第54話 もう、曖昧な優しさだけでは進めない
放課後の教室には、まだ少しだけ笑い声が残っていた。
それはいつもの放課後と同じはずだった。
机を動かす音も、鞄を閉じる音も、誰かが「また明日」と言う声も、全部いつも通りだ。
けれど、白井真央の中では、何もいつも通りではなかった。
ことりが前の席から振り向く。
「白井くん、今日帰る?」
「ああ」
「そっか」
それだけの会話。
たったそれだけなのに、ことりの声には少しだけ名残惜しさがある。
みずきは後ろの窓際で鞄を肩にかけながら、こちらを見ていた。
「真央、また考えごとしてる」
「してない」
「嘘。返事が遅い」
「最近そればっか言われるな」
「だって遅いし」
みずきはそう言って、ふいっと視線を逸らした。
ひよりは今日は来ていない。
レナは一番後ろの席で、いつものように静かにファイルを閉じていた。
つばさは斜め後ろで、少しだけ笑っている。
その全員を見て、真央は胸の奥が重くなるのを感じた。
重い。
でも、嫌な重さだけではない。
ことりと話すと落ち着く。
みずきと話すと昔からの自分に戻れる。
ひよりといると放っておけない。
レナには逃げ道をふさがれる。
つばさは笑いながら、こちらの痛いところをちゃんと見ている。
それぞれ違う。
違うから、簡単には決められない。
でも、その“決められない”を理由にして、いつまでも全員に同じように優しくしているだけでは、もう進めない。
レナの言葉が、まだ耳に残っていた。
選ばれない優しさは、選ばれるより残酷なこともある。
あの言葉を聞いた日から、真央は何度も考えていた。
自分は、誰かを傷つけたくないと言いながら、結局みんなを引き止めているだけなのではないか。
「白井くん」
ことりがまた呼んだ。
「ん?」
「大丈夫?」
その問いが、いちばん困る。
大丈夫か。
大丈夫ではない。
でも、そう答えたらことりはきっと心配する。
「……少し考えごと」
だから、真央はごまかしきらないことにした。
ことりは少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「そっか」
「悪い」
「ううん。言ってくれたほうがいい」
その言葉が、また胸に刺さる。
ことりは優しい。
優しいから、真央が少し正直になるだけで受け止めてしまう。
それが嬉しくて、同時に怖い。
みずきが歩いてきて、真央の机を指先で軽く叩いた。
「じゃあ、今日は一人で考えれば」
「え?」
「その顔のとき、誰かと話すと余計ややこしくなるでしょ」
言い方は少し乱暴だった。
けれど、内容は優しい。
「珍しく気を遣ってるな」
「珍しくは余計」
「悪い」
「本当に思ってる?」
「半分くらい」
「殴るよ」
いつものやり取り。
でも、その奥にあるものはもう前とは違う。
みずきは昔からこうだった。
不器用で、強がって、でも大事なところでは意外と引いてくれる。
そのことに気づくたび、真央はまた答えから逃げたくなる。
「じゃ、私は帰る」
みずきはそう言って背を向けた。
途中で一度だけ振り返る。
「真央」
「何だよ」
「ちゃんと考えなよ」
「……分かってる」
「ならいい」
それだけ言って、みずきは教室を出ていった。
ことりも少し遅れて鞄を持つ。
「私も帰るね」
「ああ」
「白井くん」
「ん?」
「考えごと、無理しすぎないでね」
「……おう」
ことりは小さく手を振って、教室を出ていく。
レナも立ち上がる。
「私も行くわ」
「榊」
「なに」
「……いや」
言いかけて、止まる。
何を言えばいいのか分からなかった。
レナは少しだけ目を細める。
「答えを急げとは言わない」
「……」
「でも、先延ばしにしていることは忘れないで」
そう言って、レナも出ていった。
残ったのは、真央とつばさだけだった。
◇
「で」
つばさが、斜め後ろの席から言った。
「今日は私の番?」
「何の番だよ」
「白井くんが、誰かに怒られる番」
「怒るのか」
「怒ってほしい?」
「いや」
「じゃあ怒らない」
つばさは軽く笑って、前の席に腰を下ろした。
誰もいなくなった教室は、少しだけ広い。
夕方の光が机の上に斜めに落ちている。
「白井くん」
「ん?」
「そろそろ、終わらせること考えてる?」
さらっと言われて、真央は息を止めた。
「……何を」
「今の状態」
つばさは、いつもの軽い笑顔のまま言った。
「ことりちゃんも、朝比奈さんも、ひよりちゃんも、榊さんも、たぶん私も」
「……」
「みんな、もう前には戻れないでしょ」
真央は黙った。
つばさの口から“私も”が出たことに、驚かなかったわけではない。
でも、もう完全に予想外でもなかった。
「おまえまで、そういう言い方するんだな」
「するよ」
「前はしなかった」
「前は、しないほうが楽だったから」
つばさは机の上に頬杖をつく。
「でも、もう楽な場所にいられないみたいだし」
「……つばさ」
「うん」
「おまえは、どうしてほしいんだ」
聞いた瞬間、自分で少し驚いた。
今までなら、こういう問いを避けていた。
でも、避けてばかりではもう進めないと分かっている。
つばさは少しだけ目を丸くした。
それから、ゆっくり笑う。
「ちゃんと聞くようになったね」
「茶化すな」
「ごめん」
その“ごめん”は、意外なくらい素直だった。
「私はね」
つばさは少しだけ窓の方を見る。
「白井くんに、私を選んでほしい、とは今は言えない」
「今は?」
「うん。今は」
「……」
「だって私、たぶん一番遅いから」
その言葉は、思っていたより静かだった。
「ことりちゃんは最初の秘密を持ってる。朝比奈さんは昔からの時間を持ってる。ひよりちゃんはまっすぐ来る。榊さんはずっと見てきた強さがある」
「……」
「私は、笑ってごまかしてた時間が長すぎる」
真央は返事ができなかった。
つばさは笑っている。
でも、その笑顔は少しだけ寂しい。
「だから、私が今ほしいのは答えじゃない」
「じゃあ何だよ」
「白井くんが、ちゃんと誰かを選ぶところ」
胸の奥が、ずしりと重くなる。
「誰かを選ぶってことは」
つばさは続ける。
「誰かを泣かせるってことでもあるよ」
「……」
「でも、選ばないまま全員を泣かせるよりは、たぶんまし」
それは、レナの言葉と似ていた。
でも、つばさの言葉は少しだけ違う。
レナは現実を突きつける。
つばさは笑いながら、痛い場所に手を置いてくる。
「……俺、最低だな」
真央が小さく言うと、つばさは首を横に振った。
「最低なら、こんなに悩まないよ」
「でも」
「でも、優しいだけではもう済まない」
つばさは、そこで少しだけ笑った。
「これは本当」
真央は机の上に視線を落とした。
誰かを選ぶ。
そんなことを、自分が本当にできるのか。
ことりを思う。
みずきを思う。
ひよりを思う。
レナを思う。
つばさを思う。
全員に、それぞれちゃんとした理由がある。
全員が、ただの賑やかしではない。
だからこそ、もう逃げられない。
「……俺は」
言葉が詰まる。
つばさは黙って待っていた。
いつものように急かさない。
こういうところが、妙にずるい。
「俺は、たぶん」
「うん」
「最初から、ずっと気になってたやつがいる」
口にした瞬間、教室の空気が変わった気がした。
つばさは、驚かなかった。
「うん」
短く頷く。
「知ってた?」
「なんとなく」
「やっぱりな」
「でも、白井くんが自分で言うまでは、確定じゃないから」
つばさの声はやわらかかった。
「その子のこと、ちゃんと選ぶの?」
その問いに、すぐ答えは出なかった。
でも、前みたいに逃げたいとは思わなかった。
「……まだ、言葉にするのは怖い」
「うん」
「でも、考える」
「それはもう聞いた」
「ちゃんと、答えを出す」
つばさは、今度こそ少しだけ安心したように笑った。
「そっか」
「ああ」
「じゃあ、残り時間は短いね」
「何の話だよ」
「このややこしいラブコメの」
「現実を物語みたいに言うな」
「でも、そろそろ終盤でしょ」
つばさは立ち上がる。
「白井くん」
「ん?」
「逃げないなら、それでいい」
その言葉は、たぶんつばさなりの激励だった。
「……ありがとな」
「お礼を言うのは早いよ」
「そうか?」
「うん。ちゃんと終わらせてから」
つばさは鞄を肩にかけて、教室の扉へ向かう。
途中で振り返った。
「それと」
「まだあるのか」
「私のことは、最後まで笑って見てるだけだと思わないでね」
そう言って、いつもの軽い笑顔を浮かべた。
でも、真央にはもう分かっていた。
笑っているだけの人間なんて、この教室にはもう一人もいない。
◇
ひとりになった教室で、真央はしばらく動けなかった。
夕方の光は、少しずつ薄れていく。
机の影が長く伸びて、黒板の文字もぼやけて見えた。
最初から、気になっていた相手。
その言葉を、自分で口にしてしまった。
胸の中に浮かぶ顔は、一つだけではない。
それでも、何度も何度も戻ってくる顔がある。
泣きそうな顔。
恥ずかしさを抱えた顔。
それでも少しずつ強くなって、自分から話しかけに来る顔。
「……ちゃんとしないとな」
真央は小さく呟いた。
この物語を、曖昧なまま終わらせてはいけない。
誰かを泣かせることになっても、もう逃げるわけにはいかない。
残りの時間で、ちゃんと向き合う。
そう決めた瞬間、放課後の教室は少しだけ静かに見えた。




