第60話 翌朝の教室は、思ったよりも普通で、だから怖い
翌朝、真央はいつもより早く家を出た。
眠れなかったわけではない。
眠れた。意外なくらい、ちゃんと眠れた。
ただ、起きた瞬間から胸の奥がずっと落ち着かなかった。
昨日、渡り廊下でことりに告白した。
ことりは泣きながら、笑って、返事をくれた。
付き合うことになった。
その事実は、何度思い返しても現実味が薄い。
けれど、スマホを開けば、昨夜の短いやり取りが残っている。
『今日はありがとう。まだ心臓が落ち着かないです』
ことりからのメッセージ。
真央は、それにずいぶん悩んでから、こう返した。
『俺も落ち着いてない』
すると、少し時間を置いて返事が来た。
『白井くんも?』
『俺も』
『そっか。よかった』
よかった、の意味はよく分かる。
自分だけじゃないと分かって安心したのだろう。
真央も同じだった。
付き合い始めたからといって、急に何かがうまくなるわけではない。
むしろ、これからが大変だ。
ことりとどう接すればいいのか。
教室でどう振る舞うのか。
ひより、レナ、みずき、つばさへどう向き合うのか。
その全部が、朝の冷たい空気の中で、真央の胸にずしりと残っていた。
◇
学校に着くと、昇降口にことりがいた。
偶然、ではない。
たぶん待っていたのだと思う。
ことりは真央を見つけると、小さく手を上げた。
「おはよう」
「おはよう」
たったそれだけの挨拶なのに、二人とも少しだけぎこちない。
昨日までも普通に挨拶していた。
でも今日からは、意味が違う。
「……早いね」
ことりが言う。
「ことりも」
「ちょっと、落ち着かなくて」
「俺も」
「うん」
そこで会話が途切れる。
昇降口には他の生徒もいる。
大きな声では話せない。
でも、何も話さないまま教室へ行くのも違う気がした。
「今日」
真央が言う。
「うん」
「どうする?」
雑な聞き方だった。
でも、ことりには伝わったらしい。
「みんなに、言う?」
「ああ」
「……言ったほうがいいよね」
「隠すのは違うと思う」
「うん。私もそう思う」
ことりは靴を履き替えながら、小さく息を吐いた。
「怖いけど」
「俺も怖い」
「白井くんも?」
「怖いだろ、普通に」
「そっか」
ことりは少しだけ笑った。
「そういうの、ちゃんと言ってくれるようになったね」
「最近、言わないと余計こじれるって分かった」
「遅いよ」
「それは昨日みんなに言われた」
「みんなに?」
「だいたい」
ことりは、少しだけ困ったように笑う。
「じゃあ、私も言う」
「何を」
「白井くん、遅い」
「今言うのか」
「今なら言えるかなって」
二人で少しだけ笑った。
笑えたことに、少し安心する。
教室へ向かう階段を上りながら、ことりが小さく言った。
「でも、手はつながない」
「分かってる」
「いや、その、嫌とかじゃなくて」
「分かってる」
「学校だし」
「うん」
「あと、今つないだら私たぶん歩けなくなる」
「それは困るな」
「困るよ」
ことりは耳を赤くして、でもちゃんと前を向いて歩いた。
その横顔を見て、真央は思った。
昨日から何かが大きく変わった。
けれど、ことりはことりのままだ。
そこが、たぶん一番安心する。
◇
教室へ入った瞬間、空気が少しだけ動いた。
誰も何も言わない。
でも、見られた。
前の席へ向かうことり。
真ん中の席へ向かう真央。
二人の距離はいつも通り。
会話も普通。
なのに、昨日までとは何かが違う。
まず気づいたのは、やはりつばさだった。
「おはよ」
斜め後ろから声がした。
「おはよう」
真央が返す。
つばさは机に頬杖をついて、真央を見て、それからことりを見た。
そして、少しだけ笑った。
「そっか」
それだけだった。
真央は返事に詰まる。
「……何が」
「何が、って聞く?」
「一応」
「聞かなくてもいいやつだよ」
つばさは軽く笑った。
でも、目元は少し赤かった。昨日の名残かもしれない。
「おめでとう、でいい?」
ことりの肩が小さく揺れた。
真央は一度だけ息を吸って、頷いた。
「……ああ」
ことりも、小さく頷いた。
「うん」
つばさは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
それから、いつもの調子に少しだけ戻して言う。
「じゃあ、おめでとう」
「……ありがとう」
ことりが答える。
その声は震えていた。
でも、ちゃんと届いた。
「ことりちゃん」
「うん」
「泣かないでよ。朝から泣かれると私も困る」
「藤宮さんがそれ言う?」
「言うよ。私はもう昨日ちょっと泣いたから」
「え?」
ことりが目を丸くする。
つばさは慌てて手を振った。
「あ、今のなし」
「なしにならないよ」
「じゃあ半分だけ」
「半分って」
そのやり取りを見て、真央は少しだけ救われた。
つばさはやっぱり笑う。
でも、その笑いはもう、逃げるためだけではない。
そのとき、後ろの窓際から椅子を引く音がした。
みずきだった。
「おはよ」
みずきは、いつも通りに言った。
「おはよう」
真央が返す。
ことりも振り向く。
「おはよう、みずきちゃん」
「おはよ」
短いやり取り。
でも、そこには昨日までにない重みがあった。
みずきは少しだけ真央を見て、次にことりを見た。
「……言ったんだ」
「うん」
ことりが答える。
「そっか」
みずきは腕を組んだ。
「じゃあ、言っとく」
教室の空気が少しだけ静まる。
みずきはまっすぐことりを見た。
「ことりちゃん」
「うん」
「真央、鈍いし、変に優しいし、わりと面倒だから」
「うん」
「困ったらちゃんと言ったほうがいい」
「……うん」
「ため込むと、こいつ本当に気づかないから」
「ひどくないか」
真央が言うと、みずきは睨んだ。
「事実でしょ」
「否定はしづらい」
「でしょ」
ことりは少しだけ笑った。
「ありがとう、みずきちゃん」
「別に、ことりちゃんのためだけじゃないから」
「うん」
「真央がまた中途半端なことしたら、私がむかつくから」
「それでも、ありがとう」
みずきは、少し困った顔をした。
「……そういうとこだよね、ことりちゃん」
「え?」
「いや。何でもない」
みずきは席へ戻ろうとして、途中で真央を見た。
「真央」
「何だ」
「ちゃんとしなよ」
「ああ」
「ほんとに」
「分かってる」
「まだちょっと信用してないから」
「そこは正直だな」
「正直でしょ。今日は」
みずきはそう言って、席へ戻った。
その背中はいつも通りに見えた。
でも、真央には分かった。
きっと平気ではない。
それでも、みずきは教室に戻ってきた。
いつもの顔で、ちゃんとそこにいた。
◇
レナは、朝の準備を終えてから真央の席へ来た。
いつも通り静かに。
いつも通り、無駄のない歩き方で。
「おはよう」
「おはよう」
レナはことりにも視線を向けた。
「ことりさん」
「うん」
「おめでとう」
その一言は、短かった。
けれど、嘘はない。
ことりは背筋を伸ばして、深く頷いた。
「ありがとう、榊さん」
レナは、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「泣いてないのね」
「昨日、いっぱい泣いたから」
「そう」
「でも、今も泣きそう」
「なら泣いてもいいと思うけど」
「朝の教室で?」
「場所は選んだほうがいいかも」
ことりが小さく笑う。
その笑いに、レナも少しだけ笑った。
真央はその二人を見ながら、胸の奥がじんとするのを感じた。
レナは静かだ。
でも、冷たいわけではない。
「白井くん」
「うん」
「ここからよ」
「分かってる」
「ならいい」
レナはそれだけ言って、席へ戻った。
説教はない。
追加の忠告もない。
でも、それが一番レナらしかった。
◇
昼休み、ひよりが来た。
いつものように勢いよく扉を開ける、かと思ったら、今日は少しだけ控えめだった。
「こんにちは」
教室の入り口から顔を出す。
その瞬間、真央の胸が少し痛んだ。
ひよりは、昨日泣いた。
それでも来た。
「ひより」
真央が呼ぶと、ひよりは小さく笑った。
「来ました」
「大丈夫か」
「その聞き方、先輩ちょっとずるいです」
「悪い」
「でも、大丈夫です。今日はちょっとだけ」
ひよりは教室の中へ入ってきた。
ことりも立ち上がる。
「ひよりちゃん」
「七瀬先輩」
二人はしばらく向かい合った。
誰も口を挟まなかった。
ひよりが先に、深く頭を下げた。
「おめでとうございます」
ことりの目が揺れた。
「……ありがとう」
「私、まだちょっと悔しいです」
「うん」
「正直、めちゃくちゃ悔しいです」
「うん」
「でも、七瀬先輩でよかったって思う気持ちも、あります」
ひよりの声は少し震えていた。
「だから、いま変な顔してたらすみません」
「変な顔してないよ」
ことりが言う。
「すごく、ちゃんとした顔してる」
ひよりは、それを聞いた瞬間、少しだけ泣きそうになった。
「七瀬先輩、そういうところです」
「え?」
「先輩が好きになるの分かります」
ことりも泣きそうになった。
真央はどうしていいか分からずに固まる。
つばさが小さく言った。
「白井くん、そこで変に動かない」
「分かってる」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんかあ」
それを聞いて、ひよりが少し笑った。
笑えた。
それだけで、教室の空気が少し軽くなる。
「白井先輩」
ひよりが真央を見る。
「うん」
「ハンカチ、まだ返しません」
「いいけど」
「洗ってます。でも返すのは、もうちょっとあとにします」
「なんで」
「また会う理由にします」
ひよりは、泣きそうな顔で笑った。
「最後まで、ちょっとずるい後輩でいます」
「……分かった」
「でも、もう困らせすぎません」
「それは助かる」
「そこは否定してくださいよ」
「悪い」
ひよりは少しだけ頬を膨らませた。
それがいつものひよりに近くて、真央は少しだけ安心した。
◇
放課後になるころには、教室の空気はだいぶ普通に戻っていた。
でも、“元通り”ではない。
ことりは前の席から、少しだけ振り向く。
「白井くん」
「ん?」
「今日、一緒に帰れる?」
その一言で、教室が一瞬だけ静かになった。
ことり自身も、それに気づいて耳を赤くする。
「……だめ?」
「いや」
真央は鞄を持ち上げた。
「帰ろう」
ことりの顔が、少しだけほっとする。
「うん」
その横で、みずきが小さく息を吐いた。
「行ってらっしゃい」
真央は振り向く。
「……いいのか」
「いいのか、って何よ」
「いや」
「今日くらい、ちゃんと行けば」
みずきは目を逸らした。
「でも、明日からは普通に文句言うから」
「言うのか」
「言う」
つばさが笑う。
「それくらいでいいんじゃない?」
レナも頷く。
「急に全員が聖人になる必要はないわ」
「榊さんのそれ、助かる」
つばさが言う。
ひよりも手を上げた。
「私も、たまに悔しい顔します!」
「それは宣言するのか」
真央が言うと、ひよりは力強く頷いた。
「宣言します。隠すと変になるので」
その言葉に、みんなが少し笑った。
真央は思った。
これで全部が綺麗になったわけじゃない。
傷ついた人がいなくなったわけでもない。
嫉妬も、寂しさも、気まずさも、たぶんしばらく残る。
でも、誰も嘘の笑顔だけでごまかしてはいない。
それだけで、前よりずっといい。
◇
昇降口で、ことりは少しだけ足を止めた。
「白井くん」
「うん」
「今日、みんなとちゃんと話せてよかった」
「ああ」
「怖かったけど」
「俺も」
「でも、ひよりちゃんも、みずきちゃんも、榊さんも、藤宮さんも」
「うん」
「みんな、ちゃんといてくれたね」
その言葉に、真央は頷いた。
ちゃんといてくれた。
それが、いちばん正しかった。
誰も簡単に割り切れていない。
でも、誰も消えなかった。
「……白井くん」
「何だ」
「手、つなぐ?」
ことりは自分で言って、真っ赤になった。
「いや、今のなし」
「なしなのか」
「なしじゃないけど、今の言い方はなし」
「難しいな」
「難しいよ」
ことりは下を向いて、少しだけ笑った。
真央は、ゆっくり手を差し出した。
ことりがそれを見て、息を止める。
「……いいの?」
「嫌ならやめる」
「嫌じゃない」
ことりは小さく言って、その手を取った。
昨日と同じ手。
でも、今日は少しだけ違う。
昇降口を出ると、夕方の風が頬をなでた。
ことりの手は、やっぱり少し冷たかった。
でも、昨日より強く握り返してくれた。
「……これ、慣れるかな」
ことりが呟く。
「どうだろうな」
「白井くんも慣れてない?」
「慣れてるように見えるか」
「見えない」
「なら聞くなよ」
「聞きたかったの」
ことりは小さく笑った。
二人は並んで歩き出した。
後ろに、教室がある。
みんながいる。
まだ少し痛む気持ちがある。
それでも、前へ進む。
最初に守りたいと思った相手と、ようやく同じ方向へ。




