第36話 みずき、寄り道を“たまたま”で終わらせないと決める
朝比奈みずきは、文化祭が終わってからのほうが、むしろ落ち着かなくなっていた。
文化祭準備のあいだは、忙しかった。
やることが多くて、時間が過ぎるのが早くて、感情を抱えたままでもなんとか動けた。
でも今は違う。
放課後に理由がない。
理由がないからこそ、“誰が自分で理由を作るか”が見えてしまう。
七瀬ことりは、それをやり始めている。
英語の続き。
古文の質問。
ちょっとした雑談。
一つずつは小さい。でも、その“小さい”を積み重ねられるのが強い。
「……ほんと、やだ」
朝、自分の席に座りながら、みずきは小さく呟いた。
目の前では、ことりが友達と話している。
そして少し離れた場所では、真央が机に突っ伏すでもなく、ぼんやりノートを見ている。
見慣れた光景だ。
でも、その中身は前と違う。
ことりは真央に話しかけることを、もう前ほどためらっていない。
真央も、それを当たり前みたいに受け止め始めている。
その自然さが、腹立たしいくらいに強い。
「顔こわ」
横から、つばさが言った。
「朝から失礼なんだけど」
「いや、だって今の完全に“ことりちゃん先行してんなあ”の顔だったし」
みずきは反射でつばさを睨む。
「……見えてるなら言わなくていい」
「見えてるから言うんだよ」
つばさは遠慮なく笑う。
「でも、ことりちゃんが動いてるの見て、朝比奈さんもそろそろ本気で焦ってるでしょ」
「焦ってない」
「その否定、最近ちょっと弱いよね」
図星だから腹が立つ。
みずきは深く息を吐いて、椅子の背にもたれた。
「……じゃあ、どうすればいいの」
「お、今日は素直」
「うるさい」
つばさは少しだけ真面目な顔になった。
「この前、コンビニ行ったじゃん」
「うん」
「でもあれ、“一回成功した”で満足してると意味ないよ」
その言葉が胸に刺さる。
確かにそうだ。
あの日、みずきは自分から真央を誘って、一歩踏み出した。
でも、それきりだ。
一度だけの寄り道は、強い。
けれど、一度きりなら“その時だけの勢い”で終わってしまう。
「だから次は」
つばさが続ける。
「“たまたま”じゃなくて、“ちゃんと話したいから”に近づけること」
「……難易度高すぎ」
「高いよ」
つばさは即答した。
「でも、朝比奈さんが今勝負するならそこじゃない?」
みずきは黙った。
幼なじみは、自然に近くにいられる。
でも今必要なのは、自然のまま近くにいることじゃない。
“自分から選んで近づく”こと。
それをしないと、文化祭のあとに残った変化が、自分だけ置き去りになる気がした。
「……今日」
みずきが小さく言う。
「放課後、もう一回誘う」
つばさの口元がにやっとする。
「いいね」
「いいね、じゃない」
「でも今のはちゃんと前向き」
「うるさい」
みずきはそう返しながらも、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。
◇
その日の授業は、びっくりするくらい頭に入らなかった。
黒板の字は見えている。
ノートも取っている。
でも、内容は右から左だ。
放課後、どう誘うか。
何を理由にするか。
理由を作りすぎるとまた“幼なじみだから”に逃げることになる。
でも、理由ゼロで誘うのもハードルが高い。
結局、四限目の途中でみずきは観念した。
理由なんて、半分でいい。
全部本音じゃなくてもいい。
でも、半分はちゃんと“自分が話したいから”でなければだめだ。
そう決めた瞬間、少しだけ気が楽になった。
◇
放課後。
ことりはその日、図書委員の仕事で少しだけ職員室に呼ばれていた。
ひよりも一年のほうで用事があるらしく、教室へは来ていない。
つばさは明らかに全部わかった顔で、でも何も言わずに準備をしている。レナは荷物をまとめながら、ちらっとこちらを見ただけだった。
つまり、今しかない。
「真央」
みずきが声をかける。
「ん?」
真央が振り向く。
この“ん?”を聞くだけで、昔からの時間が一気に蘇る。だから危ない。ここで“いつもの感じ”に流されると、何も変わらない。
「今日、このあと」
「うん」
「ちょっと歩かない?」
言えた。
今度は“コンビニ”じゃない。
“歩かない?”だ。
真央が少しだけ目を瞬いた。
「歩く?」
「そう」
「どこに」
「どこでも」
「雑だな」
「うるさい」
でも、真央は嫌そうな顔をしなかった。
むしろ少しだけ考えてから、頷く。
「いいよ」
それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「……じゃあ、帰り道のほう」
「おう」
短い会話。
でも、今までより確実に一歩進んでいる。
少し離れた場所で、それを見ていたつばさが小さく親指を立てた。
みずきは本気で舌打ちしたくなったが、無視した。
◇
校門を出て、駅とは逆方向へ少しだけ歩く。
このあたりは、住宅街へ入る手前で、放課後の学生があまり通らない。
少し広い歩道。街路樹。夕方前のやわらかい風。
真央は鞄を肩にかけたまま、みずきの少し斜め横を歩いていた。
その距離が、近すぎず遠すぎずで、逆に妙に意識される。
「……ほんとに歩くだけなんだな」
真央が言う。
「そうだけど」
「珍しい」
「前も言った」
「だって事実だろ」
みずきは少しだけ唇を尖らせた。
「文化祭終わってから」
「うん」
「なんか、急に放課後が長いじゃん」
「……それは分かる」
真央もすぐに頷いた。
みずきはその反応に、少しだけ救われる。
自分だけじゃないのだ。
「前は、文化祭準備とかで残る理由あったでしょ」
「そうだな」
「でも今はない」
「うん」
「だから、なんとなく解散するの嫌だった」
そこまで言ってから、みずきは少しだけ顔が熱くなる。
だが、もう引っ込めたくはなかった。
「……なるほど」
真央が言う。
「なに、その反応」
「いや、ちゃんと理由あるんだなと思って」
「あるよ」
みずきは即答した。
「しかも、今日はちゃんと本音寄り」
「寄り、なのか」
「全部本音だと死ぬから」
「大げさだな」
「大げさじゃない」
真央が少しだけ笑う。
その笑い方が、コンビニのときより自然で、みずきは胸の奥がくすぐったくなる。
「真央」
「ん?」
「文化祭のときさ」
「うん」
「ことりちゃんと自然に話してるの、ちょっと羨ましかった」
真央の足が、わずかにゆるむ。
「……そうか」
「うん」
「正直に言うな」
「今日はそういう日だから」
みずきは前を向いたまま続けた。
「私、昔からあんたと話すのは普通だったの」
「それはそうだな」
「でも最近、“普通”だけじゃ足りない感じがして」
「……」
「それがたぶん、いちばん面倒」
真央はしばらく黙っていた。
その沈黙が長く感じる。
「……みずきってさ」
「なに」
「ちゃんと考えてるよな、そういうの」
「今さら?」
「いや、昔から考えてたのかもしれないけど」
真央は少しだけ言葉を探す。
「前より口に出すようになった」
その指摘に、みずきは少しだけ目を見開いた。
そうかもしれない。
前なら飲み込んでいたことを、今は少しずつ口にしている。
「出さないと」
みずきは小さく言う。
「わかんないでしょ、あんた」
「うわ、信用ないな」
「あるわけないじゃん、そのへんは」
「ひど」
でも、真央は怒らない。
その代わり、少しだけ真面目な顔になった。
「……ありがとな」
「え?」
「そうやって言ってくれるの」
みずきは一瞬だけ言葉を失った。
そういうのだ。
こういうふうに、少しだけまっすぐ返してくる。だから余計に困る。
「……それ、ずるい」
「何が」
「今の」
「そうか?」
「そうだよ」
みずきが小さく笑うと、真央も少しだけ笑った。
歩く速度は自然だった。
昔から一緒に帰ることもあった。なのに今日は、昔の延長ではない感じがする。
幼なじみだからできる距離。
その上に、少しだけ別の意味を重ねようとしている。
今はまだ、それがうまく名前にならないだけだ。
「……また歩く?」
気づけば、みずきはそう聞いていた。
真央がこちらを見る。
「寄り道じゃなくて?」
「寄り道でもいい」
「コンビニでも?」
「それでもいい」
「雑だなあ」
「うるさい」
真央は少しだけ笑って、それから頷いた。
「いいよ」
みずきの胸の奥で、何かが静かにほどける。
昔からの近さを持っていること。
それを、ただ甘えるためじゃなくて、ちゃんと今に使うこと。
それが少しだけ、できた気がした。
◇
教室へ戻るころには、もうほとんど人がいなかった。
つばさだけがまだ残っていて、二人の顔を見るなりにやっとした。
「おかえり」
「何その顔」
みずきが言う。
「いやあ、幼なじみルートが少し進んだ顔してるなって」
「うるさい」
「でも否定しないんだ」
みずきは言い返しかけて、やめた。
否定したくなかったからだ。
つばさはそんなみずきを見て、少しだけ満足そうに笑った。
「よしよし」
「保護者みたいな顔するな」
「してないよ」
でも、たぶん少しだけそういう気分なのだろう。
このややこしい関係を、誰より近くで面白がりながら見守っているのがつばさだ。
その日の帰り、みずきは少しだけ肩の力が抜けていた。
ことりに先を行かれている感じは、まだある。
ひよりの危ういまっすぐさだって、無視できない。
それでも、自分もちゃんと前へ進める。
そう思えたことが、思っていたよりずっと大きかった。




