第33話 文化祭のあと、日常は元に戻るふりをする
文化祭が終わった翌週の月曜日、教室は驚くほど普通の顔をしていた。
窓際の飾りは外され、机は元の列に戻り、黒板には授業の予定が白く並ぶ。
たった数日前まで、あれだけ特別だった空間が、何事もなかったみたいに日常へ戻っている。
けれど、もちろん本当に何事もなかったわけじゃない。
俺は教室の入り口で一瞬だけ立ち止まり、小さく息を吐いた。
「……はあ」
「朝から重いねえ」
すぐ横から、聞き慣れた声が飛んでくる。藤宮つばさだ。
「文化祭終わったんだから、少しは軽くなりなよ」
「終わったから重いんだよ」
「なにそれ。余韻に浸るタイプ?」
「そういうのじゃない」
「じゃあ何」
「……分からん」
自分で言って、ほんとに分からないのが嫌になる。
文化祭は終わった。
準備も、本番も、片付けも終わった。
それなのに、終わった感じがしないのだ。
七瀬ことりの気持ちは、もう“なんとなく”ではなくなった。
朝比奈みずきも、自分から一歩踏み出してきた。
小日向ひよりまで、あの無邪気さのまま本気の入口に立っている。
そして、俺自身も。
そこをはっきり言葉にするのはまだ怖いが、文化祭の前までと同じ場所には戻れていない。
それだけは、嫌になるほど分かっていた。
「白井くん」
前方から、少しだけ控えめな声。
見ると、ことりが立っていた。
制服はいつも通り。髪型もいつも通り。文化祭の衣装なんて夢みたいに、ちゃんと学校の朝の顔をしている。
「おはよう」
「お、おはよう」
普通の挨拶。
それだけなのに、少し間ができる。
ことりもたぶん同じことを思っているのだろう。笑顔はいつも通りなのに、少しだけ照れたみたいな空気が混ざっている。
「……なんか変だね」
ことりが小さく言った。
「何が」
「文化祭のあとって、もっと“終わったー!”って感じだと思ってた」
「それはあるだろ」
「あるけど」
ことりは少しだけ視線を落とした。
「私、まだ全然終わった感じしない」
その言葉に、俺は返事ができなかった。
たぶん、同じだからだ。
「おはよう」
後ろから、もう一つ声がする。
振り向くと、みずきが立っていた。
いつもの気の強そうな顔。いつもの少しだけ乱暴な声。なのに、やっぱり今までと少し違う。
「おはよう」
俺が返すと、みずきは一瞬だけ俺を見て、それからことりのほうも見た。
「……なに、その微妙な空気」
「別に」
とっさに俺が言う。
「その“別に”便利だね」
みずきが言う。
「最近ほんと多いよね、それ」
ことりまで小さく笑う。
「二人ともそこ乗るの?」
「乗るでしょ」
みずきが答える。
「文化祭終わってから、真央ずっとそんな顔してるし」
「どんな顔だよ」
「考えごとしてる顔」
図星すぎて、何も言えなかった。
つばさがそのやり取りを見ながら、にやにやしている。
「いいねえ、日常に戻ったふりして全然戻れてない感じ」
「おまえは黙ってろ」
「でもほんとじゃん」
否定できない。
◇
一限目が終わったあとの休み時間。
文化祭の片付けで出たゴミの最終確認だの、忘れ物の回収だの、細かい後処理がまだ少し残っていて、教室はいつもより落ち着かない。
俺は担任に頼まれて、文化祭で使った名札の束を職員室に運ぶことになった。
「白井、それついでに持ってって」
担任がそう言って箱を渡してくる。
「はいはい」
「一人で大丈夫?」
ことりが聞いてくる。
「名札運ぶだけだぞ」
「でも箱あるし」
「大した重さじゃない」
「じゃあ私も」
ことりが言いかけた、その瞬間。
「それなら私が行く」
みずきがほとんど同時に口を開いた。
教室の空気がぴたりと止まる。
「……え」
ことりが目を丸くする。
「いや、だって」
みずきは少しだけ言いにくそうな顔をした。
「私、先生に聞きたいことあるし」
「それ、今思いついたやつでしょ」
つばさが即座に言う。
「うるさい」
「図星なんだ」
「図星じゃない」
図星っぽかった。
ことりは少しだけ迷ったあと、俺を見る。
「白井くん、どうする?」
「どうするって」
そんな判断を俺に振るな。
いや、振られるのも当然か。今のこれは、完全に“誰が一緒に行くか”の話なのだから。
俺が返答に詰まった、そのときだった。
「じゃあ二人とも行けば?」
レナが淡々と言った。
「名札くらい、三人いても別に困らないでしょ」
それは、ものすごく正しい。
正しいのだが、正しすぎて逃げ道がない。
「……榊さん」
俺が恨みがましく見ると、レナは平然としていた。
「何」
「もっと他に言い方あるだろ」
「ないわね」
ないらしい。
ことりとみずきは、一瞬だけお互いを見る。
文化祭準備を経て、前みたいに露骨に噛みつきはしなくなった。でも、だからといって平気になったわけでもない。
「……じゃあ、それで」
ことりが言う。
「私はいいよ」
みずきも短く頷く。
「私も」
こうして、俺とことりとみずきの、なんとも説明しづらい三人組がまた発生した。
◇
職員室までの廊下は、朝のざわめきが少し遠く感じる。
真ん中に俺。
右にことり。
左にみずき。
文化祭前にも似たような配置はあった。
でも、あの頃より今のほうがしんどい。なぜなら、あの頃よりお互いの気持ちが少しだけ見えてしまっているからだ。
「文化祭、終わったね」
ことりがぽつりと言う。
「うん」
みずきが短く返す。
「でも、なんか終わった感じしない」
ことりが続ける。
「……それは分かる」
みずきが言った。
「準備なくなったのに、逆に変な感じ」
「だよね」
ことりは少しだけ嬉しそうにする。
その“分かる”が、自分だけじゃないと確認できた感じなのだろう。
俺はその会話を聞きながら、少しだけ気まずくなる。
この二人はたぶん、今までなら同じことを思っていても、それを共有する余裕がなかった。
でも今は、少しだけそれができるようになっている。
それは良いことのはずだ。
たぶん、良いことのはずなのに、俺の立場からするとかなり複雑だった。
「真央」
みずきが言う。
「ん?」
「文化祭終わって、ちょっと気が抜けてるでしょ」
「分かるのか」
「分かる」
即答だった。
「なんかぼんやりしてる」
「……まあ」
「考えごと多そうな顔」
ことりが小さく笑う。
「それ、私も思ってた」
俺は箱を持ち直しながらため息をついた。
「二人してエスパーみたいなこと言うな」
「真央が分かりやすすぎるだけ」
みずきが言う。
「白井くん、そういうとき眉間ちょっと寄るよね」
ことりも言う。
「前から?」
「前から」
「最近はさらに分かりやすい」
挟み撃ちだった。
「……じゃあ、そんな顔してる俺をわざわざ挟んで職員室まで来るなよ」
思わずそう言うと、ことりとみずきが揃って少しだけ止まった。
「え」
ことりが声を漏らす。
「……あ」
みずきも、何か気づいた顔になる。
「今、それ自分で言うんだ」
つばさがいなくても似たようなことを言うやつが増えてきた気がする。最悪だ。
「いや、だって事実だろ」
「事実だけど」
ことりが少しだけ頬を赤くする。
「そういうふうに言われると、ちょっと恥ずかしい」
「私も」
みずきまで言う。
「二人とも何なんだよ」
「真央が何なの」
「白井くんが何なの」
今度は綺麗に揃った。
ほんとに何なんだ、この状況は。
◇
職員室前で箱を渡し終えると、ことりはついでに先生へ文化祭の売上メモを渡し、みずきは衣装の返却について確認していた。
用事を終えて廊下へ出たところで、ちょうどチャイムが鳴る。
「戻るか」
俺が言うと、二人が頷く。
帰り道の廊下は行きより少しだけ静かだった。
「ねえ」
ことりが、不意に言う。
「文化祭終わったあとって、なんか寂しいよね」
「……分かる」
みずきが答える。
「準備してるときは忙しくて大変だったのに、なくなると変」
「そうそう」
ことりが少しだけ笑う。
「毎日あったものが急に消える感じ」
その言葉は、文化祭だけのことを言っていないようにも聞こえた。
準備という理由。
一緒にいる口実。
自然に話せる時間。
そういうものが急に減ることへの、不安。
「……でも」
みずきが言う。
「なくなったからって、全部終わるわけじゃないでしょ」
ことりが少しだけ目を見開く。
「うん」
「まあ、そうだな」
俺も頷いた。
その返事を聞いて、ことりが少しだけほっとしたように笑う。
みずきも、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
文化祭は終わった。
でも、終わったからこそ見えてくるものもある。
日常は元に戻るふりをする。
でも俺たちは、もう前と同じ日常の中にはいない。
そのことだけが、教室へ戻る短い廊下のあいだに、ゆっくりとはっきりしていった。




