第41話 レナ、真央に“選ばれない優しさ”の残酷さを教える
榊レナは、文化祭が終わってからの白井真央を見ていて、一つだけはっきり感じていた。
このままだと、たぶんいつか決定的に誰かを傷つける。
悪気があるわけじゃない。
むしろ逆だ。
白井真央は、できるだけ誰も傷つけたくないと思っている。だから曖昧になる。だから優しくする。だから、選ばない。
でも、選ばれない優しさというのは、ときどき選ばれるより残酷だ。
レナはそういうことを知っていた。
自分が特別に恋愛経験豊富というわけではない。ただ、人の温度差を見ていると、そういうものは見えてしまうのだ。
その日の放課後、レナは保健委員の記録を持って保健室へ向かう途中、偶然真央を見つけた。
教室の外の廊下。
窓際に立って、少しだけ遠くを見ている。
あの顔は、考えごとをしている顔だ。
「白井くん」
声をかけると、真央が振り向く。
「ああ、榊」
「少し時間ある?」
「あるけど」
レナはそれ以上前置きせず、窓際の少し奥まで歩いた。
真央もついてくる。
「今日は文化祭の後処理じゃないのか」
真央が聞く。
「それもあるけど、本題は別」
「本題?」
レナは少しだけ真央の顔を見る。
「今日の朝比奈さんの件」
真央が、ほんのわずかに息を止めたのが分かった。
「……やっぱり、見てたか」
「教室にいたもの」
「そうだよな」
レナは腕を組んだ。
「朝比奈さんが嫉妬してるって言ったこと自体は、別に珍しくない」
「珍しくないのか」
「見てれば分かるから」
そこは真央も否定しなかった。
「でも問題は、そのあと」
「そのあと?」
「あなた、ちゃんと受け止めたでしょ」
その言い方に、真央は少しだけ眉をひそめた。
「受け止めるだろ、普通」
「そう」
レナは頷く。
「ことりさんにもそうしてる」
「……」
「ひよりちゃんにも、たぶんそう」
真央は沈黙した。
それが答えみたいなものだった。
「で?」
しばらくして、真央が言う。
「それの何がまずい」
「全部がまずいわけじゃない」
レナは淡々と答える。
「でも、“ちゃんと受け止める”のに“何も返さない”状態が長く続くと危ない」
その一言が、やけに重く落ちる。
「何も返してないつもりはない」
真央が言う。
「優しくしてるし、ちゃんと聞いてるし」
「そういう意味じゃない」
レナは首を横に振った。
「気持ちを受け取ることと、気持ちに何を返すかは別」
真央は少しだけ視線を逸らした。
「……まだ、答えなんて出ないだろ」
「今すぐ出せとは言ってない」
「じゃあ」
「でも、曖昧なまま優しくすることは、もうメッセージになってる」
真央はそこで完全に黙った。
窓の外では、運動部の声が遠く聞こえる。
廊下には他の生徒の気配もない。
静かな場所ほど、言葉は深く刺さる。
「たとえば」
レナが続ける。
「ことりさんにとっては、あなたが自然に話してくれること自体が“期待していいのかも”になる」
「……」
「朝比奈さんにとっては、ちゃんと話を聞いてくれることが“まだ私にも可能性がある”になる」
「……」
「ひよりちゃんにとっては、優しくされるたびに“やっぱり好きでいていいんだ”になる」
真央の表情が、少しずつ固くなる。
「全部、間違ってるわけじゃない」
レナは言う。
「でも、全部そのまま育てたら、いつか誰かが一番深く傷つく」
真央はしばらく何も言わなかった。
レナも急かさない。
「……じゃあ、どうしろっていうんだよ」
ようやく出た声は、少しだけかすれていた。
「冷たくしろって?」
「それも違う」
「じゃあ」
「“誰にも嫌われたくない優しさ”を、自分で美徳だと思わないこと」
レナは静かに言った。
その言葉に、真央は一瞬だけレナを見た。
「美徳って」
「だって、少し思ってるでしょ」
「……」
「みんなの気持ちを否定しないで、できるだけ傷つけずにいたいって」
レナはそこで少しだけ目を細める。
「それ自体は悪くない。でも、誰も選ばない優しさは、選ばれるより残酷なこともある」
真央は返事をしなかった。
でも、その沈黙は理解している沈黙だった。
「今のあなたは」
レナが続ける。
「自分では“まだ誰も選べない”と思ってる」
「……そうだよ」
「でも、相手から見たら“選ばれないまま優しくされてる”状態にも見える」
そのズレが、痛い。
レナはようやく少しだけ表情をゆるめた。
「だから今すぐ決めろとは言わない」
「……」
「でも、せめて自分が“答えを先延ばしにしてる側”だって自覚したほうがいい」
真央は窓の外を見た。
運動部の掛け声。
夕方の光。
いつもの学校。
なのに、心の中だけが全然いつも通りじゃない。
「……きついな」
小さく言う。
「そうね」
「榊って、ほんとに容赦ないよな」
「今はそのほうがいいと思ったから」
レナはそう言って、ファイルを抱え直した。
「少なくとも、ことりさんも朝比奈さんも、ひよりちゃんも、もう引き返せるところにはいない」
その言葉が、妙に現実だった。
「あなたもたぶん、もう同じ」
真央はそれを否定できなかった。
レナは少しだけ真央を見つめてから、最後に言った。
「選ばれない優しさってね」
「……うん」
「選ぶ覚悟がない人だけが持てるものじゃないの」
真央が顔を上げる。
「本当に優しい人なら、いずれどこかで、自分が悪者になる覚悟もしないとだめ」
そこまで言うと、レナは踵を返した。
「じゃあ、保健室行くから」
「……ああ」
廊下に一人残された真央は、しばらくその場を動けなかった。
誰にも嫌われたくない。
できるだけ傷つけたくない。
その気持ちは今も変わらない。
でも、その優しさのままではもう進めない。
レナは、そう言ったのだ。
それは厳しい。
でも、たぶん本当だった。




