第43話 みずき、ついに感情を抑えきれずことりにぶつかる
朝比奈みずきは、その夜あまり眠れなかった。
原因ははっきりしている。
夕方の交差点。
雨。
一本の傘。
その中に並ぶ、白井真央と七瀬ことり。
ただそれだけの光景が、頭の中で何度も繰り返された。
別に、相合傘自体が特別なものだとは言わない。
雨の日に傘がなければ、そうなることもある。理屈は分かる。むしろことりが傘を持っていて、真央が持っていなかったなら、それは自然な流れだ。
でも、理屈が分かることと、平気でいられることは別だった。
「……最悪」
ベッドの上で、みずきは小さく呟く。
腹が立っていた。
ことりに対してだけじゃない。
真央に対しても、自分に対しても、全部に少しずつ腹が立っていた。
ことりが悪いわけじゃない。
ことりが傘を差し出したことも、たぶん正しい。
真央がそこに入ったのも、普通に考えれば当然だ。
なのに、見た瞬間、胸の奥がぐしゃっとした。
羨ましい。
悔しい。
先を取られた感じがする。
そして、そう思っている自分が面倒くさい。
「……ほんと、嫌」
そう呟いても、気持ちは少しも軽くならなかった。
◇
翌朝、教室に入った瞬間、みずきは自分の機嫌がだいぶ悪いことを自覚した。
つばさに会えば「顔こわ」と言われるだろう。
真央に会えば「どうした」と聞かれるかもしれない。
ことりを見たら、ちゃんと普通にできる自信がない。
そう思っていたのに、現実はもっと最悪だった。
ことりのほうが、先にこちらを見たのだ。
「お、おはよう」
少しだけ遠慮がちな声。
きっとことりも、昨日のことを引きずっている。だからこそ、慎重に声をかけてきたのだろう。
みずきは、その顔を見た瞬間に分かってしまった。
ことりも傷ついている。
嬉しかっただけじゃない。ちゃんと気にしている。
だからこそ、余計に腹が立った。
「……おはよ」
返事はできた。
でも、自分でも固い声だと分かった。
ことりが少しだけ表情を曇らせる。
その顔を見て、さらに気分が悪くなる。自分が悪者みたいじゃないか。
いや、実際かなり感じの悪いことは分かっている。
でも、今日はうまく抑えられる自信がなかった。
真央はまだ来ていなかった。
それだけが救いだった。
◇
一限目と二限目の間の休み時間。
つばさが早速、みずきの机に寄ってきた。
「おはよう、機嫌最悪さん」
「朝の挨拶でそれやめて」
「でも事実でしょ」
「……うるさい」
つばさは少しだけ笑う。
でも、その笑い方は昨日までより慎重だった。
「見たんだよね」
「何を」
「雨」
みずきは視線を逸らした。
その反応で十分だったらしい。つばさは小さく息を吐く。
「きついよね」
「……」
「ことりちゃんの立場でも、朝比奈さんの立場でも」
その言い方が妙にずるい。
片方だけ悪者にしないから、余計に怒りの向け先がなくなる。
「ことりちゃん、朝からかなり気にしてるよ」
つばさが続ける。
「知ってる」
「わかるんだ」
「顔見れば」
「そっか」
みずきは机の端を指で叩いた。
「だから余計に、どうすればいいか分かんないの」
「怒りたい?」
「……わかんない」
本音だった。
怒りたいわけじゃない。
でも、このまま何もなかったみたいにされるのも嫌だ。
みずきは少しだけ眉を寄せる。
「ことりちゃんが悪いって思いたいわけじゃないの」
「うん」
「でも、あの場面見せられて、平気なふりするのもしんどい」
つばさは珍しくすぐには茶化さなかった。
「じゃあ」
「なに」
「一回ちゃんと話したほうがいいんじゃない?」
その提案は、たぶん正しい。
正しいが、面倒くさい。
「……喧嘩になるかも」
「なるかもね」
「そこ否定しないんだ」
「でも今のままでも、たぶん勝手にこじれる」
それも、嫌になるほど正しい。
みずきはしばらく黙って、それから小さく息を吐いた。
「……あとで」
「うん」
「放課後、ことりちゃんに話す」
つばさはにやっとするかと思ったが、今回はわりと静かに頷くだけだった。
「それがいいと思う」
◇
その日一日、ことりとみずきの間には、見えない膜みたいなものがあった。
会話はする。
必要なやり取りもする。
でも、お互いに少しだけ慎重だ。
真央もそれに気づいているようだったが、下手に触れないほうがいいと判断したのだろう。珍しく、二人の間に割って入るようなことはしなかった。
そして放課後。
「ことりちゃん」
みずきが呼ぶ。
ことりが振り向く。
周囲にはつばさ、真央、レナがいたが、その呼び方の時点で、ただの用事ではないことは全員に伝わった。
「少し話せる?」
ことりは一瞬だけ息を止めた。
だが、逃げなかった。
「……うん」
「廊下」
短いやり取り。
ことりはノートを閉じて立ち上がる。
真央が何か言いかけたが、レナが小さく首を振った。
今は行かせるべきだという意味だろう。
二人は並んで教室を出た。
◇
廊下の端、非常階段の手前。
人通りは少ない。完全な密室ではないが、話すには十分な場所だった。
ことりは壁際に立って、少しだけ指先を握っている。
みずきは真正面に立ったまま、どう切り出すかを考えていた。
先に口を開いたのは、ことりだった。
「……昨日のこと、だよね」
「うん」
みずきは短く答える。
「ごめん」
ことりがすぐに言った。
「先に謝るのずるい」
みずきは思わずそう返した。
ことりが少しだけ目を見開く。
「え」
「そうやって、悪くないのに先に“ごめん”って言うと、こっちが怒りにくい」
その言い方は、少し刺々しかった。
自分でも分かっている。だが、柔らかく始められるほど器用ではなかった。
ことりは少しだけ黙ってから、視線を落とした。
「……怒ってるよね」
「怒ってる」
みずきははっきり言った。
「でも、ことりちゃんが悪いって言いたいのとはちょっと違う」
「……」
「それが一番面倒」
ことりは何も言わない。
みずきは続ける。
「昨日、見た瞬間、すごく嫌だった」
「うん」
「先に帰ってたのも、たぶんダサかったと思う」
「そんなこと」
「あるよ」
みずきはことりを見る。
「だって、あれ見て平気な顔なんて無理だったし」
ことりの肩が、少しだけ揺れる。
「……ごめん」
「だから、それ」
みずきが少しだけ眉を寄せる。
「本気で謝ってるのも分かるから、余計にやりにくいの」
「……うん」
「ことりちゃん、嬉しかったでしょ」
その問いは、かなりまっすぐだった。
ことりは数秒だけ黙って、それから、逃げずに頷いた。
「……うれしかった」
小さいけれど、はっきりした声だった。
「でも、そのあとみずきちゃんを見たら、すごく複雑になった」
「……」
「だから、嬉しいだけじゃなかった」
その言葉が正直すぎて、みずきは少しだけ息を止めた。
こういうところだ。
ことりは、ずるいくらいちゃんと本音を出す。
「私ね」
ことりが続ける。
「傘に入れたこと自体は、たぶん後悔してないの」
「うん」
「だって、あのまま白井くんを帰らせるの嫌だったから」
「……」
「でも、みずきちゃんに見られたのはきつかった」
みずきは小さく笑った。
苦い笑いだった。
「見たこっちもきつかったよ」
「だよね」
「うん」
少しだけ沈黙が落ちる。
でも、それは一方的な沈黙ではなかった。
「……ことりちゃんってさ」
みずきが言う。
「何」
「そうやって“ちゃんと悪気ない”のに、先を取るのずるい」
言ってしまった。
ことりの目が、少しだけ見開かれる。
「先を取るって……」
「自然に、でしょ」
みずきは自分でも驚くくらい正直だった。
「買い出しも、ポスターも、昨日の傘も」
「……」
「いつも“その場で一番自然な選択”みたいな顔して、ちゃんと真央の近くに行く」
その言葉は、半分は嫉妬で、半分は認めている言葉でもあった。
ことりはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「……必死だよ」
「え?」
「私だって、毎回必死」
ことりは顔を上げる。
「自然に見えるなら、それはたぶん、必死なのを隠してるだけ」
みずきは言葉を失った。
「昨日だって、すごく迷った」
ことりが言う。
「言っていいのかなとか、変に思われるかなとか」
「……」
「でも、あのまま帰らせたくなかった」
その気持ちは、みずきにもわかってしまう。
傘が一本しかなくて。
雨が強くて。
好きな人が困っていたら、そりゃ差し出す。
みずきだって、立場が逆ならそうしたかもしれない。
「だから」
ことりが続ける。
「ずるいって言われたら、たぶん否定しきれない」
「……」
「でも、楽に勝ってるわけじゃないよ」
その言葉に、みずきは思わず小さく笑ってしまった。
「勝ってるって、自分で言うんだ」
「そういう意味じゃなくて!」
ことりが慌てる。
その反応が少しだけいつも通りで、みずきはようやく肩の力が少し抜けた。
「……ごめん、意地悪だった」
「ううん」
「でも、ほんとに悔しかったの」
「うん」
「だから言いたかった」
ことりは頷く。
「言ってくれてよかった」
「怒らないの?」
「怒ってる」
ことりが正直に言う。
「ちょっとだけ」
「私も」
「だよね」
二人で少しだけ笑う。
笑いながらも、簡単に片付いたわけではないことは分かっている。
「……でも」
みずきが言う。
「これで、“何もなかったふり”はできなくなったね」
「うん」
「前よりちゃんとライバルって感じ」
その言い方に、ことりは少しだけ驚いて、それから静かに頷いた。
「私もそう思う」
敵というほどではない。
でも、譲る気もない。
それが今の二人にとって一番正確な言い方だった。
「戻る?」
みずきが聞く。
「うん」
二人は並んで教室へ戻る。
行きより距離は少しだけ近い。仲直りではない。でも、前よりずっと正面を向いている感じがした。
◇
教室の扉を開けると、真央がすぐにこっちを見た。
つばさも、レナもだ。
「……終わった?」
つばさが聞く。
「終わったっていうか」
みずきが答える。
「少し話した」
「喧嘩した?」
「ちょっと」
ことりが苦笑する。
「でも、ちゃんと話した」
その言葉に、レナが小さく頷いた。
真央は何か言いたそうだったが、結局何も聞かなかった。
それでいいのかもしれない。今はまだ。
ことりとみずきは、自分たちの席へ戻る。
すっきりしたわけじゃない。
それでも、昨日までより少しだけ、相手の感情に輪郭がついた。
ことりは“自然に先へ進む子”ではなく、“必死でその自然を作っている子”だった。
みずきは“怒りっぽい幼なじみ”ではなく、“羨ましくて悔しくて、それでもちゃんと前に出たい子”だった。
たぶんそれを知れただけでも、今日は意味があったのだろう。
そして、そうやって感情をぶつけ合えるところまで来てしまった時点で、もう後戻りはできないのだと、全員がどこかで分かっていた。




