第50話 保健室の観測者は、静かに火種を置いていく
保健室の前に立ったとき、白井真央は自分でも少し笑いたくなった。
文化祭のときから、何度も「ややこしい」「面倒だ」と思ってきた。
でも、今この瞬間がたぶん一番わかりやすく面倒だった。
下駄箱の手紙。
差出人は榊レナ。
内容は短く、逃げ道がない。
少し話したいことがあります。
放課後、保健室へ来てください。
静かな字。
静かな文面。
でも、静かなものほど怖いと、最近ようやく分かってきた。
「……失礼します」
ノックして扉を開ける。
保健室の中は、夕方の光で少しだけ薄暗かった。
窓際のカーテンは半分開いていて、白いシーツのベッドが二つ、静かに並んでいる。薬品棚のガラスが、外の光を鈍く返していた。
レナは、いつものように保健委員のファイルを机の上へ置いていた。
「来たのね」
振り向いて言う声まで、やっぱりいつも通りだ。
「来るだろ、あんな手紙入ってたら」
「そう」
「……で?」
真央は扉を閉めてから、少しだけ距離を空けて立つ。
「何の話だ」
レナはすぐには答えなかった。
代わりに、机の上の紙を揃えて、椅子を一つ引いた。
「座れば?」
「いや、立ってる」
「そう」
それ以上は無理に勧めなかった。
そういうところもレナらしい。
少しだけ沈黙が落ちる。
たぶん、わざとだ。
相手が落ち着かないのを知っていて、あえて急がない。そういう静かな意地悪さがこの人にはある。
「白井くん」
ようやくレナが口を開く。
「ん?」
「最近、かなり疲れてるでしょ」
その切り出しに、真央は少しだけ拍子抜けした。
「……それ?」
「それ、とは」
「いや、もっとこう、重い話かと思った」
「十分重いと思うけど」
レナは淡々としている。
「ことりさん、朝比奈さん、ひよりちゃん」
名前が三つ、静かに並ぶ。
「それぞれとの空気が変わってる」
「……」
「噂も増えた」
「うん」
「席替えもあった」
「うん」
「そのうえで、あなたは今、自分が誰にどういう感情を持ってるか整理できてない」
図星だった。
「だから疲れてる」
レナは言い切る。
真央は小さく息を吐いた。
「……で?」
「で、手紙まで使って呼んだ理由、でしょ」
「まあ」
「あなた、普通に廊下で話しかけたら“今じゃなくていいか”って顔するから」
「そんな顔してるか?」
「してる」
即答だった。
そこまで言われると否定しづらい。
「じゃあ、ちゃんと逃げられない形にした」
「やり方が怖いんだよ」
「知ってる」
知ってるのかよ。
真央はようやく観念して、近くの丸椅子へ腰を下ろした。
立っているより落ち着かない気もしたが、レナがこのまま淡々と続ける気なのは分かった。
「で、本題は?」
「本題は二つ」
「二つもあるのか」
「ある」
レナは机の端に軽く寄りかかった。
「一つ目」
「うん」
「私、もう“ただ見てるだけ”ではいないことにした」
その一言で、保健室の空気が少しだけ変わる。
「……どういう意味だ」
聞き返す声が、少しだけ低くなった。
レナは真央をまっすぐ見る。
「そのままの意味」
「いや、だから」
「今まで私は、ことりさんや朝比奈さんやひよりちゃんのことを見てた」
「……」
「あなたのことも見てた」
「うん」
「でも、ずっと“自分は外側”のつもりでいた」
レナはそこで少しだけ視線を落とした。
その仕草が珍しくて、真央はわずかに息を止める。
「けど、違ったのよね」
「……」
「最近、それがはっきりした」
静かな声だった。
でも、静かだからこそ冗談ではないと分かる。
真央は何も言えなかった。
レナが当事者になる。
言葉にすると簡単だが、その意味は軽くない。
「二つ目」
レナが続ける。
「それを、ちゃんと先に伝えておきたかった」
「先に?」
「ええ」
「何のために」
「あとで“知らなかった”みたいな顔をされるのが嫌だから」
その言い方は、少しだけレナらしい棘があった。
でも、その棘の下にある本音はもっとまっすぐだ。
「……榊」
「なに」
「それ、俺にどうしてほしいんだ」
たぶん、いちばん大事なのはそこだ。
レナは少し考えてから答えた。
「今すぐどうこうしてほしいわけじゃない」
「じゃあ」
「でも、私を“安全圏の人”だと思わないでほしい」
真央は目を見開いた。
「安全圏って」
「話しやすい、冷静、観測者、相談役」
レナは一つずつ言う。
「そういう場所に、私はもういないってこと」
その言葉は、想像以上に強かった。
ことりは本命みたいな近さで来る。
みずきは幼なじみの時間を持って前へ出る。
ひよりは後輩のまっすぐさを武器にする。
レナは、そのどれとも違う。
距離を測りながら、全部を見ていた。
そのうえで、今ここで初めて自分から線を越えてきた。
それはたぶん、一番怖いタイプの前進だった。
「……なんで今なんだ」
真央が聞く。
「もっと前でもよかっただろ」
「無理だった」
レナは即答した。
「前は、ことりさんたちのほうが先に動いてたし、私自身も“違う”って思ってたから」
「今は違うのか」
「違う」
そこに迷いはなかった。
「あなたが最近、自分の中の違いをちゃんと見始めたから」
「……」
「それを見てたら、私ももう外側の顔でいるの無理だなって思った」
真央は、胸の奥が少しだけ騒ぐのを感じた。
嬉しいとか、困るとか、そういう単純なものじゃない。
ただ、状況がまた一段階複雑になったことだけは分かる。
「困ってる顔してる」
レナが言う。
「そりゃ困るだろ」
「そうね」
「手紙で呼び出されて、“私も外側じゃありません”って言われて、困らないほうが変だ」
「でも、伝わったならいいわ」
「よくない」
「私はいい」
その返しに、真央は思わず苦笑した。
「自分勝手だな」
「今さらでしょ」
レナも少しだけ笑う。
その笑い方が、いつもの“全部見えてます”という余裕の笑いではなくて、ほんの少しだけ緊張しているように見えた。
それが逆に、生々しかった。
この人も今、ちゃんと当事者なのだ。
「……ことりたちには」
真央が言いかけると、レナが首を振る。
「まだ言わなくていい」
「でも」
「今ここで一番大事なのは、あなたが知ることだから」
レナはそう言って、窓の外を少しだけ見た。
「言うかどうかは、私が決める」
「そこも自分で決めるのか」
「そういう話をしに呼んだんだから」
確かにそうだ。
「ただ」
レナは真央へ視線を戻す。
「一つだけ、ちゃんと答えて」
「何を」
「今日の話、軽く扱わないで」
その声は、さっきまでより少し低かった。
「“榊がなんか変なこと言ってた”で終わらせないでほしい」
「……」
「私は、ちゃんと本気で言ってるから」
真央はしばらく何も言えなかった。
言えないまま、でも目は逸らさなかった。
「……わかった」
ようやくそれだけ言う。
レナは小さく頷いた。
「それでいい」
保健室の外では、誰かが廊下を走る音がした。
放課後の学校はまだ完全には終わっていない。
でも、この部屋の中だけ、妙に時間がゆっくり流れている気がした。
「じゃあ」
レナがファイルを持ち直す。
「今日はこれで終わり」
「これで?」
「十分でしょ」
「いや、十分すぎる」
真央が立ち上がると、レナは少しだけ表情をゆるめた。
「そうね」
「……榊」
「なに」
「なんか、また面倒になった」
「前から十分面倒だったじゃない」
「それはそう」
そのやり取りだけは少しだけいつも通りで、だからこそ余計に現実感がなかった。
扉を開ける前に、真央は一度だけ振り返る。
レナはいつもの保健委員の顔で机の紙を揃えている。
でも、もう“ただの観測者”には見えない。
外へ出ると、廊下の空気が少し冷たかった。
ことり、みずき、ひより。
そこへレナまで加わる。
その事実を頭の中で並べた瞬間、真央は本気で小さくため息をついた。
「……終わった」
もちろん、何も終わっていない。
むしろ、ここからだ。
静かな観測者は、本当に観測者のままではなかった。
そう気づいてしまった以上、もう前と同じバランスでは進めない。




