第47話 ことり、ついに“もっと好きになってもいい?”と自分に問う
席替えのあと、七瀬ことりは思っていたよりずっと落ち着かなかった。
二列目。
前のほうの席。
黒板は見やすい。先生の声も聞き取りやすい。授業を受ける場所としては、たぶん何の問題もない。
でも、そういう話じゃない。
少し前まで、ことりは振り向けば真央がいる位置にいた。
ちょっとした休み時間に小声で話せた。
授業中、ノートの端を見せたり、教科書の行を指さしたりするのも自然だった。
今は違う。
振り向いても、少し遠い。
話しかけるなら、わざわざ立つか、休み時間に歩いて行く必要がある。
その“わざわざ”が、ことりの胸の奥を妙にざわつかせた。
「……はあ」
昼休み、机に頬杖をつきながら小さく息を吐く。
「またため息ついてる」
横から、つばさの声。
「藤宮さん、最近人のため息に敏感すぎない?」
「だってわかりやすいんだもん」
つばさは机の端に腰を引っかけて、ことりをのぞき込む。
「席替え、きつい?」
「……ちょっと」
「だよねえ」
「でも、前より遠くなっただけでこんなに気になるの、我ながらどうかと思う」
ことりが言うと、つばさは即座に返した。
「いや、普通に恋してるだけでしょ」
ど真ん中だった。
ことりは思わず黙る。
そうだ。結局それなのだ。
席が離れて落ち着かない。
ちょっと話せないだけで寂しい。
前より“自分から行かなきゃ”と思う。
全部、好きだからだ。
「ことりちゃん」
つばさが少しだけ声を落とす。
「前はさ、“好きになっちゃったかも”って感じだったじゃん」
「……うん」
「でも今は、もっと進んでると思う」
「進んでる?」
「“もっと好きになりたいけど、ここから先に行っていいのかな”って顔」
ことりは、思わずつばさを見た。
言葉にされると、びっくりするくらいその通りだった。
好きだ。
その気持ちはもう認めている。
でも最近のことりの中には、もう一つ別の感情がある。
もっと近づきたい。
もっとほしい。
もっと好きになってもいいのかな。
そこまで行ってしまったら、たぶんもう戻れない。
優しいクラスメイトの距離にも、秘密を共有した特別な相手の距離にも。
「……怖いのかも」
ことりは小さく言った。
「何が」
「もっと欲張りになるの」
つばさは、いつものみたいにすぐ茶化さなかった。
「いいんじゃない?」
「よくないよ」
「なんで」
「だって」
ことりは視線を落とした。
「みずきちゃんもいるし、ひよりちゃんもいるし」
「うん」
「私だけ、自分の気持ちばっかり大きくしていくのって、ちょっとずるい気がして」
その言い方は、ことりらしかった。
好きになっているのに、相手のことも、周りのことも見えてしまう。
それが優しさであり、同時にブレーキでもある。
つばさは少し考えてから言った。
「でもさ、ことりちゃん」
「うん」
「もうその段階過ぎてない?」
「え?」
「だって、好きって自覚してて、嫉妬もしてて、距離が変わるのも気にしてて」
つばさは指を折る。
「それで“まだ欲張っちゃだめかな”って思ってるの、だいぶ遅いよ」
「ひどい」
「ひどくない。本当」
つばさはにやっと笑う。
「むしろ、今さら“いい子のまま”でいようとするほうが不自然」
その言葉が、妙に胸に残った。
いい子のまま。
たしかにことりは、どこかでまだそのつもりなのかもしれない。
相手を困らせないように。
ライバルを傷つけないように。
自分だけ先に行きすぎないように。
でも、それをやっていたら、好きの温度に嘘をつくことになるのではないか。
そんな考えが、ことりの中に少しずつ育ち始めていた。
◇
午後の授業中も、ことりは少しだけぼんやりしていた。
前の席になったことで、真央のことは視界の端にすら入りづらい。
そのかわり、気配を探してしまう。後ろからノートをめくる音がすると、今の真央かな、とか。椅子を引く音が聞こえると、立ったのかな、とか。
自分でも少し重いと思う。
でも、気になるものは気になる。
六限目の終わり、先生が黒板を消して出ていく。
教室が一気に放課後の音へ変わる。
ことりはノートを片づけながら、一度だけ深呼吸した。
今日、自分から行く。
理由をつけるんじゃなくて、ちゃんと“話したいから”で。
席が離れたのなら、そのぶん自分で縮めに行くしかない。
そう思えたのは、たぶんさっきつばさに言われたことが効いている。
ことりは立ち上がって、真央の席へ向かった。
「白井くん」
「ん?」
真央が振り向く。
「今日、少しだけいい?」
「いいけど」
その答えがあまりにも自然で、ことりは少しだけ救われる。
けれど今日は、それだけで満足したくなかった。
「席、変わったじゃん」
「うん」
「だから」
ことりは少しだけ躊躇って、それでも続けた。
「前みたいに話すには、自分から行かないとだめだなって思って」
真央は一瞬だけ、言葉を探すみたいな顔をした。
「……たしかに」
「だから、来た」
そこまで言ってから、ことりは少しだけ笑う。
「わりと勇気出した」
「そうなのか」
「そうだよ」
ことりがそう返すと、真央も少しだけ笑った。
「じゃあ、その勇気は無駄にしないようにする」
「何それ」
「いや、せっかく来たならちゃんと話すかと思って」
そういうところだ。
大げさじゃない。でも、ちゃんと受け止める。
ことりは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
「……ねえ」
「うん」
「前より遠くなったの、ちょっと寂しかった」
言ってしまった。
小さい声だったけれど、はっきりと。
真央は少しだけ目を見開く。
でも、否定もしないし、ごまかしもしない。
「俺も、ちょっとだけ不便だと思った」
その一言に、ことりは一瞬だけ息を止めた。
「不便?」
「ノート見せるのとか、話しかけるのとか」
「……それだけ?」
「他にもあるけど」
「他にも?」
ことりが聞き返すと、真央は少しだけ視線を逸らした。
「前のほう行かないと、ことりの顔あんまり見えないし」
その返事は、たぶん本人にとっては軽いのだろう。
でも、ことりにとっては全然軽くない。
「……白井くん」
「ん?」
「それ、だいぶずるい」
「またそれか」
「またそれだよ」
ことりは思わず小さく笑う。
笑いながら、同時に気づいてしまう。
ああ、私、もっと好きになってる。
席が離れただけで寂しくて。
自分から行こうと思って。
行ったら行ったで、そういう言葉をもらってうれしくなる。
これ以上好きになったら、きっともっと苦しい。
でも、それでも止めたくないと思ってしまった。
◇
少し離れた場所で、その様子をみずきが見ていた。
見ようとして見たわけではない。
でも、ことりが席を立って真央のほうへ行くところが目に入ってしまった以上、見ないでいるほうが難しかった。
「……やっぱり行くんだ」
小さく呟く。
ことりは強くなっている。
前なら迷っていたところを、今はちゃんと自分から行く。
席が遠くなったなら、そのぶん自分で距離を縮める。
その姿勢が、みずきには少し眩しくて、かなり悔しい。
「朝比奈さん」
またつばさだ。
「なに」
「今のことりちゃん、だいぶ覚悟決まってる顔してない?」
みずきは少しだけ目を細める。
「……してる」
「だよね」
「やだな」
「何が」
「そうやって、ちゃんと欲張れるとこ」
みずきは正直に言った。
文化祭の前までは、ことりの好きはもっとおとなしかった。
でも今は違う。ちゃんと前に出ようとしている。
それを見ていると、自分もまだ甘いのではないかと思わされる。
「でも」
つばさが言う。
「朝比奈さんも、前よりだいぶそうなってきたよ」
「そうかな」
「そうだよ」
つばさは笑う。
「ことりちゃんは“もっと好きになってもいいか”の段階に入った。朝比奈さんは“もっと前に出ないと負ける”の段階に入ってる」
「……ひどい言い方」
「でも当たってる」
否定できなかった。
◇
その日の帰り道、ことりは一人で歩きながら、何度も同じことを考えていた。
もっと好きになってもいいのかな。
もっと近づいてもいいのかな。
もっと欲張っても。
答えは、たぶんもう出ていた。
いい。
きっと、いい。
みずきもひよりも本気だ。
自分だけが遠慮したままでいたら、いつかその遠慮ごと後悔する。
好きなら、好きなりに前へ行くしかない。
“いい子のまま負ける”のは、きっと一番自分が苦しい。
「……よし」
小さく呟く。
ことりは少しだけ空を見上げた。夕方の光が、街の屋根を薄く染めている。
最初は、秘密を共有した相手だった。
でも今は、もっと違う。
日常の中で、話したい。
笑ってほしい。
一緒にいたい。
そう思う相手になっている。
だったらもう、少しぐらい欲張ってもいい。
そう自分に許したとき、ことりの中で何かがほんの少しだけ変わった気がした。
初恋の優等生みたいな恋では、もういられない。
本気で好きになったのなら、本気で勝ちたいと思ってしまう。
その気持ちを、ことりはようやく認め始めていた。




