二章 二話
織葉の私室は、整っていた。
余計なものは少ない。
壁際には訓練着が畳まれ、棚には整備用の布と工具が種類ごとに並んでいる。机の上には、鞘から抜かれたカタナアーツデバイスが置かれていた。
織葉は椅子に腰かけ、刃部に似た触媒外装を丁寧に拭いていた。
布を滑らせる手つきは静かで、迷いがない。
その横で、端末の通信画面が開いている。
画面の向こうには、明るい髪色の少女が映っていた。
『で? 会議でうちの名前出たん?』
「出たいうか、アドレメリア家の名が少しな」
織葉の口調は、会議中のものより少し柔らかかった。
武人として整えた言葉ではない。
家の中で話す時の、私生活の声だった。
『え、なにそれウケる。誰が言ったん?』
「かあちゃんや」
『あー、紫乃さんか。そりゃ出るわ』
クリスティナ・アドレメリアは、画面の中でけらけらと笑った。
織葉はカタナアーツデバイスの接続部を確認しながら、少しだけ眉を寄せる。
「笑い事やあらへん。うちの国も十分強いと、ちゃんと言うといたわ」
『はいはい、織葉のとこも強い強い』
「その言い方、腹立つなぁ」
『褒めてるって。マジで』
クリスは悪びれなかった。
織葉は小さく息を吐き、布を置いた。
「それで、今から輸送任務に出ることなってん」
『輸送? 避難民の?』
「せや。移送先が、今日の番組に出てたモデルケースシェルターらしい」
『あー、クラリスちゃんが行ってたとこ?』
織葉の手が止まった。
「……せや」
クリスの目が光った。
『え、待って。クラリスちゃん、まだ現地にいるかもってこと?』
「可能性はあると、リヴァル殿は言うてはった」
『やば。織葉、サインもらってきて』
「任務や」
『任務の後でいいし。てか、うちの分も』
織葉は目を閉じた。
少しだけ考える。
「……頼めそうなら、頼んでみる」
『マジ? 神じゃん』
「神やあらへん」
『じゃあ剣豪』
「もっと違う」
クリスは楽しそうに笑った。
織葉はカタナアーツデバイスを鞘へ収める。
金属が静かに噛み合う音がした。
『で、そっちはどうなん? ARKって、今かなり大変なんでしょ』
「大変やな」
織葉は少しだけ目を伏せた。
「とんでもない避難民もおる」
『とんでもないって、強い系?』
「強い、とは少し違うなぁ」
『じゃあ何系?』
織葉は言葉を探した。
フィリアのことを軽く話すには、あまりに説明が難しい。
あの光。
あの翼。
そして、何も分からないまま震えていた表情。
「……何もでけへんと思とった子が、何かを起こしてまう系やろか」
『なにそれ。めっちゃ気になるんだけど』
「うちも、まだよう分からん」
『ふーん』
クリスは少しだけ真面目な顔になった。
『織葉がそう言うなら、本当にすごい子なんだね』
「すごいというより、危うい」
『そっか』
通信の向こうで、クリスは少しだけ黙った。
それから、すぐにいつもの調子に戻る。
『まあ、織葉がいるなら大丈夫っしょ』
「簡単に言うなぁ」
『実際そうだし』
織葉は返事をしなかった。
けれど、表情は少しだけ和らいでいた。
「任務を続けてけば、そっちに行くこともあるかもしれへん」
『うちのとこ?』
「可能性はある」
『じゃあ来る時連絡して。歓迎するし』
「任務で行くんやけど」
『知ってる。でも友達が来るなら、歓迎くらいするじゃん』
織葉は小さく笑った。
「相変わらずやな」
『そっちこそ』
その時、扉の外から声がした。
「織葉ちゃん、そろそろよ」
紫乃の声だった。
織葉は端末から目を離さずに返事をする。
「わかった、かあちゃん」
画面の向こうで、クリスがにやりと笑った。
『今の呼び方かわい』
「黙り」
『はいはい』
織葉はカタナアーツデバイスを腰に固定し、通信画面へ向き直った。
「ほな、行ってくるわ」
『気ぃつけてね。クラリスちゃんのサイン、うちの分も忘れないで』
「任務が先や」
『任務の後でいいって』
「覚えとく」
『それ、だいたい忘れるやつじゃん』
「忘れへん」
織葉は短くそう言って、通信を切った。
端末画面が暗くなる。
同時に、扉が開いた。
紫乃が顔を覗かせる。
「準備はできた?」
「はい」
織葉はいつものように背筋を伸ばした。
先ほどまでの柔らかい口調は、もう少し奥へしまわれている。
紫乃は部屋の中を見回し、消えたばかりの端末画面に視線を向けた。
「誰と話してたの?」
織葉は少し考えた。
そして、真面目な顔で答える。
「サインをもう一枚貰う約束です」
紫乃は一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、すべて察したように口元を緩める。
「うふ」
「何ですか」
「いいえ。何でもないわ」
紫乃は楽しそうに背を向けた。
「行きましょうか。クラリスさんに会えるといいわね」
「任務です」
織葉は即答した。
「任務のために参ります」
「ええ」
紫乃は廊下へ歩き出す。
「そういうことにしておきましょう」
織葉は一度だけ、自分の腰のカタナアーツデバイスに手を添えた。
それから、静かに部屋を出た。
搬入口前の区画は、いつもの訓練場とも、会議室とも違う熱を帯びていた。
床には誘導ラインが表示され、
移送用の車両が数台、一定の間隔を空けて並んでいる。
車両の後部ハッチは開かれ、
職員たちが荷物の確認と座席の割り振りを進めていた。
「一号車、残り四名入れます。荷物は後部へ」
「医療申告のある方はこちらです。乗車前に確認します」
「お子さんは保護者の方と同じ列でお願いします」
職員の声が重なる。
だが、混乱はなかった。
避難民たちは荷物を抱え、不安そうにしながらも、
表示された誘導ラインに従って少しずつ進んでいく。
その列の横で、シェスターが大きな荷物を受け取った。
「それ、こっちで預かる。車内に持ち込むと足元塞ぐぞ」
「す、すみません」
「謝んな。引っ越しなんて荷物が多くて当たり前だ」
シェスターは軽く笑い、荷物を職員へ渡す。
そのすぐ近くでは、紫乃が小さな子供の目線に合わせてしゃがんでいた。
「大丈夫よ。お母さんと同じ車に乗れるわ。ほら、番号札も同じでしょう?」
「……ほんと?」
「ほんと。もし迷いそうになったら、そこの青い線を見て歩いてね」
子供は小さく頷き、母親の袖を握り直した。
紫乃は立ち上がると、何気ない仕草で周囲を見た。
その目は、避難民だけを見ているわけではない。
搬入口の上部。車両の影。荷物置き場の奥。職員の動線。
視線が一瞬ずつ通り過ぎ、何も異常がないことを確かめていく。
作業をしている。
同時に、守っている。
イルルもまた、荷物の受け渡しを手伝っていた。
新しいハンマーアーツデバイスは背中に固定されている。
けれど今、その手にあるのは武器ではなく、小さな鞄だった。
「これは、座席の下に置けると思います」
「あ、ありがとう」
避難民の女性が鞄を受け取る。
その視線が、一瞬だけイルルの肩に向いた。
前の襲撃の時、イルルが傷を負った場所だ。
今は何も残っていない。
けれど、見た人の記憶までは消えない。
女性は小さく頭を下げた。
「この前は……助けてくれて、ありがとう」
イルルの手が止まった。
「……いえ」
声が少し詰まる。
それでもイルルは、逃げなかった。
「無事で、よかったです」
女性はもう一度頭を下げ、車両へ向かった。
その少し後ろで、別の避難民がイルルを見て、すぐに目を逸らした。
イルルはそれにも気づいた。
気づいて、何も言わなかった。
横からシェスターが歩いてくる。
「全部が今日変わるわけじゃねえよ」
「……はい」
「でも、今の一人は礼を言った」
イルルは胸の前で手を握った。
「はい」
「なら、今日はそれで十分だ」
シェスターはそれだけ言うと、また別の荷物を運びに行った。
イルルは少しだけ息を吸い、次の避難民へ向き直る。
「お荷物、確認します」
その声は、さっきよりわずかに前へ出ていた。
車両列の外側では、織葉が立っていた。
カタナアーツデバイスは腰にある。
姿勢は静かで、視線は鋭い。
搬入口へ向かう人の流れを妨げない位置に立ちながら、
彼女は区画全体を見ていた。
「後方側、異常なし」
織葉の声が通信に入る。
『確認した。織葉、引き続き後方警戒を』
「承知」
リヴァルの声は、区画内の通信端末から聞こえていた。
本人はここにいない。
それでも、搬入口の各所に設置された小型表示機には、
車両ごとの乗車状況、荷物量、医療申告、
残り人数が次々と表示されている。
『二号車、座席数に余裕がある。
親子連れを一組そちらへ。
ガイ、乗車口の混雑を少し抑えてくれ』
「了解」
ガイは一号車の乗車口近くに立っていた。
大剣型のブレードアーツデバイスを背負った姿は、
ただそこにいるだけで壁のように見える。
「慌てんな。車は逃げねえ。子供と年寄りが先だ」
大きな声だが、不思議と威圧感はない。
避難民の足取りが、少し整う。
「足元見ろよ。段差あるぞ」
ガイは片手で手すりを叩き、乗り込む老人に腕を貸した。
老人が座席へ向かうと、すぐに次の人へ視線を向ける。
「荷物は職員に渡せ。膝の上に抱えるな。揺れた時に危ねえ」
その後ろで、フィリアはレイアーツデバイスを胸元に肩掛けし、
車両のそばに立っていた。
銀灰色のフレームが、搬入口の白い照明を鈍く反射している。
受け取った時よりは落ち着いている。
けれど、まだ体に馴染んでいるとは言えなかった。
肩掛けベルトの位置を直そうとして、少し戸惑う。
右手で本体を支え、左手をどこに置けばいいのか迷う。
そのたびに、レイアーツデバイスがわずかに揺れた。
その様子を、リオンが見ていた。
リオンは先導車両の外部確認を終え、静かに近づいてくる。
「フィリア隊員」
フィリアは一瞬、反応が遅れた。
「……はい」
名前に続くその呼び方が、自分に向けられたものだと分かるまで、
ほんの少し時間がかかった。
リオンは表情を変えない。
「出発前に、最低限の保持姿勢を確認します」
「今、ですか」
「今です」
リオンはレイアーツデバイスを指した。
「その装備を携行して車両に乗る以上、持ち方を知らないままでは危険です」
フィリアは小さく頷いた。
「お願いします」
ガイが乗車口から顔だけこちらへ向けた。
「お、訓練か?」
「基礎確認です」
リオンは短く答える。
「フィリア隊員。まず、銃口にあたる部分を不用意に人へ向けないでください」
フィリアは慌てて本体の向きを下げた。
「すみません」
「謝罪ではなく、修正を」
「はい」
「必要以上にトリガーへ指をかけない。
撃つ意思があるかどうかに関わらず、これは基本です」
リオンはフィリアの右手の位置を指で示した。
フィリアは慎重に握り直す。
「次に姿勢です。今回は一つだけ覚えてください」
「一つだけ、ですか」
「複数の姿勢を教えても、実戦で混乱します」
リオンは床を指した。
「左膝を立てます。
右膝は床へ。
左肩を前に出し、アイギスフレームを正面へ向ける。
右手でグリップ。
左手で本体を保持。
身体を小さくしながら、視線は落とさない」
フィリアは指示通りに動いた。
ぎこちない。
膝をつく位置も少し浅い。左肩を前に出そうとして、上体が傾きすぎる。
リオンは淡々と直した。
「左足を半歩前へ」
「はい」
「上体を倒しすぎない」
「はい」
「左肩は前。ですが、顔まで隠さないでください。視界が失われます」
「はい」
ガイが感心したように言った。
「よく知ってるな、リオン」
「座学と、警察組織との合同訓練で基礎運用は修学済みです」
「今どきガンアーツなんて、実戦じゃおもちゃみたいなもんだろ」
「戦場での主力装備としては、その認識で間違いありません」
リオンは否定しなかった。
「ですが、基礎姿勢と安全管理は別です」
「軍人だな」
「隊員ですから」
ガイは肩をすくめた。
フィリアは膝をついたまま、レイアーツデバイスを支えていた。
重い。
一キロほどと聞いていたが、数字で思う重さと、任務前に構える重さは違った。
左肩のアイギスフレームも、ただの装備ではなく、
自分の体の向きを決めるものになっている。
「フィリア隊員」
「はい」
「今教えたのは、この装備固有の性能ではありません。
ガンアーツデバイスを携行する者の最低限の姿勢です」
リオンはフィリアを見下ろした。
「この装備の仕様は、仕様書を読んでください」
「仕様書……」
リオンは通信へ視線を向けた。
「主任。レイアーツデバイスの仕様書を」
少し間があった。
『送るよ』
リヴァルの声が返る。
『本当は、輸送中に少し確認してもらう程度の予定だったんだけどね。
今回は移送が主目的だ。
フィリアを戦闘に出すつもりはない』
「正式装備を携行するなら必要です」
リオンは迷わず答えた。
通信の向こうで、リヴァルが小さく息を吐いた気配がした。
『君が正しい』
フィリアの端末が短く鳴った。
画面に、新しい資料名が表示される。
レイアーツデバイス運用仕様書。
その下に、警告文と項目一覧がずらりと並んでいた。
フィリアは思わず画面を見つめる。
「……多いですね」
「熟読してください」
リオンは即答した。
「はい」
フィリアは膝を戻し、立ち上がった。
少しふらつきかけると、ガイが横から軽く支えた。
「大丈夫か」
「はい。ありがとうございます」
「出発前から転ぶなよ」
「気をつけます」
ガイは笑い、乗車口を親指で示した。
「お前は俺と一号車だ。避難民と同じ車両に乗る」
「はい」
「怖くなったら言え」
フィリアは少しだけ考えた。
「怖いです」
ガイは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、にやりと笑う。
「正直でよろしい」
フィリアは小さく息を吸った。
「でも、行きます」
「それで十分だ」
乗車口の周囲では、最後の確認が進んでいた。
職員が名簿を読み上げ、乗り込んだ避難民の人数を確認する。
「一号車、乗車完了」
「二号車、荷物固定完了」
「医療車、対象者全員確認済み」
「後方車両、準備完了」
イルルが最後の荷物を職員に渡した。
紫乃は乗車列が空になった搬入口を見渡し、シェスターに頷く。
シェスターは腕を組み、車両のハッチが閉じられていくのを見ていた。
「行ってらっしゃい」
イルルが小さく言った。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からないような声だった。
それでも、一号車の窓際に座った子供が、イルルに向かって小さく手を振った。
イルルは驚いたように目を開く。
それから、少しぎこちなく手を振り返した。
重いハッチが閉まる。
車両内部の座席灯が点き、誘導ラインが青から白へ変わった。
リオンは先導車へ向かう。
織葉は後方警戒位置へ戻る。
紫乃とシェスター、イルルは搬入口側に残り、出発する車列を見送る位置についた。
彼らは移送車両には乗らない。
だが、車列がこの区画を離れるその瞬間まで、ここもまた防衛線だった。
『全車両、最終確認』
リヴァルの声が区画に響く。
『移送対象者、乗車完了。
荷物固定、完了。
医療確認、完了。
外部ゲート、開放準備』
搬入口の奥で、巨大な隔壁が低い音を立てた。
空気がわずかに震える。
一号車の中で、フィリアは座席に腰を下ろし、
胸元のレイアーツデバイスを押さえた。
隣にはガイが座っている。
膝の上には端末。
開いたままの仕様書には、まだ読み切れないほどの項目が並んでいた。
『移送車列、発進準備』
フィリアは窓の外を見た。
搬入口に立つイルル、シェスター、紫乃。
少し離れた位置で警戒を続ける職員たち。
その向こうで、外へ続く隔壁が開いていく。
ガイが言った。
「まずは、無事に届ける。それだけ考えろ」
フィリアは端末を握り直した。
「はい」
車両の床が、静かに震え始めた。
車両が動き出すと、搬入口の灯りが少しずつ後ろへ流れていった。
厚い隔壁の向こう側へ出る。
その瞬間、車内の空気がわずかに変わった。
誰かが小さく息を呑む。
窓の外には、シェルター内部の白い照明ではなく、
外界へ続く移送用通路の淡い誘導灯が並んでいた。
道は整備されている。
防壁もある。
けれど、そこはもう、普段の生活区画ではなかった。
一号車の中で、フィリアは膝の上に端末を置いていた。
画面には、先ほどリヴァルから送られてきた仕様書が開かれている。
レイアーツデバイス運用仕様書。
題名の下には、警告文、基礎仕様、使用者制限、
運用距離、交換部品、整備項目が並んでいた。
フィリアは一行ずつ、視線で追っていく。
隣のガイが横目でそれを見た。
「よくそんなの移動中に読めるな」
「私、学生なので」
フィリアは画面から目を離さずに答えた。
「通学中に読み物をすることは多くて」
「通学中に仕様書は読まねえだろ」
「仕様書は、初めてです」
ガイは少しだけ笑った。
「だろうな」
車両が緩やかに曲がる。
避難民たちは座席に身体を預け、手荷物を抱えたり、
固定ベルトを握ったりしていた。
小さな子供は母親の腕に顔を寄せている。
老人は窓の外を見ようとして、すぐに視線を落とした。
誰も大きな声では話さない。
移送が始まった実感だけが、車内に静かに広がっていた。
フィリアは仕様書を読み進める。
総重量、約一・〇キログラム。
携行方式、胸部肩掛けベルト。
推奨基本姿勢、片膝膝射。
左肩装備、アイギスフレームとの連動を前提。
有効干渉距離、百五十メートル以内。
最大干渉距離、二百メートル前後。ただし効果不安定。
二百メートル以遠、測定不可。
フィリアの指が、画面の上で止まった。
「百五十メートル……」
「長いのか?」
ガイが聞いた。
「分かりません」
フィリアは正直に答えた。
「でも、仕様上は短距離から中距離の支援用、と書いてあります」
ガイは画面を覗き込んだ。
「共通語で書いてあるはずなのに、半分くらい分からねえな」
「専門用語が多いんだと思います」
「お前、それ読んで分かるのか?」
「分からないところは、あとで主任に聞きます」
「学生だな、お前」
フィリアは少しだけ困ったように笑った。
「そうですね」
車内前方の表示板に、外部環境情報が映る。
闇の霧濃度、低。
予測経路、影響軽微。
先導車側から通信が入った。
『こちらリオン。予報通り、経路東側に低濃度の闇の霧を確認。
車列への直接影響は軽微です』
『了解』
リヴァルの声が返る。
『ルート変更は?』
『不要です。現在の速度で通過可能と判断します』
『そのまま進行。異常値が出たら即時報告を』
『了解』
通信が切れる。
フィリアは窓の外へ目を向けた。
遠くに、薄い黒い靄のようなものが見える。
雲ではない。
霧でもない。
光を吸い込むように、そこだけ景色が少し沈んで見えた。
「大丈夫だ」
ガイが言った。
フィリアが振り向く。
「リオンが不要って言ったなら、今は止まる必要がないってことだ」
「……はい」
フィリアは端末へ視線を戻した。
次の項目を開く。
弾倉、なし。
再装填、不要。
出力源、登録者本人の体内マナ。
出力経路、使用者認証後、マナ入力により開放。
物理反動、なし。
マナ流偏向による姿勢乱れ、あり。
「反動はないのに、姿勢は崩れる……」
フィリアは小さく呟いた。
ガイが眉を上げる。
「どういうことだ?」
「弾を撃つわけではないので、普通の反動はないみたいです。
でも、マナの流れがずれると、
身体の方が引っ張られるような感覚になる可能性がある、と」
「なるほどな。だからリオンが膝をつけって言ったのか」
「たぶん」
フィリアは胸元のレイアーツデバイスに触れた。
重さはまだ、はっきりとそこにある。
ただ肩に掛けているだけなら持てる。
けれど構えた時、この重さを支え続けるのは簡単ではない。
一キロ。
仕様書に書かれた数字は小さく見える。
でもそれは、任務中に身体の前へ吊るし、必要なら構え、
視線を向け続ける重さだった。
「……軽くは、ないですね」
「そりゃそうだろ」
ガイは短く言った。
「軽いってのは、何もしなくても持てるって意味じゃねえ。
持って動けるように慣らすって意味だ」
フィリアは少しだけガイを見た。
「ガイさんも、最初から大剣を扱えたわけではないんですか」
「当たり前だろ。最初は振り回されてた」
「そうなんですか」
「今でも、たまに振り回される」
「えっ」
ガイは笑った。
「冗談だ」
フィリアは少しだけ肩の力を抜いた。
その時、前の座席に座っていた子供が、振り返った。
視線はフィリアではなく、胸元のレイアーツデバイスに向いている。
「それ、こわいやつ?」
母親が慌てて子供の肩を引いた。
「こら」
「大丈夫です」
フィリアは端末を少し下げた。
子供は目を逸らさない。
フィリアはどう答えるべきか迷った。
怖くない、と言い切るには、自分もまだ知らないことが多すぎる。
危ないものです、と言えば、この車内の不安を増やしてしまう。
フィリアはもう一度、仕様書の画面を見る。
対象適性。
マギアス反応。
闇の霧由来変質反応。
精霊系マナ反応。
非対象。
通常生体反応。
非変質マナ保持者。
フィリアは、ゆっくり言葉を選んだ。
「誰かを傷つけるための装備では、ないみたいです」
「じゃあ、なにするの?」
子供が聞く。
フィリアは少しだけ視線を落とした。
戻すためのもの。
リヴァルが作ったもの。
自分の“何もできない”を、ただの不安で終わらせないためのもの。
「……変わってしまったものに、働きかけるためのものです」
「かわったもの?」
「闇の霧とか、マギアス反応とか」
フィリアはそこで言葉を切った。
車内の何人かが、静かにこちらを見ている。
前回の襲撃を知っている人たち。
光を見た人たち。
その表情には、安心も、戸惑いも、まだ少しの恐れもあった。
フィリアは端末を握り直した。
「私は、まだ全部は分かっていません。
でも、仕様書には、そう書いてあります」
ガイが背もたれに身体を預けた。
「なら、傷つけるやつが来た時は俺の仕事だな」
子供がガイを見る。
「おじさんが?」
「おじさんじゃねえ」
ガイは即答した。
車内に、ほんの少しだけ笑いが漏れた。
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
ガイは大剣の柄を軽く叩いた。
「まあ、そっちは俺に任せとけ」
フィリアはその横顔を見た。
「はい」
その返事は、先ほどより少しだけ落ち着いていた。
車列は進む。
低濃度の闇の霧がかかる区域へ入ると、窓の外の景色が少し暗くなった。
車両の外装センサーが微細な粒子の付着を検知し、
表示板に自動洗浄中の文字が出る。
だが、車速は落ちない。
先導車のリオンは、端末に流れる数値を確認していた。
闇の霧濃度。
風向き。
路面状態。
周辺構造物の陰。
索敵範囲内のマナ反応。
彼は一つずつ数値を処理し、通信へ報告する。
『霧濃度、予測範囲内。車列外装への付着は軽微。誘導ライン、視認性維持』
『後方、異常なし』
織葉の声が続いた。
『廃棄施設跡、左側に確認。動体反応はありません』
『了解。織葉隊員、そのまま後方警戒を』
『承知』
リオンは視線を端末の右端に移した。
その瞬間、微かな反応が跳ねた。
一度。
二度。
低い、歪んだ波形。
統率信号はない。
だが、闇の霧に引き寄せられるように、移送経路の側面へ向かっている。
リオンは即座に通信を開いた。
『前方右側、廃棄施設跡に変質反応。統率信号なし。暴走個体と推定』
リヴァルの声が返る。
『車列停止は?』
『不要です。現時点では進路外。ただし接近傾向あり。処理します』
『任せる』
リオンは短く息を吐く。
『織葉隊員』
『承知』
返事はそれだけだった。
後方警戒位置にいた織葉が、車列の側面へ出る。
車両の速度は落ちない。
リオンはワイヤーアーツデバイスを展開した。
細いワイヤーが路面脇の標識柱、廃材、保守用支柱へ走る。
目に見えにくい線が、暴走個体の進路を斜めに切った。
廃棄施設跡の影から、黒ずんだ影が飛び出す。
人の形は残っている。
だが、姿勢は崩れ、腕は不自然に膨れ、皮膚の下で濁ったマナが脈打っていた。
声にならない音を漏らしながら、暴走個体が車列へ向かって走る。
普通の護衛なら、ここで車列を止める。
隊形を組む。
避難民を伏せさせる。
応援を呼ぶ。
それだけの危険はあった。
だが、リオンは車列を止めなかった。
ワイヤーが暴走個体の足を絡める。
走る勢いが横へ流れた。
その一瞬後、織葉がそこにいた。
抜刀の音は、ほとんど聞こえなかった。
銀の線が一つ走る。
暴走個体の膨れ上がった腕が、路面に落ちる。
二つ目の線が走る。
脚の変質部位が断たれ、暴走個体の身体が前のめりに崩れた。
織葉は踏み込みを止めない。
崩れかけた相手の首筋に、柄尻を打ち込む。
鈍い音。
暴走個体は、そのまま路面へ沈んだ。
殺すための動きではない。
けれど、動かさないための動きとしては、あまりに速い。
『暴走個体、行動不能』
織葉は刀を鞘へ戻した。
『車列への影響なし』
リオンが端末の反応消失を確認する。
『確認。車列、速度維持』
『了解』
リヴァルの声にも、驚きはなかった。
『そのまま進行して』
一号車の中では、通信の一部だけが聞こえていた。
避難民たちが不安そうに窓の外を見る。
しかし、外の出来事はほとんど見えなかった。
車両は止まらず、強い揺れもない。
ただ、遠くで何かが倒れる音がしただけだった。
子供がガイを見た。
「なにかいたの?」
「いたな」
ガイは窓の外を一瞥した。
「でも、終わった」
「もう?」
「ああ。リオンと織葉が片づけた」
ガイの声はあまりに普通だった。
避難民の何人かが、信じられないように外を見る。
フィリアも、反射的にレイアーツデバイスへ手を伸ばしかけていた。
胸元の本体を握る。
けれど、構える前に、ガイの手が軽くそれを制した。
「今のはお前の出番じゃねえ」
「でも」
「輸送を止めない。それが今の任務だ」
ガイは声を低くした。
「戦うことと、守ることは同じじゃねえ。今日は、こいつらを無事に届ける」
フィリアは胸元のレイアーツデバイスを見た。
仕様書には、まだ開いたままの項目がある。
有効距離。
対象適性。
姿勢。
フレーム交換。
別途整備書参照。
知るべきことは多い。
できることは、まだ少ない。
けれど、今しなければいけないことは一つだった。
フィリアはゆっくり手を離した。
「……はい」
ガイは満足そうに頷いた。
「それでいい」
車列は闇の霧の薄い帯を抜けた。
窓の外が少し明るくなる。
前方の表示板に、新しい案内が出た。
目的地まで、残り三キロ。
車内に、小さなざわめきが広がった。
誰かが窓の外を指す。
「見えてきた」
フィリアも顔を上げた。
遠くに、防壁が見える。
番組で見たものよりも、ずっと大きかった。
明るい色の外壁。
整然と並んだ誘導塔。
上部を走る防衛ライン。
そして、厚い外部ゲート。
生活を見せるための施設ではない。
守るための場所。
その中に、生活がある。
フィリアは仕様書を閉じずに、画面を伏せた。
「着いたんですね」
「ああ」
ガイは座席から少し身を起こした。
「まずは一仕事終わりだ」
先導車から通信が入る。
『目的地外部ゲート、視認。識別信号、送信済み』
リオンの声は変わらない。
『受け入れ側から応答。車列誘導を開始します』
外部ゲートの上部に青い光が走った。
次いで、地面の誘導ラインが点灯する。
車列は速度を落とし、ゲートへ向かってまっすぐ進んだ。
分厚い扉が、左右に開いていく。
その奥には、受け入れ区画へ続く広い通路があった。
案内灯が白く並び、壁面には車両番号ごとの停止位置が表示されている。
さらに奥では、職員らしき人影と荷物運搬用のオートマトンが待機していた。
一号車がゲートをくぐる。
続いて二号車、医療車、後方車両。
すべての車両が、止まることなくシェルター区画へ入っていく。
フィリアは窓の外を見ていた。
知らない場所。
でも、誰かがここで待ってくれている場所。
そのことに、少しだけ胸の奥が緩んだ。
端末には、まだ読み終えていない仕様書が残っている。
レイアーツデバイスは胸元にある。
何ができるのか。
何ができないのか。
それは、まだ全部分かっていない。
それでも車列は無事に到着した。
今日の任務は、まず避難民を届けること。
その一つ目は、確かに果たされた。
受け入れ区画の誘導灯が、一号車の前でゆっくりと停止位置を示した。
車両が止まる。
続いて、二号車、医療車、後方車両が順に所定の位置へ入っていく。
車内の揺れが収まると、しばらく誰も動かなかった。
移動が終わった。
その事実を、身体の方がまだ受け取りきれていないようだった。
『全車両、到着を確認』
リヴァルの声が通信から入る。
『受け入れ側の指示に従って降車を開始。ガイ、フィリア、避難民の誘導を』
「了解」
ガイは立ち上がり、車両後部へ向かった。
「慌てんな。座席の順番で降りるぞ。荷物は職員が外で受け取る。足元見ろよ」
ハッチが開いた。
白い光が車内へ差し込む。
外には、受け入れ側の職員が並んでいた。誘導ラインは青く点灯し、
医療確認、荷物搬送、居住区案内の三方向に分かれている。
「一号車、降車開始します」
「荷物はこちらへ。番号札を確認します」
「医療申告のある方は、青の表示へ進んでください」
職員たちの声が、車内へ届く。
避難民たちは一人ずつ立ち上がり、荷物を抱え直した。
緊張した顔のまま、それでも案内に従って外へ出ていく。
フィリアは最後の方まで座席に残っていた。
膝の上の端末には、まだ仕様書が開かれている。
レイアーツデバイスは胸元にある。
読み終わってはいない。
けれど、今は端末を閉じる時間だった。
「行くぞ」
ガイが声をかける。
「はい」
フィリアは端末を抱え、立ち上がった。
車両の外へ降りると、空気が変わった。
同じシェルターの内部でも、リヴァルのシェルターとは匂いが違う。
新しい金属の匂い。
整備された床の匂い。
そして、人を受け入れるために動いている場所の熱。
荷物搬送用のオートマトンが静かに走り、職員が避難民の番号札を確認している。
壁面の案内表示は人の流れに合わせて切り替わり、
床の誘導ラインも混雑しないように色を変えていた。
その中央に、一人の男が立っていた。
白い髪をすべて後ろへ撫でつけた、初老の男性だった。
髪は見事なオールバックに整えられ、口元にはよく手入れされた口ひげがある。
眼鏡の類は身につけていない。背筋はまっすぐ伸び、身体つきもしっかりしていた。
立ち姿は隙がない。
けれど、軍人のような硬さではなかった。
相手を迎えるために、きちんと整えられた紳士の立ち姿だった。
男は避難民たちへ向かって、静かに頭を下げた。
「長旅、お疲れさまでした」
その声は、よく通った。
大きすぎず、急かさず、けれど受け入れ区画の端まで届く声だった。
「私は、このシェルターの管理を任されております。
エドガー・ロウウェルと申します」
避難民たちの視線が、自然と彼に集まる。
エドガーは柔らかく微笑んだ。
「本日より、皆さまはこのシェルターの新しい住民です」
その言葉に、列の中で何人かが顔を上げた。
避難してきた者。
移されてきた者。
守られる者。
そう呼ばれると思っていた人々が、少しだけ戸惑う。
エドガーは続けた。
「もちろん、不安はあるでしょう。
知らない場所です。
見知らぬ設備も、人も多い。
ですが、どうか急がず、一つずつ確認していきましょう。
医療確認、居住区の案内、荷物の受け取り、すべて職員が支援いたします」
彼は職員たちへ軽く視線を向けた。
「困ったことがあれば、近くの職員に声をかけてください。
声をかけられた職員は、必ず立ち止まり、確認し、必要な場所へ繋ぐこと」
「はい!」
職員たちの返事が揃った。
エドガーは頷く。
「よろしい。では、皆さまを歓迎いたします」
それだけで、受け入れ区画の空気が少し変わった。
不安が消えたわけではない。
けれど、ここには人を迎える準備がある。
そのことが、言葉と態度で示されていた。
「一号車の荷物、右の搬送ライン! 二号車は奥!
医療確認ありの人は青い表示を見て進んで!
立ち止まるなら壁側に寄って、通路の真ん中で悩まない!」
その空気を、よく通る別の声が切った。
エドガーの後方で、作業ズボンにタンクトップ姿の女性が腕を振っている。
短めにまとめられた髪。
工具デバイスの下がったベルト。
分厚い手袋。
頭の上には火花対策のゴーグル。
ナンディーヌ・ロームだった。
彼女は職員とオートマトンの流れを見ながら、次々と指示を飛ばしている。
「三番搬送、詰まってる! 一輝、確認!」
「はいっ!」
若い職員が工具箱を抱えて走り出した。
「走りすぎるな! 荷物より先にあんたが転ぶ!」
「すみません!」
「謝る前に足元見な!」
「はいっ!」
一輝と呼ばれた若い職員は、勢いよく返事をしながら搬送ラインの脇へ回った。
周囲の職員に混ざって、表示の乱れた小型パネルを確認する。
特別なことをしているようには見えない。
新米の職員が、現場で指示され、走り、怒られ、返事をしている。
その姿を見て、エドガーが目を細めた。
「実に良い返事です」
「管理官、今そこ褒めるところじゃない!」
ナンディーヌが即座に振り返る。
エドガーは穏やかに頷いた。
「もちろん、ローム主任。
現場の流れを止めるつもりはありません。
ただ、若い職員が元気に返事をする姿は、組織にとって大切な活力でして」
「その話、絶対長くなるやつ!」
「おっと」
エドガーは口ひげの下で微笑んだ。
「では、短く。よく働いています」
「短くても褒めるんだね!」
ナンディーヌは呆れたように言いながらも、すぐに視線を現場へ戻した。
「一輝! 直ったら戻ってきな! 次、居住区側の補助表示を見るよ!」
「了解です!」
「返事はいいから手を動かす!」
「はいっ!」
ガイがその様子を見て、少し笑った。
「賑やかなとこだな」
「そうですね」
フィリアも周囲を見回した。
番組で見た明るさがある。
けれど、それだけではない。
明るく見せるための場所ではなく、
明るく生活できるように裏側で支える人たちがいる場所だった。
リオンは降車後、すぐに車列の到着記録と外部ゲートの閉鎖状況を確認していた。
織葉は受け入れ区画の端で、まだ警戒を解いていない。
その視線が、ふとエドガーへ向く。
エドガーもまた、織葉の立ち姿を見ていた。
「見事な警戒姿勢です」
織葉がわずかに目を瞬かせる。
「……恐縮です」
「任務中に周囲へ過剰な圧をかけず、しかし視線は要所を外さない。
若くしてよく鍛えられている」
「ありがとうございます」
織葉は丁寧に返した。
だが、どう反応していいのか少し分からない顔をしている。
ガイが小さく言った。
「この人、すげえ褒めるな」
フィリアも少し困ったように頷いた。
エドガーの視線が、次にフィリアへ向いた。
「あなたが、フィリア・レイフィールドさんですね」
「はい」
フィリアは少し背筋を伸ばした。
「到着まで仕様書を読まれていたと聞きました」
「えっ」
フィリアは思わず端末を見た。
「いえ、まだ全部は読めていません」
「それでも、まず理解しようとする姿勢は素晴らしいことです」
エドガーは真面目な顔で言った。
「新しい装備、新しい役割、新しい場所。
どれも人を緊張させます。
そこで目を逸らさず、文字を追う。
実に良い第一歩です」
フィリアは返事に詰まった。
褒められると思っていなかった。
それも、そんなふうに具体的に。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ。若い方が一歩ずつ進む姿を見ると、こちらも背筋が伸びます」
ガイが横で腕を組んだ。
「やっぱりすげえ褒める」
「よく見ておられる方、ということだと思います」
フィリアは小さく言った。
その時、受け入れ区画の通信端末が反応した。
『ロウウェル管理官』
リヴァルの声だった。
エドガーは表情を引き締める。
柔らかさは残っている。
けれど、そこには管理責任者としての顔があった。
「はい。ロウウェルです」
『移送受け入れに感謝します。
こちらの車列は全車両、無事到着を確認しました』
「感謝されることではありません」
エドガーは静かに答えた。
「受け入れを決めた以上、彼らは我々の住民です。
住民を迎える準備をするのは、管理を任された者の務めです」
通信の向こうで、わずかに間があった。
『……そう言ってもらえると助かります』
「それは何よりです」
エドガーは微笑んだ。
「それに、あなた方の移送手順も見事でした。
外部経路に低濃度の闇の霧がかかっていたにもかかわらず、車列を乱さず、
到着時の住民の消耗も最小限に抑えられている。
若くしてあれほどの手配を――」
『ロウウェル管理官』
リヴァルの声が、少しだけ早く入った。
『恐縮ですが、本題に入っても?』
ガイが片眉を上げた。
「苦手なんだな」
フィリアは小さくガイを見た。
リヴァルの返事はなかった。
エドガーは何も気にした様子なく頷く。
「失礼しました。どうぞ」
『事前に申請していた地下設備および周辺基盤の調査について、
現地到着後の許可確認をお願いします』
受け入れ区画の空気が、少しだけ変わった。
避難民の誘導は続いている。
荷物搬送も止まらない。
だが、ARKのメンバーと、近くにいた職員たちの意識が一段奥へ向いた。
エドガーは即答しなかった。
一度、受け入れ区画全体を見る。
降車を終えた避難民。
案内に従って進む人々。
医療班の動線。
荷物搬送。
ナンディーヌの指示。
そして、外部ゲート。
すべてを確認してから、彼は通信へ答えた。
「許可します」
その声は柔らかいままだった。
だが、迷いはなかった。
「ただし条件があります。
住民導線への影響を最小限に抑えること。
防衛機能、生活維持設備、搬送ラインに触れる場合は、
必ず本シェルター側の責任者を立ち会わせること。
そして、調査によって異常が確認された場合は、
即時こちらへ共有していただきます」
『当然です』
リヴァルが答える。
『こちらも、受け入れ作業を妨げるつもりはありません』
「ありがとうございます」
エドガーはナンディーヌへ視線を向けた。
「ローム主任」
「あいよ」
ナンディーヌは職員へ指示を出し終えると、こちらへ歩いてきた。
「受け入れ導線は?」
「今のところ問題なし。
荷物搬送も医療確認も流れてる。
三番ラインの表示がちょっとぐずったけど、もう直した」
少し離れた場所で、一輝が工具箱を抱えたまま背筋を伸ばした。
「直しました!」
「声でかい!」
「すみません!」
エドガーは満足そうに頷いた。
「迅速な対応です」
「管理官、褒めるとまた返事がでかくなる!」
「それは困りました」
エドガーは少しだけ楽しそうに言い、それからすぐに仕事の顔へ戻った。
「ローム主任。
ARKの皆さまが地下設備および基盤周辺を調査されます。
裏側の案内をお願いできますか」
ナンディーヌは腕を組んだ。
「もちろん。表より裏の方が、あたしの庭だしね」
「頼もしい限りです」
「褒めは短く」
「はい。頼みます」
「それでよし」
ナンディーヌはARKの面々へ向き直った。
「ってことで、裏に行くならあたしが案内する。
関係者用通路、保守階層、基礎設備、地下導線。
行きたいところを言ってくれれば、危なくない順番で回すよ」
リオンが頷く。
「助かります」
織葉も軽く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
ガイは周囲を見回す。
「その前に、避難民の降車は終わらせるんだよな」
ナンディーヌはにっと笑った。
「当然。新入りさんたちを通路に迷わせたまま、裏に潜る趣味はないよ」
エドガーも頷いた。
「まずは受け入れを完了させます。
その後、調査班を分けましょう。
皆さまにも、必要であれば食事と休息を用意します」
「食事」
ガイが反応した。
フィリアが思わずそちらを見る。
エドガーはそれにも気づいた。
「移送任務の後です。温かい食事は必要でしょう」
「この人、分かってるな」
ガイが真面目に言った。
ナンディーヌが笑う。
「管理官は若いのに食わせるの好きだからね」
「正確には、働いた人には食べていただきたいのです」
エドガーは穏やかに訂正した。
「働いた身体に食事を届ける。これも管理の一部です」
『……ロウウェル管理官』
リヴァルの声が、また通信から入る。
『お気遣いに感謝します。ですが、現地調査の前に――』
「もちろん、業務の優先順位は尊重します」
エドガーはすぐに答えた。
「調査、受け入れ、住民案内、休息。すべて必要です。必要な順番で行いましょう」
通信の向こうで、リヴァルが小さく息を吐いた気配がした。
『……ありがとうございます』
「どういたしまして」
エドガーは何気なく続ける。
「若い方が責任を背負って働く姿は、つい応援したくなりますので」
今度こそ、通信の向こうが沈黙した。
ガイが口元を押さえた。
フィリアは少しだけ目を瞬かせる。
リオンは表情を変えない。
織葉は視線を逸らした。
ナンディーヌは、にやにやとエドガーを見た。
「管理官、たぶんその人、褒められるの苦手なタイプだよ」
「おや」
エドガーは少し驚いたように通信端末を見た。
「それは失礼を」
『いえ』
リヴァルの声は冷静だった。
冷静だったが、いつもよりわずかに硬かった。
『問題ありません』
ガイが小さく言う。
「問題ありそうだな」
フィリアは聞こえないふりをした。
受け入れ区画では、最後の避難民が医療確認の列へ進み、
荷物搬送のオートマトンが居住区側へ向かって動き始めていた。
新しい住民たちが、少しずつこの場所の中へ入っていく。
不安げに。
疲れた顔で。
それでも、迎える人たちの案内に従って。
エドガーはその流れを見届けていた。
褒める時の柔らかい目ではない。
管理者として、全体の動きを確認する目だった。
「ローム主任。受け入れ完了後、第一保守通路の開放準備を」
「あいよ。居住区案内が一段落したら、あたしが直接連れてく」
「一輝君は、居住区側の補助へ」
「はいっ!」
「返事は少し小さく」
「はい!」
「まだ大きいね」
ナンディーヌが言う。
一輝は慌てて声を落とした。
「……はい」
「よし。行ってきな」
「はいっ……あ、はい」
一輝は工具箱を抱え、今度は少しだけ速度を抑えて走っていった。
エドガーはその背中を見て、また目を細める。
「良い若者です」
「だから、そういうのは後で」
「承知しました」
ナンディーヌは肩をすくめると、ARKの面々へ向き直った。
「もう少しだけ待ってな。
表の受け入れを片づけたら、裏を案内する。
ここの床下は、表よりずっと面白いよ」
エドガーが穏やかに補足する。
「ローム主任の“面白い”は、時に専門的すぎます。
皆さま、足元にはお気をつけください」
「管理官、余計なこと言わない」
「必要な注意喚起です」
「言い方!」
そのやり取りを聞きながら、フィリアは受け入れ区画の奥を見た。
人を迎えるための明るい場所。
そのさらに奥に、関係者用の通路がある。
床の下。
壁の裏。
生活を支える設備の向こう側。
そこに、次の調査が待っている。
フィリアは胸元のレイアーツデバイスに触れた。
仕様書は、まだ読み終えていない。
このシェルターのことも、まだ何も知らない。
けれど、移送は終わった。
新しい住民たちは迎えられた。
そして次は、この場所の裏側へ向かう。
受け入れ区画の誘導灯が、静かに色を変えた。




