第55話 ひよりは、笑って引く練習なんてしたくない
翌日の放課後、小日向ひよりは珍しく教室の前で待っていなかった。
それだけで、真央は少しだけ気になってしまった。
来ない日だってある。
一年には一年の用事があるし、毎日二年の教室へ顔を出すほうがおかしい。
そう分かっているのに、来ないなら来ないで、少し静かすぎる。
「……何きょろきょろしてんの」
後ろから、みずきが言った。
「してない」
「してた」
「してない」
「ひよりちゃん探してたでしょ」
図星だった。
真央が言葉に詰まると、みずきは呆れたように笑った。
「分かりやす」
「おまえら最近そればっかだな」
「だって分かりやすいし」
みずきは鞄を肩にかけたまま、少しだけ視線を廊下へ流した。
「今日は来ないんじゃない?」
「別に、来るとか来ないとか」
「気になるくせに」
「……まあ、少しは」
真央がそう答えると、みずきは一瞬だけ目を丸くした。
「そこ、認めるんだ」
「最近、ごまかすと余計面倒になるって学んだ」
「遅い」
「悪かったな」
みずきは小さく笑った。
その笑い方は少しだけ寂しそうで、でも責める感じではなかった。
「じゃあ、気になるなら行けば」
「どこに」
「一年の廊下」
「いや、それは」
「こういうときだけ遠慮するの、真央っぽいけど」
みずきはそこで少し言葉を切った。
「たぶん、今は行ったほうがいいよ」
「……なんで」
「なんとなく」
その“なんとなく”は、たぶん勘ではない。
みずきなりに、ひよりのことも見ているのだろう。
真央は少し迷ったあと、鞄を持った。
「行ってくる」
「うん」
みずきは頷く。
「ちゃんと話してきなよ」
その言葉の重さを、真央はもう無視できなかった。
◇
一年の廊下まで行くと、放課後のざわめきが少し違って聞こえた。
二年の教室より少しだけ浮ついた声。
部活へ向かう足音。
廊下の掲示板に残った文化祭の名残。
ひよりのクラスの前まで行くと、ちょうど友達らしき女子が出てきた。
「あ、白井先輩」
「小日向いる?」
「ひより? さっき中庭のほう行きましたよ」
「中庭?」
「はい。なんか、考えごとするって」
ひよりが考えごと。
その組み合わせが少し意外で、真央は思わず聞き返しそうになった。
だが、すぐに礼を言って中庭へ向かった。
中庭には、ひよりがいた。
ベンチに座って、両手で紙パックのジュースを持っている。
いつもなら足をぶらぶらさせていそうなのに、今日は膝をそろえて、妙におとなしい。
「ひより」
声をかけると、ひよりはびくっと肩を揺らした。
「せ、先輩」
「何してるんだ」
「えっと」
ひよりは紙パックを見下ろしてから、困ったように笑った。
「考えごと、です」
「らしくないな」
「自分でもそう思います」
そう言って笑う顔が、いつもより少しだけ弱かった。
真央は隣に座るか迷った。
少しだけ距離を空けて、ベンチの端に腰を下ろす。
「……今日は来なかったな」
「行こうと思ったんですけど」
「うん」
「行かない練習をしてました」
真央は言葉に詰まった。
「なんだ、それ」
「そのままです」
ひよりは紙パックの角を指でいじる。
「私、いつも会いたくなったら行っちゃうじゃないですか」
「まあ」
「でも、それって先輩の都合もあるし、七瀬先輩たちの空気もあるし」
「……」
「だから、今日は我慢してみようかなって」
その言葉は、ひよりにしてはずいぶん大人びていた。
いや、違う。
大人びているというより、無理をしている。
「我慢、できてないけどな」
真央が言うと、ひよりはきょとんとした。
「え?」
「俺が来たから」
ひよりは一瞬だけ目を丸くして、それから顔を赤くした。
「そ、それは先輩が勝手に来たんです!」
「そうだな」
「だから私の負けじゃないです」
「勝負だったのか」
「勝負でした」
ひよりは少しだけいつもの調子を取り戻す。
けれど、すぐにその笑顔は弱くなった。
「……先輩」
「うん」
「先輩、最近ちゃんと考えてますよね」
真央は黙った。
「なんとなく分かります」
ひよりは続ける。
「七瀬先輩のことも、朝比奈先輩のことも、榊先輩のことも、藤宮先輩のことも」
「……ひより」
「私のことも、少しは」
その“少しは”が、妙に刺さった。
「少しじゃない」
反射で言うと、ひよりはゆっくり真央を見る。
「ほんとですか」
「本当」
「じゃあ」
ひよりは、少しだけ笑った。
「うれしいです」
笑っているのに、目が少しだけ潤んでいた。
「でも、私、最近わかってきたんです」
「何を」
「好きって言えば、全部前に進むわけじゃないんだなって」
いつものひよりなら、「好きです!」の勢いで押し切っていただろう。
でも今のひよりは、自分の言葉に自分で痛がっている。
「好きって言ったら、先輩が困ることもあるし」
「……」
「誰かが傷つくこともあるし」
「……」
「それでも言わないと、私がつらいし」
ひよりは、紙パックをぎゅっと握った。
「恋って、めんどくさいですね」
真央は少しだけ笑ってしまった。
「本当にそうだな」
「先輩もそう思います?」
「思う」
「やった。共感です」
「喜ぶとこか?」
「たぶん違います」
ひよりは鼻をすすった。
泣いているわけではない。少なくとも、まだ泣かないように頑張っている。
「私、先輩のこと好きです」
「……うん」
「これはもう、ちゃんと好きです」
「うん」
「でも、たぶん」
ひよりはそこで一度止まった。
「私じゃないんですよね」
真央の胸が、はっきり痛んだ。
その言葉は、誰かに言われる前に、自分が向き合わなければならなかったものだった。
「まだ、答えを出したわけじゃない」
真央はそう言った。
嘘ではない。まだ誰にも言葉として伝えていない。
けれど、ひよりは首を横に振った。
「でも、先輩の中には、もう向いてる方向があると思います」
「……」
「私、ばかだけど、そこまで見えないほどじゃないです」
ひよりは笑った。
その笑顔が、いつもよりずっと大人びて見えた。
「七瀬先輩のこと、見るとき」
「……」
「先輩、ちょっと安心した顔します」
真央は何も言えなかった。
「朝比奈先輩のことも大事にしてるの分かります。榊先輩の言葉もちゃんと効いてるし、藤宮先輩のことだって放っておけないんだと思います」
ひよりは、ゆっくり息を吸う。
「でも、戻っていく顔があるんです」
「戻っていく顔?」
「はい」
ひよりは、まっすぐ真央を見る。
「たぶん、先輩の心が一番帰る場所です」
その言葉は、ひよりらしくないほど静かだった。
でも、きっとひよりにしか言えない言葉だった。
「……ひより」
「だから」
ひよりは慌てて笑顔を作る。
「今日は、笑って引く練習です」
「そんな練習、しなくていい」
思わず強く言ってしまった。
ひよりは目を丸くする。
「でも」
「無理に笑って引かなくていい」
真央は続けた。
「好きって言ってくれたのに、俺が曖昧にしてたんだ。泣きたいなら泣いていいし、怒りたいなら怒っていい」
「先輩」
「俺が受け止める」
その言葉を口にした瞬間、真央は自分で少しだけ怖くなった。
受け止める。
それは、便利な言葉だ。
でも、今は逃げるために言ったわけじゃない。
ひよりはしばらく黙っていた。
そして、ぽろっと涙をこぼした。
「……じゃあ」
「うん」
「ちょっとだけ、泣きます」
「ああ」
「でも、めちゃくちゃ泣いたら先輩のせいです」
「それはそうだな」
「責任取ってください」
「それは難しい言い方だな」
「じゃあ、ハンカチ貸してください」
「それならできる」
真央はポケットからハンカチを出した。
ひよりはそれを受け取ると、顔を隠すように目元へ当てた。
「私、先輩のこと好きです」
「うん」
「でも、先輩がちゃんと誰かを選ぶなら」
「うん」
「ちゃんと泣いてから、応援します」
その声は震えていた。
「でも、すぐは無理です」
「分かってる」
「あと、七瀬先輩に優しくしすぎたら、ちょっとだけむかつきます」
「そこは残るのか」
「残ります」
ひよりは涙声のまま、少し笑った。
「だって好きなので」
「……そうだな」
「好きなので、綺麗に引くだけなんて無理です」
その正直さに、真央は救われるような、傷つくような気持ちになった。
綺麗に終わる恋なんて、たぶんそんなにない。
笑って引く練習なんて、本当はしたくない。
それでも、ひよりは自分なりに前へ進もうとしている。
「先輩」
「ん?」
「最後に一個だけ、わがまま言っていいですか」
「内容による」
「そこは即答でいいよって言うところです」
「最近、何でも即答するなって怒られがちだから」
「成長してる……」
ひよりは少しだけ笑って、それから真剣な声で言った。
「私のこと、ちゃんと覚えててください」
「忘れない」
「後輩が一人、ちゃんと本気で先輩のこと好きだったって」
「忘れない」
「絶対?」
「絶対」
真央がそう言うと、ひよりはようやく少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ、今日はそれでいいです」
ひよりは立ち上がる。
目元は赤い。
でも、無理に隠そうとはしていなかった。
「ハンカチ、洗って返します」
「別にいい」
「よくないです。借りを残したら、また会う理由になります」
「そこは計算するのか」
「最後まで後輩なので」
ひよりはそう言って、少しだけ舌を出した。
その仕草がいつものひよりらしくて、真央はやっと少しだけ笑えた。
「また明日、普通に挨拶します」
「ああ」
「でも、しばらく先輩の顔見たら泣くかもしれません」
「それは困る」
「先輩が困ってください」
「分かった」
ひよりは深く一礼した。
それから、顔を上げて笑う。
「白井先輩」
「うん」
「好きでした。……じゃなくて、まだ好きです」
過去形には、まだできない。
その正直さごと、ひよりは背を向けた。
真央はその背中を見送った。
小さくて、明るくて、少し危なっかしくて、でもちゃんと本気だった後輩。
その気持ちを、自分は受け取った。
受け取った以上、もう曖昧にはできない。
中庭の風が、少しだけ冷たかった。




