第37話 ひより、空気を読む努力を始めるが、まだだいぶ危ない
小日向ひよりは、文化祭のあとで一つだけ偉くなった。
自分が“空気を読めていないことがある”と、ちゃんと理解したのである。
遅い。
本人もそれは分かっている。
「でも、分かってるのとできるのは別なんですよね……」
一年の教室で、ひよりは机に突っ伏した。
友達が横から呆れた声を出す。
「また先輩のこと?」
「またって何」
「またでしょ」
その通りだった。
文化祭のとき、ひよりは初めてはっきり知った。
白井先輩の近くには、もうすでに“強い人たち”がいる。
ことり先輩。みずき先輩。たぶん他にも。
その中へ、前みたいに何も考えず飛び込めば、空気をかき回すだけになる。
「だから、今日はちゃんと考えて行くの」
ひよりは顔を上げた。
「行くのは行くんだ」
友達が言う。
「行くよ。だって会いたいし」
「開き直った」
「開き直ったわけじゃないもん。ちゃんと空気読むの」
そう言って立ち上がったひよりだったが、その十分後には、二年の廊下で不自然な動きをしていた。
教室の入口まで行って、引き返す。
また近づいて、立ち止まる。
中をちらっと見て、視線が合いそうになると慌てて隠れる。
怪しい。
びっくりするくらい怪しい。
「……なにしてんの、ひよりちゃん」
通りかかったつばさが、いかにも楽しそうに声をかけた。
「ひゃっ!?」
ひよりが飛び上がる。
「ふ、藤宮先輩!」
「完全に不審者だよ」
「違うんです! 空気読もうとしてて!」
「読めてない人の動きなんだよなあ、それ」
ぐうの音も出ない。
「だって……」
ひよりは小声になる。
「前みたいに、いきなり元気に入っていくのよくないかなって」
「それは正しい」
「だからタイミング見てたんです」
「それで壁に張りついてるのは違う」
「そうなんですか……」
しゅんとするな。
それはそれで可哀想になる。
「ほら、入るなら普通に入る」
つばさが言う。
「で、話しかけるなら短めに」
「短め……」
「あと、“白井先輩!”って叫ばない」
「難易度高いです!」
「そこが一番大事だから」
ひよりは真剣な顔で頷いた。
そして、意を決したように教室へ入る。
その時点で、ことりとみずきと真央がほぼ同時にひよりへ気づいた。
「……あ」
ひよりは一瞬だけ固まる。
ここでいつもの“先輩!”が出ないあたり、たしかに努力している。
「こ、こんにちは」
かなりぎこちない。
ことりが少しだけ目を丸くしたあと、やわらかく笑った。
「こんにちは、ひよりちゃん」
「こんにちは」
みずきも続く。
真央はその様子を見て、少しだけ首をかしげた。
「なんか今日おとなしいな」
「そ、そうですか?」
「うん」
「空気読んでるので!」
言った瞬間、ひより自身が「あっ」という顔になった。
つばさが後ろで吹き出す。
「宣言しちゃった」
「だって本当だし!」
「それを言うと台無しなんだよなあ」
みずきが小さくため息をつく。
でも、前みたいに露骨に嫌そうにはしない。
「……で、今日は何しに来たの?」
ことりが聞く。
「えっと」
ひよりは鞄から小さな包みを取り出した。
「これ、クラスで余ったクッキーなんですけど」
「余り物?」
真央が言う。
「言い方!」
「違うのか」
「違わないですけど!」
そのやり取りが少しだけいつも通りで、ひよりは逆にほっとした。
ことりが包みを受け取りながら、ひよりを見る。
「ひよりちゃん、今日ほんとに静かだね」
「がんばってます!」
「そこは伝わる」
みずきが言う。
「でも、ちょっとぎこちない」
「うぅ……」
「まあ、前よりマシだけど」
その“マシ”が、ひよりには妙に嬉しかった。
みずき先輩にそう言われるのは、前なら少し怖かったのに、今はちゃんと見てもらえてる感じがする。
「先輩」
ひよりは真央を見る。
「ん?」
「今日、五分だけ話せますか?」
その言い方は、今までのひよりならしなかった。
いきなり来て、いきなり話して、勢いで押していたはずだ。
ことりとみずきが、その変化に同時に気づく。
「……え」
ことりが目を丸くする。
「ちゃんと時間聞いた」
みずきが小さく呟く。
真央も少し驚いた顔をした。
「別にいいけど」
とっさにそう返す。
ひよりの顔がぱっと明るくなる。
だが、その反応を見た瞬間、ことりとみずきの空気がまた少しだけ変わった。
そうだ。
ひよりは成長したのだ。
そして、その“ちゃんとした近づき方”は、前よりずっと厄介でもある。
「今?」
真央が聞く。
「いえ、放課後で大丈夫です!」
「わかった」
そのやり取りが、ことりには少しだけ胸に刺さる。
無邪気に突っ込んでくる後輩は危ない。
でも、空気を読んだうえでまっすぐ来る後輩は、もっと危ない。
つばさが、ことりとみずきの顔を交互に見て、小さく言った。
「ね?」
「何が」
みずきが低く返す。
「成長した後輩って、逆に脅威でしょ」
「……うるさい」
みずきはそう言ったが、否定はしなかった。
ことりも同じだった。
◇
放課後。
ひよりは約束どおり、きちんと五分だけ時間をもらった。
教室の外。廊下の窓際。
前みたいに旧校舎裏へ呼び出したりはしない。そこも少し成長している。
「で?」
真央が聞く。
「なに話したいんだ」
ひよりは両手を胸の前で組んで、少しだけ背筋を伸ばした。
「えっと」
「うん」
「最近、ちょっと考えたんです」
「何を」
「私、先輩のこと好きかもしれないって言ってたじゃないですか」
「……うん」
「それ、ちゃんと考えたら、やっぱり好きだと思います」
前よりずっと静かだった。
だからこそ、本気で考えて出した答えなのだと伝わる。
「でも」
ひよりは続ける。
「先輩の近くには、もうちゃんと大事な人たちがいる感じがするので」
真央は一瞬だけ言葉に詰まる。
「だから、邪魔したいわけじゃないです」
「……」
「でも、いなくなるのも嫌なんです」
その言葉は、ひよりらしいまっすぐさだった。
「わがままだって分かってます」
「ひより」
「だから、ちゃんと空気読みながら好きでいようかなって」
その発想はなかなか新しかった。
「それ、ありなのか?」
「わかりません!」
ひよりが即答する。
「でも今の私にはそれが限界です!」
真央は思わず少しだけ笑ってしまった。
「限界なのか」
「限界です!」
ひよりは真剣だった。
その真剣さが、少しだけ愛おしくもあり、危うくもある。
「……ちゃんと考えたんだな」
真央が言うと、ひよりはぱっと顔を上げた。
「はい!」
「えらいじゃん」
その一言が、ひよりには強すぎた。
「せ、先輩、そういうとこです!」
「何が」
「その、ちゃんと見てくれる感じ!」
真央はしまったと思ったが、もう遅い。
またやってしまった。
でも、ひよりは前みたいに勢いだけではしゃがなかった。
少しだけ息を整えて、それから笑った。
「……でも、今日はこれだけです」
「ほんとに五分だな」
「成長したので!」
「そのアピール何回するんだ」
「言いたくなるじゃないですか」
ひよりはえへへと笑って、それからぺこりと頭を下げた。
「じゃあまた」
「おう」
真央が教室へ戻ると、そこにはことりとみずきがいた。
待っていたわけではない。
でも、明らかに気にしていた顔ではある。
「……話、終わったの?」
ことりが聞く。
「ああ」
「何だった?」
みずきも聞く。
真央は少しだけ迷ってから答える。
「ちゃんと考えたら、やっぱり好きだって」
その一言で、空気が静かに揺れた。
ことりは小さく息を呑む。
みずきは一瞬だけ目を閉じた。
でも二人とも、前みたいに感情をそのままぶつけたりはしなかった。
「……そっか」
ことりが言う。
「うん」
「ちゃんと考えて、言ったんだ」
みずきも続ける。
「みたいだな」
その返事のあと、しばらく三人とも黙った。
無邪気な後輩は、ときどき本命より強い。
でも、空気を読む努力を覚えた後輩は、もっと厄介だ。
その事実を、ことりもみずきも、そして俺も、静かに思い知ることになった。




