第38話 小さな噂は、本人の前にじわじわ届く
噂というものは、不思議なくらい“本人に聞こえるぎりぎりの音量”で広がる。
誰かがはっきり「おまえと誰それって付き合ってるの?」と聞いてくるわけじゃない。
でも、廊下ですれ違うときの目線とか、昼休みに混ざる名前とか、「最近なんかさ」と始まる曖昧な会話の端に、ちゃんとそれはある。
そして今、二年A組の俺の周辺には、その“じわじわ来るやつ”が確実に発生していた。
「……聞こえた?」
昼休み、ことりが小さく聞いた。
場所は教室の窓際。
俺は購買のパンを食いかけで、ことりは机の横に立っている。
さっき廊下側の席で、女子が二人、小さな声でこう言っていたのだ。
「文化祭から白井と七瀬、ちょっと変わったよね」
「わかる。あと朝比奈さんも、なんか本気っぽい」
ぜんぶ、ちゃんと聞こえていた。
「……聞こえた」
俺が答えると、ことりはほんの少しだけ眉を下げた。
「だよね」
「ことりも?」
「うん」
ことりはそう言って、少しだけ困ったように笑う。
「私、ああいうの耐性ないかも」
「俺もない」
「白井くんも?」
「あるように見えるのか」
「ちょっとだけ」
「買いかぶりだろ」
ことりは小さく笑った。
でも、その笑い方にはやっぱり少しだけ硬さがある。
文化祭が終わって、日常に戻った。
戻ったはずなのに、周囲の目線は戻ってくれない。むしろ、“文化祭のときに見えたもの”を元に、前よりいろいろ想像され始めている感じがする。
「白井」
後ろから、みずきの声。
「なに」
「ちょっと来て」
「なんで」
「いいから」
その口調が、だいぶ“今すぐ”だった。
ことりと目が合う。ことりは少しだけ気まずそうにしつつ、「行ってきたら」と視線で言った。
教室の後方まで行くと、みずきが腕を組んだまま待っていた。
「今の、聞こえたでしょ」
「……聞こえた」
「最悪」
即答だった。
「そういう顔してるぞ」
「してるだろうね」
みずきはほんとうに嫌そうな顔をしていた。
文化祭のときみたいな露骨な焦りではなく、“ついに周りにも見えてきたか”という現実への苛立ちに近い。
「別に、嘘は言われてないんだけど」
みずきが小さく言う。
「それが余計やだ」
その言葉に、俺は返事ができなかった。
たしかにそうだ。
完全な勘違いなら、「違う」で終わる。
でも今の噂は、どこか微妙に核心へ触れている。だから痛い。
「……ねえ」
みずきが少しだけ声を落とす。
「真央は、こういうのどう思うの」
「どうって?」
「もう外から見えてるんだなってこと」
その問いは、思っていたより重かった。
俺は少し考えてから言う。
「正直、思ってたより早い」
「だよね」
「でも、文化祭であれだけ一緒に動いてたら、そりゃそうかとも思う」
「冷静だね」
「冷静じゃない。ただ、否定しきれないだけ」
みずきは一瞬だけ黙って、それから小さく息を吐いた。
「……そういうの、今は一番聞きたくない」
「悪い」
「でも分かるから腹立つ」
そこへ、つばさが当然のように混ざってきた。
「はいはい、噂タイムだねえ」
「おまえは来るな」
みずきが即座に言う。
「でも必要じゃない?」
「何が」
「今の空気を客観視できる人」
「自分で言う?」
「言うよ。だってほんとだし」
つばさはまったく悪びれず、俺たちの顔を見比べた。
「でもさ、いいことでもあるんだよ」
「どこが」
俺が聞くと、つばさは肩をすくめる。
「もう“何も起きてません”の段階ではなくなったってこと」
それは、かなり本質的だった。
文化祭前なら、まだ“ちょっと距離近くない?”くらいのレベルだった。
今はもう、ことりと俺の空気、みずきの動き、ひよりのまっすぐさ、その全部が少しずつ周囲にも伝わり始めている。
見えている。
それはつまり、自分たちだけの中でごまかしても、無かったことにはできないということだ。
「……嫌な言い方するね」
みずきが言う。
「でもほんとでしょ」
「ほんとだけど」
「じゃあ仕方ない」
つばさは言い切った。
「むしろ、ここで“なんでもないふり”続けるほうが痛いよ」
その言葉を、みずきは否定しなかった。
俺も、できなかった。
◇
その日の放課後、ことりは珍しく少し元気がなかった。
教室に残っている人数は少ない。
ことりは自分の席でノートを閉じたり開いたりして、帰るタイミングを決めかねているみたいだった。
「ことり」
声をかけると、ことりが少しだけ驚いた顔でこっちを見る。
「ん?」
「……だいじょうぶか」
自分でも、ひどく曖昧な聞き方だと思った。
でも、何をどう聞くのが正解か分からなかった。
ことりは少しだけ視線を落としてから、苦笑した。
「噂のこと?」
「まあ」
「平気、とは言えないかな」
「……だよな」
「うん」
ことりは正直だった。
そして、そういうとこが強いとも思う。
「でも」
ことりは続ける。
「嫌なだけじゃない」
「え?」
「だって、文化祭のときのこととか、今まで話してきたこととか、そういうのを“何もなかった”みたいにされるのも違うし」
その言葉に、俺は少しだけ止まる。
「だから、噂は恥ずかしい。恥ずかしいけど」
「うん」
「見えてるなら、それはもう見えてるんだなって思うだけかも」
そこまで言ってから、ことりは少しだけ笑った。
「……強がり半分だけど」
「半分なのか」
「うん。半分は本音」
その答えがことりらしかった。
ことりは怖がっている。
でも、だからって引っ込むだけではない。そこが、文化祭前より少し強くなったところなのだろう。
「白井くんは?」
ことりが聞く。
「何が」
「嫌?」
その問いには、いろんな意味が混ざっていた。
噂が立つこと。
ことりとのことを言われること。
周囲に見えてしまっていること。
どれに対する“嫌?”なのか、わざわざ言わなくても分かる。
「……嫌、だけじゃない」
俺は正直に答えた。
ことりの目が少しだけ開く。
「噂になるのはだるい」
「うん」
「でも、ことりと話してること自体は、別に嫌じゃない」
ことりは少し黙ってから、小さく「そっか」と言った。
「それなら、ちょっと安心した」
その顔は、ほんの少しだけ嬉しそうだった。
それを見てしまうと、また俺のほうが落ち着かなくなる。
◇
翌日、レナが廊下で俺を捕まえた。
「白井くん」
「ん?」
「少しいい?」
「いいけど」
レナは教室から少し離れた窓際まで歩く。
こういう“少しいい?”は、レナの場合だいたい本題が重い。
「噂、広がってるわね」
開口一番、それだった。
「……やっぱり」
「やっぱり、っていうか見れば分かるでしょ」
レナは淡々としている。
でもその淡々さが、妙に現実味を増す。
「ことりさんも朝比奈さんも、前より外の目を意識してる」
「うん」
「ひよりちゃんはまだ半分くらい分かってない」
「それも、うん」
「で、あなたは?」
その問いに、俺は少しだけ詰まった。
「俺?」
「“見えてるなら、もうごまかせない”って意味、ちゃんと分かってる?」
レナの声は静かだった。
「今までは、あなたが優しいとか鈍いとかで済んでた。でも周囲に見えてきたら、もう“そういう関係に見える相手”ができてるってこと」
「……」
「それを本人たちだけじゃなく、周りも認識し始めた」
そこまで言われると、逃げようがない。
「少なくとも」
レナは続ける。
「“なかったこと”では進めないわよ」
その一言は、文化祭のあとで感じていたことを、はっきり言葉にしたものだった。
たしかにそうだ。
ことりとの会話。みずきの寄り道。ひよりの告白めいた言葉。
どれも、もう以前の“ただのクラスメイト”“ただの幼なじみ”“ただの後輩”で処理できる範囲を少しずつ超えている。
「……きついな」
思わず漏れると、レナは少しだけ肩をすくめた。
「そういう段階に来たってこと」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃないわよ」
レナは珍しく、少しだけ表情を和らげた。
「でも、今のまま“誰も傷つけたくないから曖昧でいる”を続けると、たぶんそのほうが痛い」
その言葉が、妙に胸に残る。
誰も傷つけたくない。
それは本音だ。
でも、その気持ち自体が、もう万能ではないのだと、最近やっと分かり始めている。
「……榊ってさ」
「なに」
「たまにすごく厳しいよな」
「たまにじゃなくて、わりといつもよ」
「それは認めたくない」
レナは少しだけ笑った。
「でも、白井くん」
「ん?」
「厳しいこと言ってるのは、今ならまだ間に合うから」
その言い方に、俺は一瞬だけ言葉を失った。
間に合う。
何に対してかは、はっきりとは言われていない。
でも、たぶん“誰かの気持ちを雑にこじらせる前に”という意味なのだろう。
レナはそれ以上は言わず、保健委員のファイルを持ち直した。
「じゃあ、私は行くから」
「ああ」
「今日も変なため息つかないようにね」
「努力する」
「努力でどうにかなるなら楽なんだけど」
それだけ言って、レナは去っていった。
廊下に残された俺は、窓の外を見ながら小さく息を吐く。
たぶん、今日のため息もまた、レナには見抜かれているのだろう。
小さな噂は、本人たちの前にじわじわ届く。
そして届いたあとに残るのは、恥ずかしさだけじゃない。
もう見えている。
見えている以上、誰も前と同じ顔ではいられない。




