第42話 雨の帰り道、ことりと一本の傘
その日の天気予報は、たしか朝の時点では曇りだったはずだ。
だから、教室の窓が急に暗くなり始めたときも、最初は誰も本気では気にしていなかった。
なんとなく空が重いな、くらい。
六月でもないのに、妙に湿った風だな、くらい。
だが、五限目と六限目の間の休み時間になったあたりで、外は明らかに様子を変えた。
「うわ」
窓際の席の誰かが声を上げる。
それにつられて何人も外を見た。
空は、灰色というより濃い鉛色だった。校庭の向こうに見える体育館の屋根が、もうすでに薄く霞んでいる。
「これ、降るやつだね」
つばさが言う。
「だいぶ本気のやつ」
「朝そんなこと言ってなかっただろ」
俺が返すと、つばさは肩をすくめた。
「天気ってそういうものじゃん」
「雑だな」
「でも当たるよ。ほら」
その“ほら”の直後だった。
窓ガラスに、小さな点がひとつ、ふたつ、三つ。
次の瞬間には、それが筋になる。
「うわ、降ってきた」
ことりが小さく言った。
たしかに雨だった。
しかも、遠慮のない降り方だ。ぽつぽつというより、最初から“ちゃんと降る”と決めていたみたいな雨。
「最悪」
みずきが窓の外を見ながら呟く。
「傘持ってきてない」
「私も」
つばさが続く。
「でも榊さんは持ってそう」
「持ってる」
レナが即答した。
そういうところ、本当に抜かりない。
「白井くんは?」
ことりがこっちを見る。
「持ってない」
「やっぱり」
「“やっぱり”って何だよ」
「なんとなく」
ことりが少しだけ笑う。
そのやり取りを見て、みずきが小さく息を吐いた。
だが、この時点ではまだ誰も、その雨が放課後まで残るとは思っていなかった。
◇
そして放課後。
雨は残っていた。
残っていたどころか、むしろ強くなっていた。
昇降口のガラス越しに見える校門前は、完全に白く煙っている。アスファルトはもう黒く濡れ切っていて、部活へ向かう生徒たちは傘を持っていても少し濡れているくらいだ。
「……これはきついね」
ことりが言う。
「きついな」
俺も答える。
俺は傘を持っていない。
朝、空を見て“今日はなんとかなるだろ”と判断した過去の自分を殴りたい。
周囲では、傘を持っているやつと持っていないやつがそれぞれ騒いでいる。
相合傘で帰るやつ。
家に連絡して迎えを頼むやつ。
しばらく様子を見るつもりのやつ。
「白井」
みずきが言う。
「ん?」
「どうすんの」
「どうするって」
「この雨で帰るの?」
「帰るしかないだろ」
「走る気?」
「最悪それ」
「バカじゃないの」
即答だった。
ことりは少しだけ迷う顔をした。
視線が、俺と、自分の傘とを行き来する。分かりやすすぎる。
たぶん今、ものすごく迷っている。
自分から言っていいのか。
言ったらどう見られるか。
でもこのまま見過ごすのも違う。
その全部が顔に出ていた。
つばさがその様子を見て、口元を押さえる。
「いやあ、これは」
「おまえは何も言うな」
みずきが先に釘を刺す。
「まだ何も言ってないよ」
「言いそうだから言ってるの」
ことりはまだ迷っていた。
だが、数秒の沈黙のあとで、小さく息を吸う。
「……白井くん」
「ん?」
「その、もし嫌じゃなかったら」
「うん」
「一緒に入る?」
言った。
その瞬間、昇降口の空気が少しだけ止まった気がした。
みずきの視線。
つばさの“来た”という顔。
レナの静かな観察。
そしてことり自身の、言ってしまったあとの赤くなった耳。
「……あ」
俺は一瞬だけ言葉を失った。
ことりは慌てて続ける。
「いや、変な意味じゃなくて!」
「今それ言うとかえって変だよな」
つばさが小声で言う。
「藤宮さん、黙って」
ことりが言い返す。
声は小さいのに、本気の色が混ざっていた。
俺は雨を見る。
ことりを見る。
そしてまた雨を見る。
正直に言えば、助かる。
この雨で走るのはだいぶ無理がある。
でも、それ以上に今のこの提案がどういう意味を持つかも分かってしまう。
「……嫌ではない」
結局、そう答えた。
ことりが少しだけ目を見開く。
「ほんと?」
「この雨の中を全力で帰るよりはだいぶ助かる」
「そこ、もっと言い方あると思う」
「今はそれで勘弁してくれ」
ことりは困ったように笑った。
でも、その笑い方は嬉しさを隠しきれていない。
みずきは何も言わなかった。
言わなかったが、その無言の中に、飲み込んだものがあるのは分かる。
レナが静かに言う。
「私は先に行くわ」
つばさも続く。
「私も榊さんの傘に入れてもらおうかな」
「やめて」
「ひど」
でも、たぶん気を遣ったのだろう。
みずきも「じゃ、私は走る」とだけ言って、もう一度だけことりの傘を見て、それから昇降口を出ていった。
その背中を見送りながら、ことりは少しだけ唇を結ぶ。
嬉しい。
でも、それだけじゃない。
みずきの顔が胸に引っかかる。
「……行こっか」
ことりが言う。
「ああ」
◇
一本の傘に二人で入ると、思っていたよりずっと距離が近かった。
当たり前だ。
高校生二人が並んで濡れないように入るには、傘は少しだけ小さい。
肩が触れそうになる。
腕が近い。
足並みを合わせないとすぐにどちらかがはみ出る。
「ごめん」
ことりが言う。
「何が」
「ちょっと狭いかも」
「いや、傘が悪い」
「傘に責任押しつけるんだ」
「だって事実だろ」
ことりが小さく笑う。
でも、その笑いのあとですぐに少しだけ黙る。
たぶん、緊張している。
俺もしている。
学校から駅へ向かう道。
雨音が強い。
傘に当たる音が、会話の合間を埋めるみたいに響いていた。
「……濡れてない?」
ことりが聞く。
「少しは」
「ごめん」
「だから傘が悪いって」
「またそれ言う」
ことりは少しだけ肩を寄せるようにして、傘の角度を変えた。
その動きで、腕が軽く触れる。
「……っ」
思わず息が止まりそうになる。
ことりも同じだったらしく、少しだけ顔を伏せた。
「……大丈夫?」
俺が聞く。
「大丈夫、じゃないかも」
「正直だな」
「だって近いし」
ことりのその一言は、雨音の中で妙に小さく、それでいてはっきり聞こえた。
近い。
たしかに近い。
物理的な距離も、今この場の空気も。
文化祭のあと、どうでもいい会話が増えた。
それだけでも十分前進だったのに、今は一本の傘の中にいる。
「……白井くん」
「ん?」
「こういうの、文化祭前だったら無理だったと思う」
ことりが言う。
「無理って?」
「こんなふうに、一緒に帰るの」
その言葉に、俺は少しだけ考える。
たしかにそうかもしれない。
文化祭前の俺たちは、まだ“秘密”と“意識”の間で揺れていた。ことりはもっと緊張していただろうし、俺ももっと変に構えていたはずだ。
「……今でもだいぶ無理寄りだけどな」
俺が言うと、ことりは吹き出した。
「それ、自分で言うんだ」
「だって近いし」
「私も思ってた」
少しだけ笑う。
雨の中なのに、なぜかその笑い声だけがやわらかく感じる。
数分歩くと、ことりの肩口が少し濡れていることに気づいた。
「ことり」
「え?」
「そっち濡れてる」
「うそ」
「ほんと」
俺は反射で傘を少しだけことり側へ傾けた。
そのせいで、今度はこっちの肩が濡れる。
「ちょ、だめだよ」
ことりが慌てる。
「白井くんのほうが濡れる」
「少しならいい」
「よくない」
「いやでも」
「よくないの!」
ことりがいつになく強く言う。
その真剣さに、俺のほうが少しだけ止まった。
「……なんでそんな必死なんだよ」
聞くつもりはなかった。
でも、口から出てしまった。
ことりは一瞬だけ黙る。
雨音だけが二人の間に落ちる。
「……だって」
小さな声だった。
「私だけ平気なの、嫌だから」
その言葉は、思っていたよりずっと重かった。
俺だけが濡れるのも嫌。
自分だけが守られる側みたいになるのも嫌。
たぶん、そういうことなのだろう。
「……そっか」
それしか言えなかった。
ことりは少しだけ視線を逸らしてから、傘の持ち手を握り直す。
「ごめん。変な言い方した」
「変ではない」
「そう?」
「うん」
俺はそう答えながら、自分でも少し驚いていた。
ことりといると、沈黙が苦じゃない。
むしろ、言葉がない時間ごと落ち着く。
雨音に紛れて並んで歩いているだけなのに、それがちゃんと成り立ってしまう。
それはたぶん、“ただ気まずくない”より少し先の感覚だ。
◇
駅前の交差点に着く少し前だった。
向こう側の歩道に、見覚えのある姿がいた。
みずきだ。
コンビニの袋を片手に持って、信号待ちをしている。
こちらに気づいたのは、ほとんど同時だった。
目が合う。
その一瞬で、俺はみずきが何を見たのかを理解した。
ことりと俺。
一本の傘。
近い距離。
しかも、ことりが傘を持っていて、俺がその隣に自然に入っている。
誤解の余地なんて、ほとんどないくらい絵になっていた。
「……あ」
ことりも小さく声を漏らす。
みずきは数秒だけ止まって、それから視線を逸らした。
信号が変わる。
人の流れが動く。
みずきはそのまま、こちらへ来るでもなく反対方向へ歩き出した。
追いかけるべきか、一瞬だけ迷う。
でも、今この場でことりを置いて行くのも違う。
しかも、みずきのあの顔は、追いかけたところで今すぐ何か言える顔ではなかった。
「……見られたね」
ことりが言う。
「うん」
「ごめん」
「なんでことりが謝るんだよ」
「だって、たぶん」
ことりは言いよどむ。
「今の、みずきちゃんにはきつい」
その言い方が、やけに正確だった。
嬉しいはずの相合傘。
でも、みずきの顔を見てしまったせいで、胸の中に少しだけ苦いものが混ざる。
「……行くか」
俺が言う。
「うん」
二人はまた歩き出した。
雨はまだ降っている。
文化祭が終わったあと、日常は戻ったふりをしていた。
でも、こうして小さな出来事ひとつで、感情は簡単に揺れ直す。
一本の傘の中で、ことりは確かに幸せだった。
そして同時に、その幸せが誰かを傷つけるかもしれないことも知ってしまった。
それでも、この近さが嬉しかったことだけは、もうどうにもできなかった。




