口の周りだけは仮補強しとくよ。
勝手に奥へ入ったりはしないから安心しな」
リオンが頷く。
「お願いします。内部は未解析の痕跡が多すぎます」
「分かってるって。危ない場所を運動場にするほど雑じゃないさ」
ガイが目を細めた。
「する気はあるんだな」
「広いからね」
ナンディーヌは悪びれなかった。
「住民も増えたし、使える場所は使いたい。
もちろん、危なくなくしてからだけどさ」
織葉は静かに礼をした。
「本日は案内、ありがとうございました」
「こっちこそ。あんたたちのおかげで、妙なものを見つけられたしね」
ナンディーヌはフィリアを見た。
「特にあんた。よく見つけたよ」
フィリアは少しだけ視線を落とす。
「データを整理しただけです」
「それができるのが現場じゃ助かるんだよ」
ナンディーヌは短く言った。
「次も頼むよ」
フィリアは胸元のレイアーツデバイスに触れた。
「……はい」
その時、通信端末からリヴァルの声が入った。
『ロウウェル管理官。受け入れ対応と調査協力、感謝します』
エドガーは端末へ向き直る。
「こちらこそ。
アニム主任の手配は見事でした。
若くして、これほど的確に人と情報を動かせる方はそう多くありません」
通信の向こうが、一瞬静かになった。
『……ありがとうございます』
ガイが小声で言う。
「やっぱ苦手なんだな」
『聞こえている』
「聞こえるように言った」
フィリアは思わず小さく笑いかけて、すぐに口元を押さえた。
エドガーは何も気にした様子なく、穏やかに続ける。
「次回の調査時も、可能な限り協力いたしましょう」
『助かります。次は、今日より準備を整えて向かいます』
「ええ。こちらも迎える準備をしておきます」
帰還車両のハッチが開いた。
リオンが先に乗り込み、続いて織葉、ガイが入る。
フィリアは最後に乗る前に、一度だけ受け入れ区画を振り返った。
ここに、人を届けた。
ここで、旧時代の戦いの跡を見つけた。
そして、まだ何も終わっていない。
クラリスの姿はもうない。
取材班とともに、安全確認後に帰ったのだと聞いている。
けれど、左肩のアイギスフレームの裏側には、あの文字が残っている。
無事に帰れますように。
フィリアはそっと左肩に触れた。
今日の任務は、帰るところまでが任務だ。
「フィリア」
ガイが車内から呼ぶ。
「行くぞ」
「はい」
フィリアは車両に乗り込んだ。
ハッチが閉まる。
外では、エドガーが静かに手を上げ、ナンディーヌが軽く片手を振っている。一輝は工具箱を抱えたまま、慌てて頭を下げた。
車両が動き出す。
受け入れ区画の灯りが、少しずつ後ろへ流れていく。
フィリアは座席に腰を下ろし、端末を抱え直した。
また、ここへ来る。
その時はきっと、今日とは違う理由で。




