第53話 軽口担当が黙ると、教室は思ったより静かになる
翌日、藤宮つばさは普通に教室へ来た。
それだけなら、何もおかしくない。
いつもの時間に来て、いつものように鞄を机へ置き、いつものように「おはよー」と軽く声を出す。
そこまでは、本当にいつも通りだった。
けれど、白井真央はすぐに気づいた。
つばさが、いつもより少し静かだ。
「……」
席に座って教科書を出しながら、真央は斜め後ろをちらっと見る。
つばさはスマホを見ていた。
いや、画面は見ている。けれど、いつものように誰かの反応を拾って笑うわけでもない。ことりと目が合っても、軽口を飛ばすでもない。
普通に静か。
それだけのことが、やけに気になった。
「白井くん」
前の席から、ことりが小さく呼ぶ。
「ん?」
「今日、藤宮さん……ちょっと静かじゃない?」
同じことを考えていたらしい。
「だよな」
「うん」
ことりは心配そうに、つばさのほうを見た。
「昨日、何かあった?」
その問いに、真央はすぐには答えられなかった。
何かあった。
たしかにあった。
つばさは昨日、珍しく真面目なことを言った。
私が笑ってるからって、何も感じてないと思わないで。
あれは、いつもの冗談ではなかった。
でも、それをことりにそのまま言うのは、少し違う気がした。
「……少し話した」
「藤宮さんと?」
「ああ」
「何を?」
「何っていうか」
真央は少しだけ言葉を選ぶ。
「つばさも、別に面白がってるだけじゃないんだなって話」
ことりはそれを聞いて、すぐに茶化さなかった。
むしろ、納得したように小さく頷いた。
「……そっか」
「驚かないんだな」
「少しは驚くけど」
ことりは机の端を指でなぞった。
「でも、藤宮さんって、ちゃんと見てる人だから」
「うん」
「見てるだけでも、疲れるよね」
その言い方は、かなり優しかった。
真央は少しだけ黙る。
ことりは、こういうところがある。
自分も十分に揺れているのに、相手の疲れもちゃんと想像する。
そういうところに、助けられる反面、こちらはまた何かを預けられてしまう。
「白井くん」
「ん?」
「今日、藤宮さんのこと、少しそっとしておいたほうがいいのかな」
「……どうだろうな」
そう答えながら、真央はもう一度つばさを見る。
つばさは、ちょうどこちらを見ていた。
目が合った瞬間、いつものように笑った。
「なに、二人してこっち見て」
「いや」
「私、今日そんなに可愛い?」
「朝からその調子なら大丈夫そうだな」
「ひどいなあ。もうちょっと心配してよ」
言葉だけならいつも通りだった。
でも、笑顔の奥に少しだけ薄い影があるのを、真央は見逃せなかった。
◇
二限目が終わったあとの休み時間、みずきが真央の机の横に来た。
「真央」
「ん?」
「藤宮さん、なんか変じゃない?」
「みずきも気づいたのか」
「気づくでしょ。いつもならもう三回は余計なこと言ってる」
「おまえも数える側になったのか」
「体感」
みずきはそう言ってから、少しだけつばさのほうを見る。
「昨日、何か言われた?」
「まあ」
「真央に?」
「ああ」
「ふうん」
みずきは、それ以上すぐには聞かなかった。
少し前なら「何よそれ」と突っ込んできたかもしれない。
でも最近のみずきは、自分が踏み込むべきところと、踏み込まないほうがいいところを少しずつ選ぶようになっている。
「藤宮さんってさ」
みずきがぽつりと言った。
「うん」
「なんか、ずっとこっちをからかってる人だと思ってたけど」
「ああ」
「たぶん、それだけじゃないんだよね」
「そうだな」
「……めんどくさいね、みんな」
みずきは苦笑した。
その言い方が少しおかしくて、真央も笑う。
「おまえも含めてな」
「自覚はある」
「あるのか」
「最近ある」
みずきは少しだけ唇を尖らせた。
「でも、藤宮さんが静かだと、なんか落ち着かない」
「分かる」
「うるさいと腹立つのに」
「それも分かる」
二人で同じことを思って、少しだけ笑った。
その笑い声に、つばさが反応する。
「なに、私の悪口?」
「だいたいそう」
みずきが答える。
「朝比奈さん、そこは否定してよ」
「静かだと変って話」
「うわ、ひど」
つばさはわざとらしく胸を押さえた。
けれど、その芝居がかった仕草が終わったあと、ほんの少しだけ目が伏せられた。
真央はそれを見てしまった。
みずきも、たぶん見た。
つばさはすぐに顔を上げて笑う。
「でもまあ、たまには静かな私もレアでしょ」
「レアっていうか、不安になる」
みずきが言う。
「心配してくれてる?」
「……少しは」
みずきが素直に返すと、つばさは一瞬だけ固まった。
「なに、その素直さ」
「悪い?」
「悪くないけど、調子狂う」
ことりが横から小さく言った。
「昨日も同じこと言ってたね」
「みんなして私の調子を狂わせに来る」
つばさは笑う。
でも、今度の笑いはさっきより少しだけ本物に近かった。
◇
昼休み、つばさは珍しく一人で中庭にいた。
真央は購買へ行った帰り、偶然それを見つけた。
ベンチに座り、缶ジュースを片手に、空を見ている。
声をかけるべきか迷った。
昨日、「忘れて」と言われた。
でも、忘れられるわけがない。
結局、真央は中庭へ降りた。
「隣、いいか」
つばさは少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「白井くんって、たまに距離の詰め方ストレートだよね」
「嫌なら戻る」
「嫌とは言ってない」
真央は少し距離を空けてベンチに座った。
中庭は静かだった。
昼休みなのに、なぜかここだけ人が少ない。遠くの教室から笑い声が聞こえる。
「……今日、静かだな」
真央が言う。
「みんなに言われる」
「だろうな」
「そんなに変?」
「変」
「即答」
「いつものおまえなら、俺がことりと話してるだけで何か言ってくる」
「それは私を何だと思ってるの」
「火に油を注ぐ係」
「だいたい合ってるのが嫌だなあ」
つばさは缶ジュースを見つめながら笑った。
でも、その笑いは長く続かない。
「昨日さ」
「うん」
「ちょっと余計なこと言ったなって思って」
「余計?」
「私が笑ってるからって、何も感じてないと思わないで、ってやつ」
「ああ」
「重かったでしょ」
「まあ、軽くはなかった」
「そこは嘘でも軽かったって言ってよ」
「嘘は下手なんだよ」
「知ってる」
つばさは小さく息を吐いた。
「私ね、たぶん、ずっと安全な場所にいたんだと思う」
「安全な場所?」
「みんなのこと見て、茶化して、笑って、空気を動かす場所」
「……」
「そこにいれば、自分が何を思ってるかはバレないから」
真央は黙って聞いた。
つばさのこういう声を聞くのは初めてだった。
いつもの軽口の奥に、こんなに静かなものが隠れているとは思わなかった。
「でも榊さんが動いたじゃん」
「うん」
「それ見たら、ちょっと焦った」
「焦った?」
「うん」
つばさは笑った。
でも、その笑いは少し寂しかった。
「観測者が外側じゃなくなるなら、笑ってるだけの私も、そろそろ言い訳できないなって」
真央は少しだけ息を止めた。
言葉の意味は、はっきりとは言われていない。
でも、十分すぎるほど伝わる。
「つばさ」
「なに」
「おまえも、そうなのか」
つばさはすぐには答えなかった。
風が少しだけ吹く。
中庭の木の葉が、小さく揺れる。
「さあ」
「そこで逃げるのか」
「逃げるよ。今日はまだそこまで言う日じゃない」
つばさはそう言って、いつものように笑った。
でも、その笑顔はもう、ただの軽口担当のものには見えなかった。
「ただ」
つばさは続ける。
「何も感じてないわけじゃない、っていうのは本当」
「……」
「だから、白井くん」
「うん」
「私のことまで今すぐ背負わなくていいよ」
その言葉に、真央は少しだけ眉を寄せた。
「背負うって」
「白井くん、すぐそういう顔するから」
「どんな顔」
「また面倒が増えた、でもちゃんと考えなきゃ、って顔」
図星だった。
つばさは缶ジュースを飲み終えて、空き缶を手の中で軽く回した。
「私は、ことりちゃんみたいにまっすぐ近づくわけでも、朝比奈さんみたいに昔からの時間を持ってるわけでも、ひよりちゃんみたいに素直に突っ込めるわけでも、榊さんみたいに静かに核心突けるわけでもないから」
「……」
「まあ、私のタイミングでやるよ」
「何を」
「さあね」
つばさは立ち上がる。
「そこはまだ内緒」
「ずるいな」
「私、そういう役だから」
そう言って、つばさは中庭のゴミ箱に空き缶を捨てた。
戻ろうとしたところで、ふいに足を止める。
「あ、白井くん」
「ん?」
「今日のこと、ことりちゃんたちに言わなくていいよ」
「なんで」
「まだ私の番じゃないから」
その言い方は、妙にさらっとしていた。
けれど、“番”という言葉が、真央の中に重く残る。
「……分かった」
「ありがと」
つばさは今度こそいつもの笑顔で手を振って、校舎の中へ戻っていった。
◇
放課後、教室の空気は少しだけ戻っていた。
つばさは朝よりも喋るようになり、みずきに余計なことを言って軽く怒られ、ことりに「今日はもう大丈夫そうだね」と言われて照れ隠しみたいに笑った。
でも、真央にはもう分かっていた。
つばさは笑っているだけじゃない。
軽口担当という場所に立って、自分の気持ちを隠していただけかもしれない。
ことりが前へ出る。
みずきが時間を使う。
ひよりが素直さで来る。
レナが観測者を降りる。
そして、つばさは笑いながら、まだ自分の番を待っている。
それを思うと、真央は胸の奥が少しだけ重くなった。
けれど同時に、不思議と逃げたいだけではなかった。
こんなに面倒で、こんなに重くて、こんなにややこしいのに。
誰かの本音に触れるたび、少しだけ目を逸らせなくなっていく。
「白井くん」
ことりが前から振り返る。
「今日、また難しい顔してる」
「そうか?」
「うん」
みずきも横から言う。
「してる。かなり」
「おまえら、ほんとよく見てるな」
「見るでしょ」
みずきが当然みたいに言う。
ことりも、小さく頷いた。
「気になるもん」
その言葉に、真央は一瞬だけ返事を失った。
つばさが斜め後ろから、いつもの調子で言う。
「はい、今のことりちゃん強い」
「藤宮さん!」
「大丈夫。今日は軽めにしとくから」
「そういう問題じゃないよ!」
教室に小さな笑いが戻る。
その笑いの中で、真央は思った。
たぶんこの物語は、もう誰か一人の秘密だけでは動いていない。
それぞれが隠していたものを、少しずつ表に出し始めている。
そして、その中で一番遅れているのは、きっと自分なのだ。




