タイトル未定2026/04/18 15:16
七瀬ことりは、その日の朝から少しだけ落ち着かなかった。
理由ははっきりしている。
昨日、白井真央が言ったのだ。
「さっきの英語の話、続き、明日でもいいなら聞くけど」
それは、ものすごく何でもない言葉だった。
授業の話の続き。
放課後でも休み時間でも、どこにでも転がっていそうな会話のきっかけ。
でもことりにとっては、全然何でもなくなかった。
文化祭準備のときは、いくらでも理由があった。
買い出しがある。
ポスターを作る。
接客の流れを確認する。
そういう“用事”が、真央に話しかける口実になっていた。
けれど今は違う。
文化祭は終わった。
もう、放課後に残る理由はない。
なのに、真央は自分から“明日でもいいなら”と言った。
それはつまり、理由がなくても、会話の続きを繋げてもいいということだ。
「……それだけで、こんなにうれしいのおかしいよね」
朝、家を出る前。鏡を見ながら小さく呟く。
髪は変じゃない。
制服も普通。
特別な日じゃない。
なのに、胸の奥だけが妙に落ち着かない。
ことりは一度だけ深呼吸してから、家を出た。
◇
教室に入ると、真央はもう来ていた。
席について、教科書を机の上へ出している。
その姿はいつも通りだ。文化祭のあとだからといって、劇的に何かが変わるわけじゃない。
でも、ことりのほうは違った。
目に入るだけで少しだけ意識する。
意識してしまうから、逆にいつも通りに見せなきゃと思う。
そのせいで、余計にぎこちなくなりそうになる。
「おはよう」
先に声をかけたのは、ことりのほうだった。
真央が顔を上げる。
「おはよう」
いつも通りの声。
でも、ことりはそれだけで少しだけ肩の力が抜けた。
よかった。
変に構えられていない。
「……英語」
ことりが小さく言う。
「ん?」
「昨日の続き、あとで聞いてもいい?」
自分でも、ちょっと情けない聞き方だと思った。
もっと自然に言えたはずなのに、いざその場になると確認みたいな言い方になってしまう。
けれど、真央は別に変な顔をしなかった。
「いいよ」
それだけだった。
それだけなのに、ことりは本気で少しだけ救われる。
「……ありがと」
「授業の話だろ」
「うん、そうなんだけど」
その“そうなんだけど”の続きは飲み込んだ。
授業の話。
たしかにそうだ。
でも、本当にうれしいのは、その話題の中身よりも、“理由のない続きを持てたこと”だから。
「ことりちゃん」
つばさがすぐ横から顔を出してきた。
「朝から顔がわかりやすい」
「なにが」
「うれしそう」
「……普通だけど」
「その“普通”のつもりでうれしそうなのが一番わかりやすいんだよなあ」
ことりは小さく頬を膨らませた。
つばさは本当にこういう変化を逃さない。
「藤宮さん、朝から元気だね」
「だって青春が進行してるし」
「物語みたいに言わないで」
「でもほんとでしょ?」
その返しに、ことりは言い返せなかった。
だって、昨日より今日のほうが、たしかに少しだけ先に進んでいる気がするからだ。
◇
一限目と二限目の間の休み時間。
ことりはノートを持って、真央の席の近くへ行った。
英語の長文問題の続き。言い訳としては十分だ。ちゃんと用事でもある。
「ここなんだけど」
ことりがノートを開く。
「この文、関係代名詞の先がどれかで迷って」
「ああ」
真央が少しだけ身を乗り出す。
「これ、たぶん一個前じゃなくて二個前」
「え、そうなの?」
「後ろの動詞見るとそっちのほうが繋がる」
「ほんとだ」
ことりは目を丸くした。
「全然気づかなかった」
「慣れてないと見落とすやつだろ」
「白井くん、やっぱりこういうの冷静だね」
「英語だけな」
「数学は?」
「知らん」
ことりは思わず笑う。
その笑い方が自然だったせいか、真央も少しだけ笑った。
ノートを挟んで、二人で問題を見ている。
それだけのことだ。
それだけのことなのに、文化祭前ならきっと、もっと強く意識していただろう。
今は、意識していないわけじゃない。
でも、“話していいんだ”という感覚が少しだけ育ってきている。
「……ありがとう」
ことりが言う。
「今日も助かった」
「また今日も、か」
「だって本当だし」
「最近おまえ、それよく言うな」
「だってほんとだもん」
ことりはそう言って、ノートを閉じた。
そこで終われば、きっとただの勉強の話だった。
でも、ことりは少しだけ迷ってから、続けて言った。
「あとね」
「ん?」
「英語の話、だけじゃなくて」
真央がこちらを見る。
「なんでもない話も、していいんだなって思った」
言った。
言ってから、自分でも少しだけ顔が熱くなるのが分かった。
でも、引っ込めたくはなかった。
真央は一瞬だけ言葉を失ったみたいだった。
それから、少しだけ頭をかく。
「……だめな理由あるか?」
「ないけど」
「じゃあ、いいだろ」
その返しは、あまりにも真央らしかった。
ことりは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
こういうところなのだ。大げさにしない。特別扱いだと意識していない。なのに、ちゃんと受け止めてくれる。
「……そういうとこだよね」
小さく呟くと、真央が首をかしげる。
「何が」
「ううん、こっちの話」
ことりは笑ってごまかした。
後ろの席でそのやり取りを見ていたみずきが、小さくため息をつくのが聞こえた気がした。
そしてそのさらに斜め後ろでは、つばさが完全に“はいはい”という顔をしている。
でも今のことりには、その視線に前ほど怯える感じはなかった。
自分は今、真央と“ちゃんと会話している”。
文化祭の準備がなくても。
それがうれしい。
◇
昼休み。
その日の昼は、なぜかひよりが来なかった。
最近の出現頻度からすると珍しい。
「ひよりちゃん今日いないね」
ことりがぽつりと言うと、みずきが少しだけ肩をすくめた。
「一年も忙しいんでしょ」
「まあ、そうかも」
その会話の流れで、ことりとみずきの視線が一瞬だけ合う。
前ならここで微妙な空気になっていたかもしれない。
でも今日は少し違う。
「……でも、ちょっと静か」
ことりが言う。
「それはある」
みずきが頷く。
「あと、真央が少しだけ楽そう」
「本人に言ったら怒るかも」
「ほんとだ」
二人が小さく笑った。
その笑い声を聞いて、俺は少しだけ不思議な気分になる。
ことりとみずきが、こういう形で同じ温度の会話をするようになるなんて、少し前なら考えにくかった。
もちろん全部が丸く収まったわけじゃない。
お互いに譲る気はないだろうし、好きの温度だって消えていない。
でも、前より少しだけ、相手の感情を知ったうえで会話している。
それはたぶん、文化祭のあとだからこその変化だった。
「ねえ真央」
みずきが不意に言う。
「なに」
「今日の数学、あとで教えて」
「……昨日の“半分くらい本当”ってやつ?」
「そう」
「残り半分は?」
「秘密」
「まだ引っ張るのか」
「引っ張るよ」
そのやり取りを聞いて、ことりが少しだけ笑う。
そして、その笑いのあとで、ことりは自分でも驚くくらい自然に言った。
「じゃあ私、古文」
俺とみずきが同時にことりを見る。
「え?」
ことりが目を丸くする。
「なにその反応」
「いや」
俺が言う。
「自然に割り込んできたなと思って」
「だめだった?」
「だめじゃないけど」
ことりは少しだけ考えてから、はにかむみたいに笑った。
「……用事のない会話がいいなら、用事のある会話もしていいかなって」
それは、昨日までのことりなら言えなかった台詞だ。
みずきが少しだけ目を細めた。
でも、怒る顔ではなかった。
「なるほどね」
「なに」
「ことりちゃん、ちょっとずつ攻めるようになってきたなって」
「そ、そんなつもりじゃ」
「あるでしょ」
つばさが後ろから即座に言う。
「今のはかなり“私も続きほしいです”だったよ」
「藤宮さん!」
「はいはい」
ことりは顔を赤くしたが、完全には否定しなかった。
その様子を見ながら、俺は胸の奥で小さく何かが動くのを感じていた。
ことりは、文化祭前より確実に強くなっている。
やわらかいまま、でも一歩ずつ前に出てくる。
それがたぶん、今いちばん危ない。
◇
放課後。
結局その日は、数学と古文の質問にそれぞれ少しずつ答えることになった。
みずきは「別に真剣に困ってるわけじゃないけど」と言いながら、しっかりノートを持ってきた。
ことりも「一問だけ」と言いながら、結局三問分くらい聞いてきた。
机を挟んで、三人で問題を見ている。
文化祭前なら“準備の流れ”で成立していた距離が、今は“理由を作ってでも一緒にいる”距離に変わっている。
それを、みんなもう少しずつ自覚している。
「……なんか」
ことりがノートを閉じながら言った。
「今日、ちょっと楽しかった」
「勉強だぞ」
俺が言うと、ことりは笑った。
「うん。でも、だからこそ」
「変なの」
「変でいいの」
その一言が、少しだけ強かった。
みずきもそれを聞いていた。
聞いていて、何も言わない。
でも、その沈黙の中に“分かる”が混ざっているのを、俺は感じてしまう。
口実がなくなった放課後。
だからこそ、誰が理由を作るのかが見える。
ことりは今日、初めて“用事のない会話”にちゃんと挑戦した。
そして、その続きを自分の手でつなげようとした。
たぶんそれは、小さく見えてかなり大きな一歩だった。




