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『パンツから始まる青春とか聞いてない−−好きな子のおしっこ失敗を笑わずに助けたら、なぜか学園一ややこしい青春ラブコメが始まった−−』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第51話 静かな火種は、まだ誰にも見えていない顔をしている

 保健室を出たあと、白井真央はしばらく廊下の真ん中で立ち止まっていた。


 夕方の校舎は、昼間とは違う音がする。

 教室を片づける音。

 部活へ向かう足音。

 遠くから聞こえる吹奏楽部の音合わせ。

 そういうものが、薄く重なって流れている。


 なのに、頭の中だけ妙に静かだった。


 いや、正確には逆かもしれない。

 頭の中がうるさすぎて、外の音が遠くなっていた。


「……なんだそれ」


 小さく呟く。


 榊レナ。

 保健室。

 手紙。

 観測者ではいないことにした、という宣言。


 内容だけ並べると意味がわからない。

 意味がわからないのに、ひとつひとつは妙に現実感があった。


 レナは冗談でああいうことを言うタイプじゃない。

 もともと軽口はある。だが、本当に大事なところは外さない。

 だからこそ、今日の話を“なんか変なことを言われた”で片づけるわけにはいかなかった。


「白井くん?」


 不意に声がした。


 反射で顔を上げる。

 階段の手前に、ことりが立っていた。


「……ことり」


「今、保健室から出てきたよね」


「ああ」


 ことりは少しだけ迷うような顔をしてから、ゆっくり近づいてくる。


 朝、下駄箱で「終わったら何の話だったか教えて」と言っていたことを、真央は思い出した。

 ちゃんと覚えている。

 覚えているからこそ、いま少しだけ困る。


「榊さん、いた?」


 ことりが小さく聞く。


「いた」


「……そっか」


 それだけで、ことりの顔に少しだけ緊張が走る。

 たぶん、さっきからずっと気になっていたのだろう。


 ことりは、レナを軽く見ていない。

 むしろ最近は、ことりの中でレナの存在感がじわじわ大きくなっているはずだ。

 冷静で、一歩引いていて、でも全部見ている。

 そういう人が動くのは、たしかに怖い。


「……話、できる?」


 ことりが聞く。


「今?」


「うん。無理なら、またでいいけど」


 その言い方は、前より少しだけ控えめだった。

 たぶん、朝に“終わったら教えて”と言った手前、聞きたい。でも、聞くのも怖い。

 そんな感じなのだろう。


「いや、今でいい」


 真央が答えると、ことりは小さく頷いた。


「じゃあ、少しだけ」


 二人は、廊下の窓際のところまで歩いた。

 ちょうど夕日が斜めに差し込んでいて、床が細長く赤く染まっている。


「……で」


 ことりが言う。


「何の話だったの?」


 真央はそこで、少しだけ言葉を選んだ。


 どう言えばいいのかわからない。

 でも、隠してもたぶん意味がない。ことりは最近、そういう“ごまかし”を前よりちゃんと感じ取る。


「榊が」


「うん」


「自分はもう、ただ見てるだけの立場じゃないって」


 ことりは、言葉の途中で少しだけ目を見開いた。


「……え」


「そのままの意味だと思う」


 真央が言うと、ことりは数秒だけ黙った。

 風が窓の隙間から少し入ってきて、ことりの前髪が揺れる。


「それって」


 ことりがようやく口を開く。


「つまり、榊さんも……?」


「たぶん」


 そこでことりは、わかりやすく息を止めた。


 顔色が悪くなるほどではない。

 でも、明らかに動揺している。


「……そっか」


 小さく、そう言う。


「そんなに驚くか」


「驚くよ」


 ことりは真央を見ないまま言った。


「だって、榊さんって」


「うん」


「もっと違う位置にいると思ってた」


「俺もそう思ってた」


「だよね」


 ことりは少しだけ笑った。

 けれど、その笑いはだいぶ苦かった。


「でも、違ったんだ」


「そうみたいだな」


 また沈黙が落ちる。


 ことりは視線を下に落として、自分の指先を軽く握ったり開いたりしていた。

 それはたぶん、ことりが動揺しているときの癖だ。


「……嫌?」


 真央が聞く。


 ことりが顔を上げる。


「何が」


「榊がそういう位置に来るの」


 ことりは少しだけ困ったような顔になった。


 その質問はずるい。

 嫌かどうかで言えば、たぶん嫌だ。

 でも、嫌だとそのまま言ってしまうのも違う。

 ことりはそういう子だ。


「嫌、だけじゃない」


 ことりはゆっくり言った。


「びっくりしたし、ちょっと怖いし、正直に言えば……嫌な気持ちもある」


「うん」


「でも、それで榊さんが悪いとは思わない」


 その言い方に、真央は少しだけ息を吐く。


 ことりらしい。

 たぶんみずきなら、もっと先に“嫌”が来る。ひよりなら、まず“ええっ!?”が来る。

 ことりはちゃんと相手の立場まで考える。


「ただ」


 ことりは続ける。


「ますます、ちゃんとしてないとだめなんだなって思った」


「ちゃんと?」


「私」


 ことりは少しだけ眉を寄せる。


「最近、前より前に出るようになったでしょ」


「……うん」


「それでいいと思ってたけど、こうやってまた一人増えると、やっぱり怖くなる」


 その本音は、かなりまっすぐだった。


 今までだって怖かったはずだ。

 みずきがいる。

 ひよりがいる。

 それでもことりは少しずつ前に出てきた。


 でも、レナまで加わるとなると、また景色が変わる。

 静かで、冷静で、しかも全部見ていた人。

 ことりにとって、一番わかりにくい相手かもしれない。


「……でも」


 真央が言う。


「ことりが今までやってきたことは、別に無かったことにならないだろ」


 ことりが少しだけ目を瞬く。


「それ、慰め?」


「半分くらい」


「残り半分は?」


「本音」


 ことりはその答えを聞いて、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「……そっか」


「うん」


「じゃあ、もうちょっとだけ頑張る」


 そう言ったことりの声は、前より少し強かった。


 たぶん、ことりはこうやって何度でも迷う。

 そのたびに少し怖くなって、でも引き返さない。


「白井くん」


「ん?」


「今日、ちゃんと話してくれてありがとう」


「約束したし」


「そういうとこだよね」


「またそれか」


「またそれ」


 ことりは少しだけ笑った。

 その笑顔を見ていると、真央の中のざわつきが、ほんの少しだけ静かになる。


     ◇


 その少しあと。


 下駄箱前で、今度はみずきに捕まった。


「真央」


「ん?」


「ことりちゃんと何話してたの」


「直球だな」


「今日はそういう気分」


 みずきは腕を組んで立っている。

 顔はいつも通り強そうだが、少しだけ緊張しているのもわかった。


「……榊のこと」


 真央が言うと、みずきの目がわずかに細くなる。


「やっぱり」


「やっぱりって?」


「なんとなく」


 みずきは少しだけ息を吐いた。


「で、何だったの」


「榊も、もう外側のつもりじゃないって」


 その言葉を聞いた瞬間、みずきは一度だけはっきりと黙った。


「……そう」


「驚かないのか」


「驚くよ」


 即答だった。


「でも、なんとなくそういう感じはしてた」


「そうなのか」


「うん」


 みずきは少しだけ視線を逸らす。


「榊さんって、ずっと一歩引いてるみたいに見えて、実は一番ちゃんと見てるじゃん」


「……」


「そういう人が、本気になったら怖いなって、ちょっと思ってた」


 その言い方は、ことりとは少し違った。

 ことりは“怖いけど相手を悪く言えない”だった。

 みずきは“怖いし、実際かなり厄介”だった。


「で?」


 みずきが聞く。


「真央はどう思ったの」


 その問いに、真央は少しだけ考える。


「正直、かなり面倒になったと思った」


 みずきは一瞬だけ止まって、それから少し吹き出した。


「ひど」


「だってそうだろ」


「まあ、そうだけど」


 みずきは肩を揺らして笑ったあと、少しだけ真面目な顔に戻る。


「……でも、面倒って思えるならまだいいかも」


「何が」


「それだけ、ちゃんと効いてるってことでしょ」


 真央は返事をしなかった。

 でも、それが答えみたいなものだった。


 みずきは少しだけ頷く。


「そっか」


「……何で納得するんだよ」


「別に全部納得はしてない」


 そう言ってから、みずきは少しだけ唇を尖らせた。


「ただ、榊さんまで本気なら」


「うん」


「もうほんとに、のんびりしてる場合じゃないなって思っただけ」


 その言葉が、妙に真っすぐだった。


 みずきもまた、レナの参戦を“ただの追加ヒロイン”みたいには受け取っていない。

 空気が一段変わったことを、ちゃんとわかっている。


「……真央」


「なに」


「ちゃんと覚悟しなよ」


「何の」


「もう“なんとなく優しいだけ”では済まないってこと」


 それは、レナに言われたこととかなり近かった。


 誰も傷つけたくない。

 できればみんなに優しくしたい。

 そういう曖昧さのままでは、たぶんどこかで限界が来る。


 みずきはそう言い残して、先に靴を履き替えた。


「また明日」


「……おう」


 短いやり取り。

 でも、その“また明日”は前より少しだけ重かった。


     ◇


 家に帰ってからも、真央はなんとなく落ち着かなかった。


 机の上に教科書を出しても、スマホを見ても、頭の中には今日の会話が残っている。


 ことり。

 みずき。

 ひより。

 レナ。


 全員、違うやり方で前へ出てきている。


「……なんだこれ」


 ベッドに寝転んで、天井を見る。


 最初はただ、好きな子の恥ずかしい秘密を守っただけだったはずだ。

 笑わずに助けただけ。

 そこから始まったはずなのに、気づけばこんなにややこしい。


 でも、そのややこしさを今さら嫌だとは思えない自分もいる。

 面倒だ。重い。疲れる。

 それでも、誰かの言葉が心に残る。

 誰かの笑顔が忘れられない。


「……終わってるな」


 小さく呟く。


 そして、その呟きが少しだけ笑いに変わる。


 たぶん、ここからもっとややこしくなる。

 でも、もう戻れない。


 静かな火種は、まだ誰にも見えていない顔をしている。

 そして、それが一番怖い。

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