第45話 真央、自分が“誰といるとき一番自然か”を意識し始める
白井真央は、自分が器用な人間ではないとわりと本気で思っている。
勉強はそこそこできる。
運動も極端に苦手じゃない。
困っている人を見たら動けるし、やるべきことをやるのは嫌いじゃない。
でも、感情の整理だけは昔から苦手だった。
とくに、自分のことになるとだめだ。
誰かにどう思われているか。
自分が誰をどう思っているか。
そういうものを、頭の中で綺麗に並べて答えを出すのが、致命的に下手だった。
そのことを、最近は嫌というほど思い知らされている。
「……はあ」
昼休み、人気の少ない渡り廊下で、真央は一人小さく息を吐いた。
今朝からずっと、頭の中が妙にざわついている。
理由は単純だ。
ことり。
みずき。
ひより。
この三人と向き合うときの自分が、それぞれ少しずつ違うことに、最近ようやく気づき始めたからだ。
今までは全部まとめて、“近くにいる女子たち”みたいに雑に受け取っていられた。
だが、もう無理だ。
ことりといるとき。
みずきといるとき。
ひよりといるとき。
自分の中で動く感情が、同じではない。
その違いを無視できなくなってきている。
「重い顔してる」
後ろから声。
振り向くと、レナだった。
「今日は榊か」
「今日は、って何」
「最近、考えごとしてるとだいたい誰か来る」
「それだけ分かりやすい顔してるってことね」
レナはそう言って、渡り廊下の窓枠に軽く寄りかかった。
「で?」
「で、って何だよ」
「誰のこと考えてたの」
直球だった。
「……おまえさ」
「なに」
「もうちょっと遠慮って言葉覚えろ」
「覚えてるわよ。でも今は必要ないと思っただけ」
その理屈が通るのが、この人の怖いところだ。
「別に、一人じゃない」
真央が答える。
「何人かまとめて」
「それがもう駄目だって、この前言ったばかりなんだけど」
「わかってる」
真央は壁に軽く背中を預けた。
「だから余計、面倒なんだよ」
レナは何も言わず待っている。
そういうところはありがたい。聞き出すくせに、急かさない。
「……ことりといると」
真央がぽつりと言う。
「うん」
「沈黙があんまり苦じゃない」
言ってから、自分で少しだけ妙な気分になる。
ことりの名前を出したことも、その内容も。
レナは表情を変えなかった。
「みずきといると」
「うん」
「テンポは昔からある。変な気まずさとかは少ない」
「それもわかる」
「ひよりは……」
真央は少しだけ言葉を探す。
「守ってやりたくなるっていうか、危なっかしくて見てられない」
「それも、まあそうね」
「でも、それって好きとかとは違う気もするし」
「うん」
「でも違うって言い切るのも、なんか変な感じするし」
レナはそこで初めて少しだけ息を吐いた。
「かなり真面目に考えてるのね」
「考えたくて考えてるわけじゃない」
「でも考え始めたのはいいことよ」
真央はそちらを見る。
「いいことなのか?」
「少なくとも、“全部同じ”って雑に処理してるよりは」
それはたしかにそうだった。
違う。
それぞれ違う。
その事実を、今ようやく真正面から見始めている。
でも、違いがわかったところで楽になるわけじゃない。
むしろ逆だ。
「……誰かを一番自然だと思ったら」
真央が小さく言う。
「うん」
「それって、他の誰かを傷つける材料になるだろ」
レナは少しだけ目を細めた。
「そうね」
「だから嫌なんだよ」
「嫌でも、いずれそこは考えないとだめ」
「わかってる」
「わかってるのに、まだちゃんと見たくない」
「……」
「そういう顔してる」
真央は苦笑した。
「ほんと、おまえはよく見てるな」
「それが役割みたいなものだし」
「役割って何だよ」
「さあ」
レナは少しだけ笑った。
「でも、誰といるときの自分が一番自然かって」
「うん」
「答えを出すためだけに考えるんじゃなくて、自分がどんな人間か知るためにも大事よ」
その言い方は、いつもより少しだけやわらかかった。
「どんな人間か、ね」
「ええ」
レナは続ける。
「ことりさんの前で落ち着く自分。朝比奈さんの前で昔のテンポに戻る自分。ひよりちゃんの前で庇いたくなる自分」
「……」
「全部、あなたの一部でしょ」
それはたしかにそうだ。
どれかが嘘で、どれかが本当というわけじゃない。
全部、本当なのだろう。
だからこそ、厄介だ。
「……ありがとな」
真央が言うと、レナは少しだけ肩をすくめた。
「礼を言われるようなことはしてない」
「いや、してる」
「じゃあ覚えておく」
レナはそう言って、その場を離れた。
真央は一人、しばらくそのまま窓の外を見ていた。
校庭の隅では、体育の授業をしているらしいクラスが見える。
平和だ。
外から見れば、全部普通の学校生活だ。
でも、自分の中だけが全然普通じゃない。
◇
その日の六限目は、古典だった。
先生の声が教室に響く。
板書のチョークが走る。
ノートを取る音。
いつもの授業風景。
そんな中でも、真央の頭は完全には授業へ向かっていなかった。
ことりとは、沈黙が苦じゃない。
その事実が、思っていた以上に重い。
たとえば文化祭のあと、窓際でどうでもいい話をしていたとき。
雨の日、傘の中で歩いていたとき。
言葉が少ない時間があっても、変に焦らなかった。
ことりが隣にいると、空気が変に尖らない。
むしろ、少しやわらかくなる。
じゃあ、それが“一番”なのか。
「白井」
「……はい」
気づけば先生に当てられていた。
「今の文法事項」
「えっと」
最悪だ。
完全に飛んでいた。
すると、斜め前のことりが、教科書の端を少しだけ指で示した。
ほんの一瞬。
誰にもバレないくらい小さく。
真央はそこを見て、どうにか答える。
「助動詞の連体形、です」
「そう」
先生がうなずき、授業が続いた。
助かった。
そして、その直後に真央は余計なことを考えてしまった。
こういうとき、ことりは自然に助ける。
押しつけがましくない。
でも、ちゃんと見ている。
その“見ていてくれる感じ”が、心地いいと思ってしまった。
「……やばいな」
小さく呟くと、後ろからみずきのペン先が軽く机をつついた。
振り返ると、みずきが小さな声で言う。
「今の、完全に飛んでたでしょ」
「悪い」
「ことりちゃんに助けられてたし」
「……見えてたのか」
「見えるわよ」
その返しは少しだけ不機嫌だった。
でも、それだけじゃない。どこか苦笑も混ざっている。
みずきの前では、真央は昔から気を抜きやすい。
良くも悪くも、自分のダメなところを見せやすい。
今だってそうだ。
「放課後」
みずきが小さく言う。
「少し残って」
「なんで」
「今日の授業、私も分かんないとこあるから」
「本当か?」
「七割くらい」
「残り三割は?」
「秘密」
そのやり取りに、真央は思わず少し笑ってしまう。
みずきはそういうやつだ。
真正面から本音を言うこともある。
でも、少しだけ逃げ道も残す。
その不器用さが、昔からみずきらしい。
ことりとは違う。
ひよりとも違う。
そして、その違いが、今は前よりずっとはっきり見える。
◇
放課後。
みずきは本当に授業の分からなかった部分をノートにまとめていた。
そこは七割本当だったらしい。
「ここ」
みずきが言う。
「この係り結びのとこ」
「おう」
真央がノートをのぞく。
机を挟んで、二人で同じページを見る。
「これ、結びだけ見ればいいんじゃなくて」
「うん」
「前の単語との繋がりも見たほうがわかりやすい」
「……あー、なるほど」
みずきは少しだけ顔を寄せる。
その距離が、文化祭前より少しだけ意識される。
でも、みずきといるときの真央は、ことりのときみたいに沈黙をやわらかく受け止める感じとは少し違う。
もっと昔からの流れの延長にある。
「真央」
「ん?」
「今日また、考えごとしてたでしょ」
「なんで分かるんだよ」
「わかる」
みずきは即答した。
「そういう顔してたし」
その返しに、真央は少しだけ笑う。
「おまえ、ほんと昔からそこ強いな」
「幼なじみだからね」
みずきはそう言ってから、ほんの少しだけ言葉を切った。
「……でも」
「うん」
「その“幼なじみだから”だけじゃ嫌なんだけど」
その一言は、前よりずっと静かだった。
でも、だからこそ真っ直ぐ届く。
真央は何も言えなかった。
言えないまま、でもちゃんと聞いている。
みずきは少しだけ笑う。
「今すぐ答えいらないのは、前に言ったし」
「うん」
「ただ、私はもう“昔から知ってる”だけの位置に戻る気ないから」
「……わかってる」
「ならいい」
みずきのこういうところも、真央は知っている。
強がりで、でも本気になるとちゃんと目を逸らさない。
ことりとは違う。
でも、違うからこそ、みずきの前の自分もまた自然なのだ。
どっちが正しいとかではない。
それが余計に苦しい。
◇
帰り道、ひよりからメッセージが入った。
『先輩、今日は行きません! でもちゃんと勉強してえらいので褒めてください!』
真央は思わず立ち止まりそうになった。
「なに」
みずきが聞く。
「ひより」
「あー……」
みずきはスマホの画面をちらっと見て、苦笑した。
「その子、ほんとすごいね」
「今日は来ません、って宣言してきた」
「成長してる」
「でも最後がそれか」
真央が言うと、みずきはふっと笑った。
「後輩だからこそできるやつなんでしょ」
その言い方は、ひよりを認めてもいた。
守ってやりたくなる。
危なっかしい。
でも前よりちゃんと考えている。
そういうところが、真央の中でまた別の感情を育てているのも確かだった。
「……褒めるのか?」
みずきが聞く。
「なんて返せばいいか迷ってる」
「“えらい”でいいんじゃない」
「雑だな」
「でも正解っぽい」
真央は小さく笑って、短く返した。
『えらい』
すぐに返事が来る。
『やったー! 好きです!』
「おい」
思わず声が出た。
「なに」
みずきが覗き込み、画面を見て吹き出した。
「ひよりちゃん、やっぱり強いわ」
「……だよな」
真央も苦笑するしかなかった。
ひよりといるときの自分は、たぶん少し甘くなる。
それが優しさなのか、庇護欲なのか、まだ自分でも整理できない。
◇
その夜、真央はベッドの上で天井を見ながら考えていた。
ことりといると、沈黙が苦じゃない。
みずきといると、昔からのテンポがある。
ひよりといると、守りたくなる。
どれも自分の本当だ。
でも、それぞれ違う。
違うからこそ、何も決められない。
違うからこそ、雑に“みんな同じ”とも言えない。
「……きついな」
小さく呟く。
答えを出すにはまだ早いのかもしれない。
でも、もう考えないふりをするのは無理だった。
誰といるときの自分が一番自然か。
その問いは、これから先、たぶん何度も真央の中へ戻ってくる。




