第48話 みずき、幼なじみの切り札を使うか迷う
朝比奈みずきには、白井真央との思い出が山ほどある。
小学校の帰り道に、意味もなく遠回りしたこと。
中学のとき、雨宿りしながらコンビニの肉まんを半分こしたこと。
テスト前に「ここ分かんない」とノートを突きつけて、そのくせ最終的には自力で解いたこと。
部活帰り、夕焼けの中でどうでもいい話ばかりしていたこと。
どれも劇的ではない。
でも、そういう小さい時間が、気づけば何年分も積み重なっている。
その“長さ”は、みずきにしか持っていないものだ。
だからこそ、使おうと思えば使える。
ことりにはない。
ひよりには絶対に届かない。
真央とみずきのあいだにだけある、時間の厚み。
でも、そのことを“武器”みたいに使うのは、どこかずるい気がしていた。
「……はあ」
放課後、窓際の一番後ろの席で、みずきは小さく息を吐いた。
席替えで後ろになってから、この席は妙に考えごとがしやすい。
前のほうを見れば、ことりの席が見える。
真ん中を見れば、真央が見える。
少し離れたところから全部見えてしまうぶん、余計なことまで考える。
ことりは最近、前よりちゃんと前へ出るようになった。
“話したいから話す”を、もうあまり隠さない。
ひよりも、空気を読む方向へ進化したせいで、前より厄介になった。
じゃあ自分は何で勝負するのか。
答えはたぶん、一番わかっている。
幼なじみの時間だ。
でも、それを口にするたびに、なんだか“昔から知ってるんだから私を選んでよ”と迫るみたいで嫌だった。
「顔、深刻」
横から、つばさの声。
「最近あんた本当にどこからでも湧くね」
「失礼だなあ」
つばさは後ろの席の背もたれに腕を乗せながら笑った。
「でも、今日はわりとわかりやすいよ。朝比奈さん、いま“幼なじみ強すぎ問題”について考えてたでしょ」
みずきは思わず目を細めた。
「なんでそうピンポイントなの」
「見てればわかる」
「みんなそれ言う」
「だってほんとだもん」
つばさは少しだけ真面目な顔になる。
「ことりちゃん、前よりかなり“今の距離”で戦いに来てるじゃん」
「うん」
「ひよりちゃんは“後輩のまっすぐさ”をちゃんと使い始めた」
「……うん」
「じゃあ朝比奈さんは、やっぱり“時間”なんだよ」
みずきは視線を落とした。
言われなくてもわかっている。
わかっているから、逆に嫌なのだ。
「でもさ」
つばさが続ける。
「それを使うの、そんなに悪いことかな」
「悪いっていうか」
みずきは机の端を指でなぞる。
「ずるい気がする」
「何が」
「思い出を持ち出すの」
「へえ」
「だって、ことりちゃんやひよりちゃんにはないものじゃん」
「まあ、そうだね」
「それを“私のほうが長く一緒にいた”って出すの、なんか……」
言葉に詰まる。
上手く表現できないが、自分の中ではかなり大きい抵抗だった。
つばさは少し考えてから言う。
「思い出で縛るのは、たしかに嫌かもね」
その言い方に、みずきは少しだけ顔を上げた。
「……でも」
「でも?」
「思い出があること自体は、別にずるくないでしょ」
つばさは肩をすくめた。
「それは朝比奈さんがちゃんと積み重ねてきたものなんだから」
「……」
「使い方の問題じゃない?」
その言葉が、みずきの胸に少しだけ残る。
使い方の問題。
たしかにそうかもしれない。
“昔から知ってるから私を選んで”は嫌だ。
でも、“昔から一緒にいた時間ごと、私は今の真央が好き”なら、それは卑怯ではないのかもしれない。
「……難しい」
「恋愛ってだいたい難しいよ」
つばさが軽く言う。
「でも、使わない美学で負けるのも違うと思う」
その言い方は少しだけ雑だった。
でも、だからこそ真っすぐだった。
◇
その日の帰り、みずきはいつもの道を少し遠回りして帰った。
昔、真央とよく通った道だ。
駅へ向かう最短ルートじゃなくて、住宅街の裏を抜ける少しだけ静かな道。
理由なんてなかった。ただ、人通りが少なくて、話しやすかったからだ。
あのころは、ただの幼なじみだった。
いや、今も幼なじみではあるけれど、その“ただの”がもう違う。
みずきは立ち止まって、電柱の影を見た。
ここで真央が、ジュースの缶を蹴って転がしていたこと。
あっちの角で、急に犬が飛び出して二人で驚いたこと。
そんな小さいことまで、妙によく覚えている。
「……ずるいよね」
誰に向けた言葉でもなく、呟く。
自分だけが知っている真央。
ことりにはわからない、昔の顔。
ひよりにはまだ届かない、時間の積み重ね。
それは、たしかに強い。
でもその強さを、どんな顔で差し出せばいいのか、みずきにはまだわからなかった。
◇
翌日、昼休み。
真央がいつものように席でパンを食べていると、みずきが珍しく静かな顔で近づいてきた。
「真央」
「ん?」
「今日、少しだけ時間ある?」
「あるけど」
「じゃあ、放課後」
「また寄り道か」
「……だめ?」
少しだけ言い方が弱い。
その弱さに、真央は少しだけきょとんとした。
「だめじゃない」
「じゃあ来て」
みずきはそれだけ言って、自分の席へ戻っていった。
そのやり取りを、ことりは前の席から見ていた。
表情は変えない。変えないが、ノートを持つ手が少しだけ止まる。
そしてつばさは、完全に“はいはい来た来た”という顔をしている。
レナはちらっと見ただけで何も言わない。
みずきの空気が、今日は少し違う。
ことりにも、それは分かった。
◇
放課後。
真央は約束どおり、みずきと一緒に校門を出た。
「今日はどこ」
「前に通ってた道」
「前って」
「小学校のころとか」
真央が少しだけ目を丸くする。
「珍しいな」
「そう?」
「うん。最近は駅のほうばっかりだったし」
みずきは小さく頷く。
「だから」
「だから?」
「ちょっと、思い出したくて」
その言葉に、真央は少しだけ黙った。
言い方がいつもより静かだ。
しかも、その“思い出したくて”に、たぶん文化祭後のいろいろが繋がっている。
二人は住宅街の裏道へ入る。
夕方前で、人通りは少ない。歩く音がやけに響く。
「懐かしいな」
真央が言う。
「でしょ」
「この道、犬いたよな」
「いた。真央がめっちゃびびってた」
「びびってない」
「びびってた」
「おまえが先に叫んだからびっくりしただけ」
「ほらびびってる」
少しだけ笑いがこぼれる。
昔の話をすると、空気が少しだけ軽くなる。
これが、みずきの知っている真央とのテンポだ。
「……ねえ」
「ん?」
「こういうのって、ずるいかな」
みずきがふいに言う。
「何が」
「昔の話、するの」
真央はすぐには答えなかった。
「ずるいって」
「だって、ことりちゃんとかひよりちゃんにはないじゃん」
みずきは前を向いたまま続ける。
「私だけが知ってる真央、いっぱいあるし」
「……」
「それを思い出させるのって、なんか卑怯な気がして」
その言葉に、真央は少しだけ目を細めた。
「卑怯、か」
「うん」
「でも、事実だろ」
「え?」
「みずきが昔の俺を知ってるのは、本当なんだから」
みずきは少しだけ足を止めそうになる。
真央はそのまま歩きながら続ける。
「ことりは文化祭のときから近くなったし、ひよりは最近一気に来てる」
「……うん」
「でも、みずきは昔からいる」
その言葉は、想像していたよりずっと重かった。
「それを無かったことにするほうが、変じゃないか」
みずきはしばらく何も言えなかった。
そう言ってほしかったのかもしれない。
でも、いざ言われると、胸の奥が妙に苦しくなる。
「……そっか」
ようやくそう返すと、真央がちらっとこちらを見る。
「なんだよ」
「いや」
みずきは少しだけ笑った。
「ちゃんとそういうこと言えるんだなって」
「最近、言わないとわかんない気がしてる」
「それは正解」
その返しに、真央も少しだけ笑う。
みずきはそこで、ようやく少しだけ整理できた気がした。
思い出を武器にするのが嫌だったのは、そこに甘えが混ざる気がしたからだ。
でも、“昔からの時間があること”自体は、自分が真央と過ごしてきた本当の一部だ。
それを隠す必要はない。
縛るためじゃなく、今の自分の気持ちの土台として伝えるなら。
「真央」
「ん?」
「私」
みずきは少しだけ深呼吸した。
「昔のあんたも知ってるけど」
「うん」
「その上で、今のあんたが好きなんだと思う」
告白と言い切るには、まだ少し手前かもしれない。
でも、それでも十分に強い言葉だった。
真央は足を止める。
ほんの一瞬だけ、言葉を失う。
「……みずき」
「返事はいらない」
みずきがすぐ言う。
「でも、これだけは言いたかった」
「……」
「思い出に頼ってるんじゃなくて」
みずきは真央を見る。
「思い出ごと、今のあんたが好きなの」
そこまで言い切ると、胸の中が少しだけ軽くなった。
真央はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……それ、かなり強いな」
「そう?」
「うん」
真央は少しだけ困ったように笑う。
「みずきらしい」
「なにそれ」
「昔からのことも、今のことも、どっちもちゃんと持ってる感じ」
その言い方に、みずきは少しだけ目を細めた。
「……それならいい」
たぶん今日、自分はようやく“幼なじみの切り札”を使うことに、少しだけ納得できた。
思い出で縛るんじゃない。
思い出を含めた自分を、ちゃんと差し出す。
それなら、ずるくない。
◇
帰り道の終わり、みずきは少しだけ空を見上げた。
夕方の光はやわらかくて、昔の帰り道と少しだけ似ていた。
でも、今はもう昔と同じじゃない。
幼なじみのままでは終わりたくない。
その言葉の意味が、前よりずっとはっきりしてきた。
ことりが前に出るなら、自分も前に出る。
ひよりが真っ直ぐ来るなら、自分も自分の武器を使う。
そうやって少しずつ、本気の恋は形を持ち始める。




