第59話 最初に守りたいと思った相手
真央がことりを見つけたのは、図書室へ続く渡り廊下だった。
放課後の校舎は、もうかなり静かになっていた。
窓の外では部活帰りの生徒がぽつぽつと歩いていて、遠くのグラウンドからは掛け声が薄く聞こえてくる。
ことりは、窓際に立っていた。
何かを待っているようにも見えたし、何かから逃げてきたようにも見えた。
手には薄いノート。
けれど開いてはいない。
ただ胸の前で抱えるように持って、外を見ていた。
「ことり」
声をかけると、彼女はゆっくり振り向いた。
「あ……白井くん」
いつもの声だった。
けれど、表情は少し硬い。
「帰ったと思ってた」
「帰るつもりだったんだけど」
「うん」
「話したいことがある」
それを聞いた瞬間、ことりの指先がノートの端をぎゅっと握った。
彼女は何かを察したようだった。
ここ最近、真央がひよりと話し、レナと話し、みずきと話し、つばさとも話していたことを、ことりはきっと分かっている。
分かっていて、待っていたのだ。
「……そっか」
ことりは小さく言った。
「うん」
「ここで?」
「嫌なら、場所変える」
「ううん」
ことりは首を横に振った。
「ここでいい」
そう言ってから、少しだけ笑う。
「人、あんまり来ないし」
笑っているのに、目は少し不安そうだった。
真央は、その顔を見て胸が痛くなった。
この子を何度も不安にさせてきた。
最初に守ったはずなのに、そのあと何度も怖がらせた。
それでもことりは、少しずつ前へ来てくれた。
用事のない会話に挑戦して。
席が離れても話しかけに来て。
嫉妬も、怖さも、優しさも、全部抱えたまま逃げなかった。
だから、今度は自分が逃げてはいけない。
「ことり」
「うん」
「先に言っておく」
「……うん」
「俺、ひよりと話した」
ことりの表情が少しだけ揺れた。
「うん」
「榊とも話した」
「うん」
「みずきとも話した」
「……うん」
「つばさとも」
そこで、ことりは目を伏せた。
「藤宮さんとも、なんだ」
「ああ」
「そっか」
短い言葉だった。
けれど、その奥にあるものは軽くなかった。
ことりはきっと、怖かったのだ。
真央が誰かと一人ずつ話していくたび、自分の知らないところで答えが変わってしまうのではないかと。
「みんな、ちゃんと本気だった」
真央は言った。
「うん」
「ひよりは泣いた」
「……うん」
「榊は、泣かなかったけど、たぶん泣くのを後回しにした」
「榊さんらしいね」
「みずきは、最後まで強がってた」
「うん」
「つばさは、笑いながら泣いた」
ことりは小さく息を吸った。
しばらく、何も言わなかった。
それから、ぽつりと呟く。
「みんな、白井くんのこと好きだったんだね」
「……ああ」
「分かってたつもりだったけど」
ことりはノートを胸に抱え直した。
「こうして聞くと、やっぱり重いね」
「うん」
「私、ずるいこと聞いていい?」
「いい」
「……白井くんは、みんなに何て言ったの?」
その声は震えていた。
聞きたい。
でも聞きたくない。
そんな気持ちが、そのまま出ていた。
真央はごまかさなかった。
「ことりが好きだって言った」
ことりは、動かなかった。
まばたきも忘れたみたいに、真央を見つめている。
数秒遅れて、ようやく口が動いた。
「……え」
「ことりが好きだ」
もう一度、言った。
今度は、少しだけはっきり。
「俺は、ことりが好きだ」
言葉にしてしまえば、逃げ道はなかった。
でも、不思議と怖さだけではなかった。
最初に守りたいと思った相手。
恥ずかしさで泣きそうになっていた相手。
それでも少しずつ笑えるようになって、強くなって、自分から近づいてきてくれた相手。
その相手の前で、ようやくちゃんと言えた。
「……白井くん」
ことりの声は、ほとんど息みたいだった。
「うん」
「本当に?」
「本当」
「私で、いいの?」
その問いに、真央は胸が締めつけられた。
ことりは、まだどこかで自分を疑っている。
みずきの時間。
ひよりのまっすぐさ。
レナの静けさ。
つばさの笑顔。
それらを見てきたからこそ、自分が選ばれることをすぐには信じられない。
だから、真央はちゃんと答えた。
「ことりがいい」
ことりの目に、涙が浮かんだ。
「……なんで」
「理由、いるか?」
「いる」
すぐに返された。
涙目なのに、そこは強かった。
「ちゃんと聞きたい」
「分かった」
真央は一度、深く息を吸った。
「最初は、放っておけなかった」
「……うん」
「あの日、ことりが一番知られたくないことで困ってて、俺はただ助けたかった」
ことりの肩が小さく震える。
あの日のことは、二人にとって始まりだった。
恥ずかしくて、情けなくて、できれば消したかったはずの出来事。
でも、もうそれだけではない。
「あのとき、笑わないでいてくれて嬉しかったって言われて」
「うん」
「それから、ずっと気になってた」
「……」
「ことりが無理してないか。笑えてるか。怖がってないか。俺の言葉で傷ついてないか」
真央は、ことりを見た。
「文化祭のときも、雨の日も、席が離れたあとも」
「……うん」
「俺の心が、何度もことりに戻ってた」
ことりの涙が、一粒こぼれた。
「ひよりに言われた」
「小日向さんに?」
「俺の心が一番帰る場所があるって」
ことりは手で目元を押さえた。
「……小日向さん、そんなこと言ったんだ」
「ああ」
「すごいね」
「うん」
「つらかっただろうに」
「うん」
ことりは泣きながら、それでもひよりのことを思いやった。
そういうところも、やっぱりことりだった。
「だから、ちゃんと言わないといけないと思った」
真央は続けた。
「ことりが好きだ」
「……」
「最初に守りたいと思ったのも、今一緒にいたいと思うのも、ことりだ」
ことりは顔を伏せた。
肩が震えている。
泣いているのに、声を出さないようにしている。
「ごめん」
真央が言うと、ことりはすぐに首を振った。
「謝らないで」
「でも」
「嬉しいの」
ことりは涙を拭いながら顔を上げた。
「嬉しいのに、苦しいだけ」
その言葉が、まっすぐ胸に刺さった。
「みんなのこと考えたら、私だけ喜ぶのは違うって思う」
「うん」
「でも、すごく嬉しい」
「うん」
「嬉しくて、どうしようもない」
ことりは泣きながら笑った。
その顔を見た瞬間、真央はようやく分かった気がした。
好きな相手を選ぶということは、誰かを傷つけることでもある。
でも同時に、誰かをちゃんと幸せにしようと決めることでもある。
曖昧な優しさではなく、選ぶ優しさ。
その責任を、これから背負わなければならない。
「ことり」
「うん」
「俺と、付き合ってほしい」
ことりの目が、また大きく揺れた。
「……それ、ちゃんと告白?」
「ちゃんと告白」
「ラブコメの流れとかじゃなくて?」
「現実を物語みたいに言うな」
「藤宮さんみたいなこと言っちゃった」
ことりは涙声で笑った。
その笑い方が、少しだけいつものことりに戻っていて、真央もつられて笑いそうになった。
「返事、してもいい?」
「ああ」
ことりはノートを胸から離し、両手で持ち直した。
深呼吸を一つ。
それから、真央をまっすぐ見た。
「私も、白井くんが好きです」
「……うん」
「最初は、助けてもらったからだった」
「うん」
「秘密を守ってくれたから、優しかったから、笑わなかったから」
「うん」
「でも今は、それだけじゃない」
ことりの声は、まだ震えていた。
けれど、言葉ははっきりしていた。
「何でもない話ができるのが嬉しかった。席が離れて寂しかった。白井くんが他の子に優しくすると苦しかった。雨の日、一緒に帰れて嬉しかった」
「うん」
「そういう全部で、好きになった」
真央は、黙って聞いた。
「だから」
ことりは、涙をこぼしながら笑った。
「私でよければ、付き合ってください」
その返事を聞いた瞬間、真央はようやく息ができた気がした。
「……よかった」
「こっちの台詞だよ」
「そうか?」
「そうだよ」
ことりは笑った。
笑いながら、また泣いた。
「白井くん」
「うん」
「私、たぶんしばらく泣く」
「うん」
「でも、嬉しい涙だから」
「うん」
「だから、困った顔しないで」
「無理だろ」
「そこは頑張って」
そう言われて、真央は少しだけ笑った。
渡り廊下の窓の外では、夕方の空が少しずつ暗くなり始めていた。
最初は、恥ずかしい秘密から始まった。
笑えない失敗から始まった。
でも、それはいつの間にか、二人だけの始まりになっていた。
真央はそっと手を伸ばした。
ことりが少し迷ってから、その手を取る。
指先は少し冷たかった。
けれど、握り返す力は確かだった。
「……これから、どうしよう」
ことりが小さく言った。
「どうしような」
「みんなに、ちゃんと言わないとだよね」
「ああ」
「怖いね」
「怖い」
「でも、逃げない?」
「逃げない」
ことりは小さく頷いた。
「私も、逃げない」
二人はしばらく、そのまま並んでいた。
告白は終わった。
けれど、それで全部が綺麗に終わるわけではない。
ひよりも、レナも、みずきも、つばさもいる。
明日からの教室もある。
気まずさも、痛みも、きっと残る。
でも、それでも。
今この瞬間だけは、ことりの手を握っていていいのだと、真央は思った。




