第39話 ことりの笑顔は、少しずつ“彼女候補”に近づいていく
文化祭が終わって一週間ほど経つと、ことりは自分でも驚くくらい、真央と話すことに慣れ始めていた。
もちろん、完全に平気になったわけではない。
好きな相手なのだから、近くにいれば緊張するし、名前を呼ばれるだけで少しだけ心臓がうるさくなる。
でも、“話しかけてもいいんだ”という感覚が育ってきたのは大きい。
文化祭前は、理由が必要だった。
英語の質問。
ポスターの相談。
買い出しの確認。
けれど今は、それが少しだけ変わっている。
「ねえ白井くん」
「ん?」
「今日の現代文の先生、ちょっと眠そうじゃなかった?」
たとえば、そういうどうでもいい話題。
昼休み、窓際でパンを食べていた真央へ、ことりが何のメモもノートも持たずに声をかける。
真央は少しだけきょとんとしてから、普通に頷いた。
「眠そうだったな」
「だよね」
「黒板書きながら一回止まってたし」
「私もそこ見てた」
二人で小さく笑う。
それだけだ。
なのに、その“それだけ”がうれしい。
ことりは、自分でも少しずつ分かってきていた。
好きな相手と仲良くなるって、劇的なイベントだけじゃない。
むしろ、こういう小さな日常会話がちゃんと続くことのほうが、ずっと強いのだと。
ことりは真央の前に立ったまま、少しだけ笑う。
「なんか、前より話しやすいね」
「そうか?」
「うん」
真央は少しだけ考えてから言った。
「文化祭のときに毎日話してたからじゃないか」
「それだけ?」
「それだけじゃないのか」
ことりは、その返しに少しだけ視線を落とした。
「……わかんない」
本当は少しわかっている。
文化祭のせいだけじゃない。自分が前より“話したい”と思っているからだ。
でも、そこまで素直に言うのはまだ少し怖かった。
「ことりちゃん」
つばさが後ろからひょいと顔を出す。
「なに」
「最近いい感じだよね」
「何が」
「白井くんとの空気」
ことりは反射で顔を赤くした。
「そういうのすぐ言う」
「だってほんとだし」
つばさはけろっとしている。
「前は“意識してます!”って感じだったのが、今は“自然に近いけどちゃんと特別”って感じ」
「……意味わかんない」
「わかるよ。要するに彼女候補っぽくなってきたってこと」
その一言は、かなり強かった。
「藤宮さん!」
ことりが小声で抗議する。
だが、つばさはまったく引かない。
「いや、ほんとに。だってさ、ことりちゃん今、白井くんの前で笑うの自然になってるじゃん」
「それは……」
「しかも白井くんも、それを当たり前に受け取ってる」
ことりは思わず真央のほうを見る。
真央はパンを持ったまま「なんで俺まで巻き込まれてるんだ」という顔をしていた。
「おまえ最近ほんと好き勝手言うな」
真央がつばさに言う。
「好き勝手というか、観測結果」
「その観測やめろ」
「無理」
つばさは胸を張った。
でも、つばさの言葉は半分くらい本当なのだろう。
ことり自身も、前より“彼女候補っぽい”と言われるような空気が、自分の中に育ってきているのを感じる。
好き。
でも、ただ好きなだけじゃない。
真央の前で笑いたいし、真央にとって“話しやすい相手”でいたい。
それはもう、“秘密を共有した特別な相手”より少し先の場所だ。
◇
放課後、その日はたまたまことりと真央だけが少し遅くまで教室に残っていた。
委員会の書類を出しに行った帰り、ことりが教室へ戻ると、真央が一人で窓を閉めているところだった。
「あ、まだいたんだ」
ことりが言う。
「そっちこそ」
「委員会」
「ああ」
その会話だけで、ことりの肩から少し力が抜ける。
前なら、“二人きりだ”と思っただけで心拍数が跳ね上がっていた。
今ももちろん少しは上がる。けれど、逃げたくなる感じではない。
「白井くん」
「ん?」
「今日、何で残ってたの?」
「先生にプリント頼まれてた」
「そっか」
ことりは自分の席の近くまで行って、鞄を持ち上げる。
でも、そのまま帰るには少し惜しい気がした。
たぶん、こういうのが“欲張り”なのだろう。
「……ねえ」
「うん」
「今、ちょっとだけ時間ある?」
「あるけど」
「じゃあ」
ことりは少しだけ迷って、それから言った。
「ほんとにどうでもいい話、してもいい?」
真央が少しだけ目を丸くする。
それから、ふっと笑った。
「なんだそれ」
「だって、用事ないし」
「用事ないと話せないのか」
「……前までは、ちょっと」
ことりが正直に言うと、真央は少しだけ黙った。
「今は?」
「今は、少しだけ話したいから」
そこまで言うと、さすがに恥ずかしい。
ことりは視線を逸らした。だが、真央は変なふうにごまかしたりしなかった。
「じゃあ、話せばいいだろ」
それだけだった。
それだけなのに、ことりは胸の奥が温かくなるのを感じた。
二人はそのまま窓際の席に座った。
「で、どうでもいい話って何」
「えっと」
ことりは少し考えた。
「最近、放課後になると眠くない?」
「それはわかる」
「やっぱり?」
「文化祭終わって気が抜けたんじゃないか」
「私もそう思ってた」
「あと、昼休み短く感じる」
「それもわかる!」
会話が続く。
本当にどうでもいい話だ。
でも、そのどうでもよさが今はうれしい。
ことりは笑いながら、ふと思う。
ああ、こういうことなんだ。
彼女っぽさとか、特別な相手っぽさって、たぶん“すごいイベント”じゃなくて、“こんなどうでもいい会話が自然にできること”なのだ。
「……ことりってさ」
不意に、真央が言った。
「ん?」
「最近、前よりよく笑うよな」
その一言に、ことりは一瞬だけ止まった。
「え?」
「いや、前から笑ってたけど」
真央は言葉を探す。
「前より、こっちの前で普通に笑う感じ」
ことりは頬が熱くなるのを感じた。
それは、たぶん自分でも自覚がある。
前より緊張はしているのに、前より笑える。
好きだとわかってしまったからこそ、逆に隠すだけではいられなくなっている。
「……だめ?」
ことりが聞く。
「なんでそうなる」
「だって、変わったってことでしょ」
「変わったけど、だめではない」
真央はそう言って、少しだけ困ったように笑う。
「そのほうが、話しやすいし」
それはたぶん、ことりにとって今日一番の言葉だった。
「……そっか」
ことりは視線を落とす。
笑いそうになる。うれしくて。恥ずかしくて。
真央にとって、自分は“話しやすい相手”になってきている。
それは、今のことりにとってとても大きい。
「じゃあ、もっと笑うかも」
ことりが小さく言うと、真央が「そうかよ」と笑った。
その笑い方が、前よりずっと自然で、ことりは自分の中に少しずつ根を張っていく安心感を感じた。
◇
そのころ、教室の外からたまたま戻ってきたつばさは、廊下の角からその空気を見て、小さく口元を押さえていた。
「うわ」
思わず声が漏れる。
横にいたレナが、少しだけ眉を上げる。
「なに」
「いやあ」
つばさは教室の中を指さした。
「ことりちゃん、だいぶ彼女候補感あるなって」
レナもそっと教室の中を見る。
窓際で並んで座ることりと真央。距離は近すぎない。でも、空気がやわらかい。
ことりが何か言う。
真央が返す。
ことりが笑う。
その流れがあまりにも自然だ。
「……そうね」
レナも認めざるをえなかった。
「前より、ずっと“日常の中にいる”感じ」
「でしょ?」
「でも、そのぶん朝比奈さんはきついでしょうね」
つばさは少しだけ黙る。
「うん。たぶんね」
ことりの笑顔は、少しずつ“彼女候補”に近づいている。
それはことり一人の変化だけじゃない。真央の反応まで含めた、二人の距離感そのものの変化だ。
そして、そういう空気は、周りにもちゃんと見える。
文化祭が終わって、日常へ戻った。
でも、戻った日常の中で、恋だけは確実に前へ進んでいた。




