第三十話 「アイムソーリー」と片手を挙げて去っていった男の後姿
ブラッセルは、おとぎ話に出てくるような古くてかわいらしい町だった。
そして、中央駅から10分ほどのところに、笑ってしまうほど安いホテルを見つけた。一泊千円しないくらいだった。
場末の連れ込み宿なのだろう、色っぽいお姉さん方が階段をうろうろしていたが、個室だし、ちゃんとベッドがついているんだから何の文句もない。
それから、アンティークと看板がある店に次々に飛び込んだ。「蛇の道は蛇」である。アンティークのことはアンティーク屋に聞くべし。
『マルシェ・ド・ピュース・マダム』が「忘れちゃった」んだから、探すしかない。
ブラッセルの地図を片手に、辞書で調べた「毎日」と「マルシェ・ド・ピュース」という2言のフランス語を駆使して聞いて回った。
それはジュ・ド・バール広場といった。
大きな時計が付いた、レンガ造りの建物を中心に、古びたビルが取り囲んだ小さな広場で、確かに毎日、朝に出して夜に片付ける、を繰り返していた。ガラクタばっかりが広がったマルシェ・ド・ピュースである。
朝の日差しの中に浮かび上がるガラクタ。広場いっぱいの地面を埋め尽くすガラクタだった。
あちらで「ヴァンフォン、ヴァンフォン」と叫んでいるのが聞こえる。20フランの均一だ。
こっちでは「センコント、センコント」つまり50フランだ。
ベルギーもフランスと同じく通貨はフランだが、こちらは1フランが4円。つまりヴァンフォンは80円で、センコントは2百円。すごいぞ、手当たり次第に買える。
やたら金属の物が多い。鉄の皿、真鍮のろうそくたて、錫の灰皿、ゴロゴロある。
おや、これがうわさに聞くブロンズってやつじゃないのか?それはセンコントの箱の下で、重そうに眠っていた。
何やら髪の長い女の人の横顔が彫ってある。
それがアールヌーボー時代のメダルだったと理解できるまでにはかなりの時間を要したけれど、この時は知る由もない。
「なんだか色っぽいお姉ちゃんの絵が彫ってあるぞ」と思っただけだった。
スプーンやナイフ、フォークも、古いものがいっぱいだった。
それらを片っ端から買ったら、大きなビニールバックが持ちきれないほど重くなった。
ホテルにとって帰し、さて、もう一回。バックを空にして戦闘開始。
スーツケースに詰める前に、フランスで買った分も含めて全部を、狭い部屋に並べてみた。
ガタピシしているベットの上が、たちまち物であふれ、床も足の踏み場がないくらい、それらはあった。
「わぁああ」と思わず声が出た。
びっくりするくらい、アンティーク屋さんだった。
数にしたら、大小合わせて約300個、それらのガラクタは立派に商品だった。
スーツケースとビニールバックにぎゅうぎゅう詰めにして、駅に向かった。
重かった。
虎郎の拾ってきてくれたスーツケースは、キャスターがプラプラしていた。
情緒あふれる古い石畳が、無情な仕打ちを仕掛けてくる。ほとんど引きずるようにして、列車に乗り、着いた所は港町オステンドのプラットホーム。
このプラットホームに続く桟橋で船に乗れるはずだった。あそこまで、あそこまでスーツケースを引きずれば「船に着く」と思った時だった。
プラットホームにアナウンスが流れ始めた。
列車から降りた人々が、桟橋に向かわずに陸橋の方に向かい始める。
フランス語やらオランダ語やら、ドイツ語が流れて、やっと英語が流れた。
何とか理解できた。
「本日は波が高いため、西ドックは使用できません。東ドックにお回り下さい」
えっ?この桟橋は西ドック。そして東ドックは陸橋を渡って、ずっと向こう。
何とか陸橋の下まで来て、階段を見上げる。階段が雲まで届くほどにも見える。
行かねばならない。しょぼふる雨まで落ちてきた。
「うっ」とスーツケースを持ち上げる。
すると後ろから、とってもきれいで聞き取りやすいイングリッシュで「お持ちしましょうか?」
身長190センチもありそうな、ジェントルマンである。
「ああ、なんて優しい」
ジェントルマンは、にこりと笑って、みんの黒いスーツケースに手をかけた。
「うっ」ジェントルマンは、スーツケースを持ち上げようとして、声を出した。
それから「ふうー」とため息を付き「アイムソーリー」と片手を挙げて、逃げるように、しかも颯爽と、階段を上って去っていってしまった。
雨のプラットホーム、取り残されたみんと超ヘビーなスーツケース。
「くそー、負けないぞ」
一段一段、階段を持ち上げた。ちょっと泣けてきた。
東ドックに何とかたどり付いた時は、船の出る直前だった。何とか滑り込んだ。




