第57話 幼なじみは、最後まで強がりきれない
保健室を出たあと、真央はすぐに教室へ戻らなかった。
戻ったところで、何かできる気がしなかったからだ。
榊レナの声が、まだ耳に残っている。
――ちゃんと、一人を選んで。
それは、言われなくても分かっていたことだった。
でも、分かっていることを他人の声で聞くと、逃げ道が一つずつ潰れていく。
ひよりは泣いた。
レナは泣かなかった。
どちらも、それぞれの形で真央の前から少しだけ退いた。
残っている。
まだ、ちゃんと話していない相手がいる。
「……行くか」
真央は小さく呟いて、昇降口へ向かった。
そこにいる気がした。
根拠はない。
けれど、昔からそうだった。
朝比奈みずきは、待っているときほど“待ってないふり”をする。
◇
昇降口の端、窓際の壁にもたれて、みずきはスマホを見ていた。
いや、見ているふりをしていた。
画面は点いていない。
「何してんだ」
真央が声をかけると、みずきはゆっくり顔を上げた。
「帰ろうとしてた」
「スマホ、画面消えてるぞ」
「……気のせい」
「無理あるだろ」
みずきは少しだけ顔をしかめて、スマホをポケットにしまった。
「真央こそ、保健室?」
「ああ」
「榊さん?」
「うん」
「そっか」
短い返事だった。
でも、その一言にいろんなものが混ざっているのが分かった。
気になっていたこと。
聞きたくなかったこと。
聞かなくても分かってしまっていたこと。
みずきは靴箱からローファーを出しながら言う。
「今日、ちょっと歩く?」
「……いいのか」
「何が」
「俺と歩いて」
「変な聞き方しないで」
みずきは少しだけ笑った。
「別に、最後の散歩ってわけじゃないでしょ」
その言葉に、真央は一瞬だけ何も返せなかった。
みずきはそれを見て、眉を寄せる。
「……やめてよ」
「何が」
「そこで黙るの」
「悪い」
「ほんと、そういうとこ下手」
「ああ」
「そこで素直に認めるのも下手」
みずきはそう言って、先に昇降口を出た。
空は曇っていた。
雨は降っていない。
でも、夕方の空気は少し湿っていた。
二人は並んで歩き出した。
◇
しばらく、何も話さなかった。
その沈黙は、ことりとの沈黙とは少し違う。
ことりとの沈黙は、そばにいるだけで落ち着く。
みずきとの沈黙は、昔からそこにあったものが、今だけ少し形を変えている感じがする。
気まずい。
けれど、知らない沈黙ではない。
「真央」
先に口を開いたのは、みずきだった。
「うん」
「榊さん、何て言ったの」
「……自分は、俺のこと好きだったんだと思うって」
「だったんだと思う?」
「そう言ってた」
「榊さんらしいね」
「そうか?」
「うん。好きです、って言い切らないところが」
みずきは前を向いたまま、小さく息を吐いた。
「でも、たぶん本気だったんでしょ」
「ああ」
「そっか」
それだけ言って、みずきは黙った。
真央は横顔を見る。
昔から見慣れた横顔だった。
なのに今日は、少しだけ遠く見えた。
「みずき」
「なに」
「おまえにも、ちゃんと話さないといけないと思ってる」
「うん」
「……逃げたくない」
みずきは歩く足を止めなかった。
けれど、指先が少しだけ鞄の肩紐を強く握った。
「いいよ」
「まだ何も言ってない」
「だいたい分かる」
「……」
「分かるよ。何年幼なじみやってると思ってるの」
みずきはそこで、ようやく足を止めた。
そこは、前に二人で通った裏道の入口だった。
小学生のころ、意味もなく遠回りした道。
「ここでいい?」
「何が」
「ちゃんと話すなら」
真央は頷いた。
「うん」
二人は、道の端に立った。
夕方の光が、低い塀の上に薄く乗っている。
◇
「私ね」
みずきが先に言った。
「たぶん、今日の話が来るの分かってた」
「……そうなのか」
「うん」
「いつから」
「ひよりちゃんが泣いたって聞いたときから」
真央は目を伏せた。
「レナも、榊さんも、たぶん同じように分かってると思う」
「何を」
「真央の答え」
みずきは少しだけ笑った。
「口にされる前から、見えてるものってあるじゃん」
「……あるな」
「あるんだよ」
その声は、少し震えていた。
でも、みずきは泣いていなかった。
泣かないようにしている、というより、まだ泣くところまで行けていない顔だった。
「でも、分かってるのと、聞きたいのは別」
「うん」
「言って」
短い言葉だった。
真央は息を吸った。
逃げるな。
レナの声がする。
笑ってるだけだと思うな。
つばさの声がする。
ちゃんと覚えててください。
ひよりの声がする。
そして、目の前にはみずきがいる。
昔から一緒にいた。
何でもない時間を山ほど共有した。
強がって、怒って、でもずっとそばにいた。
そのみずきに、真央はちゃんと言わなければならなかった。
「俺は」
「うん」
「ことりのことが好きなんだと思う」
言った瞬間、みずきは目を閉じた。
長い沈黙だった。
車が一台、遠くの道を通り過ぎていく。
犬の鳴き声がどこかから聞こえる。
夕方の住宅街の音が、やけにはっきりしていた。
「……そっか」
みずきは目を開けた。
「やっぱりね」
「みずき」
「言わないで」
「……」
「謝るのは、今はなし」
みずきはそう言って、少しだけ笑った。
「謝られたら、ほんとに負けたみたいでむかつくから」
「分かった」
「素直すぎ」
「どうすればいいんだよ」
「何も言わないで」
「分かった」
「それも素直」
みずきは笑おうとして、失敗した。
口元だけが少し歪んで、すぐに下を向く。
「……やだな」
小さな声だった。
「分かってたのに、ちゃんと痛い」
「……」
「私、昔から真央のこと知ってるのにね」
「うん」
「それって、やっぱり強いと思ってた」
「強かった」
真央はすぐに言った。
みずきが顔を上げる。
「強かったよ」
「……でも、足りなかった?」
その問いに、真央はすぐ答えられなかった。
足りない、という言葉は違う気がした。
みずきとの時間は本物だった。
今も大事だ。
でも、それは恋の答えとは別だった。
「足りないんじゃない」
真央は言った。
「みずきとの時間は、俺にとって本当に大事だった」
「うん」
「今も大事だ」
「うん」
「でも」
「でも?」
「俺が、いちばん先に守りたいって思ったのは、ことりだった」
みずきの目が揺れた。
「最初の事件?」
「あれだけじゃない」
「うん」
「でも、あの日からずっと、気になってた。あいつが無理してないかとか、笑ってるかとか、怖がってないかとか」
「……」
「文化祭が終わって、席が離れて、それでもことりが自分から来てくれて。そういうのを見てるうちに、俺もたぶん戻る場所が決まってた」
ひよりが言った言葉。
心が帰る場所。
それは、たぶん正しかった。
「そっか」
みずきは静かに言った。
「そこまで言われたら、さすがに分かる」
「みずき」
「でも、悔しい」
「ああ」
「めちゃくちゃ悔しい」
「ああ」
「私のほうが長いのに」
「うん」
「昔の真央も、今の真央も、ちゃんと好きなのに」
「うん」
「でも、負けたんだ」
真央は何も言えなかった。
みずきは一度だけ空を見上げた。
涙はこぼれていない。
でも、目元は赤かった。
「……ほんと、やだ」
「うん」
「真央なんか、ことりちゃんに振られればいいのに」
「それは困る」
「困ればいい」
「ひどいな」
「ひどいこと言ってるんだから、ひどくていいでしょ」
みずきはそこで、やっと少しだけ笑えた。
その笑いは涙に近かったけれど、確かにみずきらしかった。
◇
「一個だけ」
みずきが言う。
「何だ」
「最後に、幼なじみとしてじゃなくて、好きだった女として言う」
真央は姿勢を正した。
「ことりちゃんを選ぶなら、ちゃんと幸せにして」
「……ああ」
「中途半端にするな」
「ああ」
「嫉妬させるな、とは言わないけど」
「そこは言わないのか」
「無理でしょ。あんた鈍いし」
「そこは最後まで言うんだな」
「言うよ」
みずきは鞄の肩紐を握り直す。
「でも、泣かせっぱなしにしたら、私が怒る」
「分かった」
「ほんとに怒る」
「分かった」
「たぶん殴る」
「それは怖い」
「怖がっていい」
みずきは深く息を吐いた。
「あと」
「うん」
「私との時間も、なかったことにしないで」
「しない」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ、いい」
そう言ってから、みずきは少しだけ顔を伏せた。
「よくないけど、今日はそれでいい」
「……ありがとな」
「だから、今お礼言うのもむかつく」
「悪い」
「謝るなって言った」
「……」
「黙るのもむかつく」
「どうしろっていうんだよ」
みずきは、今度こそ少しだけ笑った。
「そういうところ、ほんと真央だよね」
その笑顔を見て、真央は胸が苦しくなった。
みずきはずっと、みずきだった。
強がって、怒って、泣くのを我慢して、最後までこちらのことを見ていた。
「じゃ、私こっちだから」
みずきは駅とは逆方向を指した。
「一人で帰れるか」
「子ども扱いするな」
「悪い」
「……でも」
みずきは少しだけ迷ってから言った。
「今日は、送らなくていい」
「分かった」
「今、一緒に歩かれると、たぶん泣く」
その言葉は、これまでで一番正直だった。
「だから、ここで」
「ああ」
「また明日」
「……また明日」
みずきは背を向けた。
数歩進んでから、振り返らずに言った。
「真央」
「うん」
「私、あんたのこと好きだった」
過去形だった。
でも、まだ少しだけ現在形の匂いが残っていた。
「ありがとな」
真央がそう言うと、みずきは片手だけ上げた。
「ほんと、そういうとこ」
それだけ残して、みずきは歩いていった。
◇
真央は、その背中が見えなくなるまで動けなかった。
幼なじみの時間は、恋にはならなかった。
でも、消えるわけでもない。
みずきとの道。
みずきとの会話。
みずきの怒った顔も、笑った顔も、今日の泣きそうな顔も。
全部、ちゃんと残る。
その重さを持ったまま、真央はようやく歩き出した。
ことりに伝える前に、まだ一人だけ話さなければいけない相手がいる。
笑って見ているだけじゃなかった、あの人に。




