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『パンツから始まる青春とか聞いてない−−好きな子のおしっこ失敗を笑わずに助けたら、なぜか学園一ややこしい青春ラブコメが始まった−−』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第56話 榊レナは、最後まで冷静ではいられない

 ひよりと話した翌日、白井真央はいつもより少し早く教室へ来た。


 理由は、自分でもよく分からなかった。

 ただ、家にいても落ち着かなかったのだ。


 昨日の中庭。

 ひよりの涙。

 「まだ好きです」と言って笑った顔。


 あれを忘れることは、たぶんない。


 誰かの気持ちを受け取るというのは、こんなに重いものなのかと、真央は今さら思い知らされていた。


 教室はまだ人が少ない。

 窓際の席に座り、鞄から教科書を出す。

 でも、文字は頭に入ってこなかった。


「早いのね」


 後ろから声がした。


 榊レナだった。


「榊も早いな」


「保健委員の仕事があるから」


「そうか」


 会話はそれだけで終わりそうだった。

 けれど、レナは真央の顔をじっと見た。


「小日向さんと話した?」


 真央は手を止めた。


「……なんで分かる」


「昨日、あなたの顔が違ったから」


「どこで見てたんだよ」


「下駄箱」


 さらっと言う。

 この人は本当に、必要なところに静かにいる。


「話したよ」


「そう」


「泣かせた」


 レナはすぐには返事をしなかった。


 ただ少しだけ目を伏せて、それから静かに言った。


「でも、逃げなかったんでしょ」


「……逃げなかったつもりではある」


「なら、前よりいい」


「前が悪かったみたいに言うな」


「悪かったわよ」


 即答だった。


 真央は苦笑するしかなかった。


「容赦ないな」


「今さらでしょ」


 レナはそう言って、真央の隣ではなく、少し離れた机の端に手を置いた。

 近すぎない。遠すぎない。

 レナらしい距離だった。


「白井くん」


「ん?」


「今日は、私の番でもいい?」


 その言い方に、真央は一瞬だけ息を止めた。


 番。

 つばさもそんな言葉を使っていた。


 誰かが順番に本音を渡してくる。

 そのたびに、自分は少しずつ逃げ道を失っていく。


「……いい」


 真央は頷いた。


「ちゃんと聞く」


 レナは少しだけ目を細めた。


「そう。なら、放課後に保健室へ来て」


「また保健室か」


「ここで話す内容じゃないもの」


「手紙じゃないだけましだな」


「必要ならまた入れるわ」


「やめてくれ」


 レナはほんの少し笑った。


 それはいつもの冷静な笑みだった。

 でも、真央には分かった。


 今日は、レナも少し緊張している。


     ◇


 放課後の保健室は、やっぱり静かだった。


 白いカーテン。

 消毒液の匂い。

 窓から差す薄い夕方の光。


 真央が入ると、レナは救急箱の中身を確認していた。


「来たわね」


「ああ」


「座って」


「今日は座らせるのか」


「立って聞く話でもないから」


 真央は丸椅子に座った。

 レナはその向かいに立ったまま、少しだけ視線を落とす。


「白井くん」


「うん」


「私、たぶんあなたのことを好きだったんだと思う」


 あまりにも静かに言われたせいで、真央はすぐに反応できなかった。


「……たぶん?」


「ええ。たぶん」


「そこ、曖昧なんだな」


「曖昧よ」


 レナは正直に言った。


「私は、ことりさんみたいに最初から強い出来事があったわけじゃない。朝比奈さんみたいに昔から一緒にいたわけでもない。小日向さんみたいに真っ直ぐ言えるわけでもない。藤宮さんみたいに笑って近くにいるのも、少し違う」


「……」


「私はずっと見ていた側だった」


 レナは机の上のファイルに指先を置いた。


「あなたが誰かを助けるところも、誰かの言葉で揺れるところも、優しさで自分の首を絞めるところも」


「嫌な見方だな」


「そうね」


 レナは少しだけ笑った。


「でも、見ているうちに、他人事じゃなくなった」


「……」


「あなたが迷っていると、腹が立った。あなたが誰かに優しくすると、安心もしたし、少しだけ嫌でもあった」


 その声は淡々としている。

 でも、言葉の奥には確かに温度があった。


「だから、たぶん好きだった」


「榊」


「でも」


 レナは真央の言葉を遮った。


「私は、あなたに選ばれたいとは、今は言わない」


「……どうして」


「答えが、少し見えているから」


 胸の奥が、静かに鳴った。


 レナは目を逸らさない。


「小日向さんも気づいていたんでしょ」


「……」


「あなたが、どこへ戻っていくのか」


 何も言えなかった。


 ことりの顔が浮かぶ。

 泣きそうだった最初の日。

 文化祭で笑った顔。

 席が離れて、それでも自分から話しかけてきた顔。


 何度も戻ってくる顔。


「ずるいわね」


 レナが言った。


「何が」


「今、顔に出た」


「……まじか」


「ええ」


 レナは少しだけ肩をすくめる。


「だから、私はここで無理に勝負しない」


「それでいいのか」


「よくはないわ」


 その返事は早かった。


「少しは悔しいし、少しは腹も立つ」


「……」


「でも、あなたがちゃんと答えを出すなら、それを見たい」


 レナはそこで初めて、少しだけ困ったように笑った。


「結局、私は最後まで観測者みたいね」


「違うだろ」


 真央は思わず言った。


 レナが目を瞬く。


「少なくとも、俺にはもうそう見えない」


「……」


「榊の言葉は、ちゃんと刺さった。逃げるなって言われた気がした。たぶん、榊がいなかったら、俺はまだ“みんなを傷つけたくない”って言いながら、何も決めずにいた」


 レナは黙って聞いていた。


「だから、ただ見てただけじゃない」


「そう」


「ああ」


「なら、少しは報われたのかしら」


「……報われたって言い方は、違うかもしれないけど」


「分かってる」


 レナは小さく息を吐いた。


「でも、今はそれでいい」


 沈黙が落ちた。


 気まずい沈黙ではなかった。

 けれど、軽くもない。


 真央は手を握りしめた。


「榊」


「なに」


「ありがとう」


「何に対して?」


「全部」


「雑ね」


「悪い。でも、今はそれしか出てこない」


 レナは少しだけ笑った。


「いいわ。あなたらしいし」


「それ、褒めてるのか?」


「半分くらい」


「みんなそれ言うな」


「便利なのよ」


 少しだけ、いつもの会話に戻った。


 けれど、それが逆に胸に痛かった。


 レナはファイルを閉じる。


「白井くん」


「うん」


「ことりさんに、ちゃんと言いなさい」


「……ああ」


「朝比奈さんにも、藤宮さんにも、小日向さんにも」


「分かってる」


「逃げたら、今度は本当に怒るわよ」


「怖いな」


「本気よ」


「分かってる」


 レナは保健室の扉のほうへ視線を向けた。


「今日はもう帰っていいわ」


「追い出すのか」


「これ以上いたら、私も余計なことを言いそうだから」


 その言い方が、少しだけ震えていた。


 真央は立ち上がる。


 扉へ向かいかけて、足を止めた。


「榊」


「なに」


「泣きたいなら、泣いてもいいと思う」


 レナは一瞬、完全に固まった。


 それから、すごく小さく笑った。


「あなた、そういうところよ」


「……悪い」


「悪くはない」


 レナは真央を見ないまま言った。


「でも、今は泣かない」


「そっか」


「泣くなら、あなたがちゃんと答えを出したあとにする」


「……分かった」


「だから、早く行って」


 真央は頷いた。


 今度こそ扉を開ける。


 廊下へ出る直前、背中越しにレナの声がした。


「白井くん」


「うん」


「私は、あなたの優しさが嫌いではなかったわ」


 振り返ることはできなかった。


「でも、その優しさで誰かを幸せにするなら」


 レナの声は静かだった。


「ちゃんと、一人を選んで」


 真央は深く息を吸った。


「ああ」


 それだけ答えて、保健室を出た。


     ◇


 廊下は夕方の色だった。


 窓の外では、部活へ向かう生徒たちの声が聞こえる。

 日常はいつも通り続いている。


 でも、真央の中では、また一つ何かが終わった。


 ひよりの涙。

 レナの静かな告白。

 つばさの笑えない本音。

 みずきの時間。

 そして、ことり。


 もう、逃げられない。


 真央は廊下の向こうを見た。


 答えは、もう見えている。

 あとは、それを誰よりも先に、ちゃんと言葉にするだけだった。

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