第46話 席替えひとつで、恋心はこんなにも落ち着かない
教室の空気がざわつく瞬間というのは、だいたい決まっている。
テスト返却。
文化祭の担当決め。
先生の機嫌が悪いとき。
そして――席替えだ。
「はい、じゃあ今日は予定変更」
六限目の終わり際、担任が教卓を軽く叩いて言った。
「文化祭も終わったし、気分転換も兼ねて席替えするぞー」
一瞬だけ静かになった教室が、すぐ次の瞬間には一気にざわつく。
「え、今!?」
「マジかー」
「やった」
「最悪なんだけど」
そういう声が前にも横にも飛び交う。
俺はというと、反射的に周囲を見てしまった。
ことり。
みずき。
つばさ。
レナ。
そして、当然だけどひよりはいない。
あいつは一年だから、この席替えには関わらない。なのに、なぜか頭の中では「教室へ来る口実減るとか言いそうだな」とかそんなことまで浮かぶ。
「白井くん」
斜め前のことりが小さく言った。
「ん?」
「席、離れたらちょっと寂しいかも」
いきなり何を言うんだこいつは。
「今、さらっと言ったな」
「……言ったあとでちょっと後悔してる」
ことりが少しだけ顔を赤くする。
でも、撤回はしない。
文化祭のあと、ことりは前よりほんの少しだけ前へ出るようになった。こういう、こっちの心臓に悪いことを、たまに普通の顔で言う。
「聞かなかったことにしたほうがいいか?」
「だめ」
「だめなのか」
「だめ」
小さく言い切る。
その強さが、前より確実に増している。
「ねえ真央」
今度は後ろから、みずきの声。
「なに」
「今の、ちょっとずるくない?」
「俺か?」
「ことりちゃんじゃなくて、真央の反応が」
「なんでだよ」
「そうやって普通に返すから」
その言い方に、ことりが少しだけ目を細めた。
みずきも、言ってるそばから“あ、今のはちょっと本音出た”みたいな顔をしている。
つばさが、少し離れた席で吹き出した。
「いやあ、席替え前から濃いね」
「おまえは黙ってろ」
俺が言うと、つばさは肩をすくめる。
「でもさ、これで位置関係変わるの、普通にでかいよ?」
「わかってる」
たぶん、みんなわかっている。
文化祭以降、俺たちの距離感は“席が近い”ことにもかなり助けられていた。
ちょっとした会話。
授業中の小声。
休み時間にノートを見せ合う流れ。
そういうものが、座席ひとつでかなり変わる。
担任はもう完全に進行モードだった。
「くじ引きだから文句言うなよー。はい、出席番号順」
「最悪」
みずきがぼそっと言う。
「まだ決まってないだろ」
「こういうのって、だいたい嫌な予感当たるの」
「ネガティブだな」
「真央は鈍いからそう言えるの」
ひどい言い方だが、反論しにくい。
◇
席替えはくじで行われた。
前の列から順番に引いていく。
教室の空気は、妙に軽くて、でもところどころ本気だ。
「やった、窓際!」
「終わった、先生の目の前」
「後ろすぎる」
そういう声に紛れて、ことりが自分の紙を見つめたまま固まっていた。
「……どうした」
俺が小さく聞くと、ことりがゆっくり顔を上げる。
「前のほう」
「何列目」
「二列目」
「おお」
「“おお”じゃないよ」
ことりが少しだけむっとする。
「だって、今よりかなり前」
「そうだけど」
「見えやすくはなるな」
「そういう問題じゃないの」
ことりはそう言うが、その頬は少しだけ赤い。
“見えやすくなる”に反応したのか、“今より離れる”に反応したのか、たぶん両方だ。
「白井」
みずきが低めの声で呼ぶ。
「ん?」
「私、窓際」
「それは良かったな」
「問題はそこじゃない」
紙を見せてくる。
四列目、一番後ろ。
今までよりだいぶ離れる位置だ。
「……おお」
「真央まで同じ反応するな」
「いや、後ろは気楽でいいだろ」
「授業受けるだけならね」
みずきは少しだけ唇を尖らせた。
「でも今は、そういう話してない」
それはわかる。
わかるけど、どう返すのが正解なのかはわからない。
「で、白井くんは?」
つばさが聞いてくる。
俺は自分の紙を見る。
「……真ん中」
「ど真ん中だねえ」
三列目の中央寄り。
良くも悪くも、誰とも極端に近くないし、極端に遠くもない。
「つまんない位置」
みずきが言う。
「席に面白さ求めるなよ」
「でも真央っぽい」
ことりがぽつりと言った。
「何が」
「誰の近くにも行きすぎない感じ」
その一言が妙に刺さる。
たぶん、ただの席の話じゃない。
レナが少し離れたところでくじを開き、静かに言った。
「私は一番後ろの端」
「榊さん、似合うなあ」
つばさが笑う。
「観察しやすそう」
「別に観察するために座るわけじゃない」
「でも結果的にそうなるんだよね」
否定しないところがレナらしい。
「藤宮さんは?」
ことりが聞く。
「私はねえ」
つばさは紙をひらひらさせた。
「白井くんの斜め後ろ」
「最悪だ」
俺が即答すると、つばさがにやっとした。
「ひど」
「いや、おまえ絶対うるさいだろ」
「それはまあ」
「否定しろよ」
こうして、席が決まった。
ことりは前。
みずきは後ろの窓際。
俺は真ん中。
つばさは斜め後ろ。
レナは一番後ろの端。
配置だけ見れば、すごく普通だ。
でも俺たちにとっては、かなり意味のある変化だった。
◇
席の移動が始まると、教室はいっそう騒がしくなった。
机を引く音。
椅子を持ち上げる音。
「そこ通る」「ちょっと避けて」という声。
そんな中、ことりは自分の机を前へ運びながら、ほんの少しだけしょんぼりして見えた。
「そんなに嫌か?」
俺が机を持ってやりながら聞くと、ことりは一瞬だけ躊躇ってから頷く。
「……ちょっと」
「前のほうが?」
「うん」
「授業は聞きやすいぞ」
「そういう問題じゃないって、さっきも言ったよ」
ことりは少しだけむっとして、それから小さく息を吐いた。
「今まで、ちょっと振り向けば話せたのに」
その言葉が、思っていたよりずっとまっすぐで、俺は返事に詰まる。
「……そうだな」
結局、それしか言えなかった。
ことりは前の席に机を置いてから、少しだけこちらを見る。
「でも」
「うん」
「遠くなったからって、終わりじゃないよね」
その問いは、小さかった。
けれど、たぶん文化祭のあとに何度も繰り返される種類の問いだった。
準備が終わったら。
イベントが終わったら。
席が離れたら。
そういう小さな変化のたびに、“終わりじゃないよね”を確認したくなる。
「終わりではないだろ」
俺が言うと、ことりは少しだけ笑った。
「よかった」
その笑い方は、やっぱり柔らかい。
席が離れても、たぶんことりはこうやって少しずつ距離を繋ぎに来る。そう思わせる強さが、今のことりにはあった。
◇
一方で、みずきはかなり露骨に不機嫌だった。
「最悪」
机を後ろへ運びながら、二回目の“最悪”が聞こえる。
「そこまでか」
俺が言うと、みずきが睨む。
「そこまでです」
「でも後ろ、気楽だろ」
「だからそういう問題じゃないって」
「……みんな同じこと言うな」
「真央が鈍いからでしょ」
みずきは机を置いて、窓際の席に座った。
たしかにその位置は、ちょっと遠い。今までみたいに軽く小声を投げたり、ペンで机をつついたりするには距離がある。
「まあでも」
みずきが頬杖をついたまま言う。
「見えるだけマシかも」
「見える?」
「前向けば真央いるし」
「監視かよ」
「ちがう」
と言いながら、否定が弱い。
「でも、席離れたくらいで何も変わらないって思われるのも悔しいし」
みずきは少しだけ視線を逸らす。
「だから、なんか……負けたくない」
その言い方は、いつものみずきだった。
強がっていて、でも本音が見える。
「席替えで負けるとかあるのか」
「あるよ」
「何に」
「知らないけど」
それもまたみずきらしい。
◇
放課後、席替え後の空気は少し不思議だった。
いつもの教室なのに、見える景色が違う。
ことりが前にいる。
みずきが後ろの窓際にいる。
つばさの声が斜め後ろから飛んでくる。
レナは遠くから全部見ている。
「ねえ白井くん」
ことりが前の席から少しだけ振り向いて言う。
「ん?」
「やっぱり、前からだとちょっと遠い」
「まだ言ってるのか」
「言うよ」
ことりは少しだけ笑う。
「でも、そのぶんちゃんと話しかける理由作るね」
その一言が、かなり強かった。
前より遠い。
だから近づく工夫をする。
ことりはもう、そのくらいには前へ出るつもりなのだ。
「……ことりちゃん、強くなったなあ」
つばさがぼそっと言う。
「藤宮さんはうるさい」
「はいはい」
後ろでは、みずきがそれを聞いて少しだけ目を細めた。
そして、小さく口元を上げる。
「じゃあ私も、ちゃんと理由作る」
今度はことりがそちらを見る番だった。
「みずきちゃんも?」
「うん」
「……負けないね」
「負けないよ」
そのやり取りは、前みたいな棘だけじゃなかった。
ちゃんとライバル同士の温度になっている。
レナはその様子を一番後ろから見て、小さく息を吐いた。
「席替えって、案外残酷ね」
「なに急に」
俺が聞くと、レナは平然とした顔で答える。
「近いだけで安心してた距離を、無理やり見直させるから」
その言い方は、妙にしっくりきた。
席が変わっただけ。
でも、その“だけ”が、俺たちにはかなり大きい。
近くにいるのが当たり前じゃなくなる。
だからこそ、誰が自分から距離を縮めるのかが見える。
席替えひとつで、恋心はこんなにも落ち着かない。
そんな当たり前みたいで面倒なことを、俺たちは今さら思い知っていた。




