第二十話 桃山時代って何?
小部屋の方は、なるほど「軽井沢骨董市」にふさわしい骨董屋が並んでいた。
入口前の8畳情には陶器物を扱う千葉から来た老夫婦。ちょっとこまかいけれど、気のいい人たちだった。
ただし、奥さんが「軽井沢骨董市の台所はみんの支配下にある」という態度に出ていたから、班長さんと紛争が絶えなかった。
みんなのために「おかず」や「酒の肴」をつくってあげても、班長さんに「余計なことはするな、その食材はおやじさんのものだ」と怒られていた。
そんなわけで、おやじさんにせっかく持ってきてくれた多くの差し入れは、冷蔵庫の中で悲惨な末路となったわけだ。
京都から来ている古伊万里屋の河野さんは、元赤軍の幹部だったらしい。だからなのか、うんちくがどんどん発展して、1時間でもしゃべり続ける。
群馬から来ているのは、蒔絵や浮世絵を扱うのは粋なおかみさんだった。地元で業者の市場もやっていて、若い頃は、さながら女賭博師のようで、片肌脱いで壷振りの姉さんよろしく「振り手」をしていたらしい。
夕方になると、売り物の蒔絵の付いた大きな塗り皿を持って魚屋に行き、海のない軽井沢では高価な刺身を盛り付けてもらっては台所に持ち込み、千葉の老夫婦が倹約して、おしんこや干し魚を食べる横で、刺身を肴に旨そうにひとり晩酌をしていた。
軸物と茶道具の埼玉から来ている本谷さんはおとなしいおじさんに見えたけれど、実はものすごく喧嘩っ早い人らしい。骨董屋には、よく「変な客」が来る。わかったような口ぶりでいちゃもんを付けてきたりする。
昔の本谷さんは、自分の商品にケチを付けられたら、必ず大喧嘩になっていたらしい。けれどもはや60歳も過ぎ、随分思慮分別も身についたという。ただし、彼の部屋からは、頭にくる客と話した後、必ずドーンと地響きのような音が聞こえてくる。
扉を閉める音だ。軽井沢公民館の建物はかなりガタがきているから、その音は離れている大広間にもこだまする。その後きまって車のエンジンをふかす音が聞こえ、ブロローと飛び出すと1日とか2日とかは帰って来ない。山奥に釣りに行くのだそうだけれど、それにしても、怒るのを口実のように頻繁にいなくなる。
ある日、本谷さんの部屋にお邪魔すると、1冊の本を見せてくれた。軸や陶磁器の作家の評価とその値段が書かれた分厚い本である。その裏表紙にでかでかと載っているのは、「桃山時代 備前焼」とキャプションのある水指しのような壺だった。
茶褐色の地肌がぬめっとした輝きをもって重厚感この上ない。
「へえー、高そうですねぇ」
「そう、これだよ」と本谷さんは、目の前にある実物の備前の壺を指差した。
なるほど、キャプションの下には金字の明朝で「本谷美術」と印刷されている。
裏表紙に映し出されている、ライティングされておさまる備前の壺と薄暗い蛍光灯に照らされた黒くて無骨な壺を見比べながら「これって、え、これ同じものですか?」
「そうだよ」とにこやかにうなずく。
「骨董の価値というのは不思議なものなんだよ。骨董品なんて、しょせんガラクタだ。それを買うのに何の意味があると思う?ほんとは何もない。彼らが求めているのは虚という実なんだ。だから時々、その虚に値打ちをつけて実をつくってあげるんだ。この本の裏表紙を取るために、僕は50万円投資した。壺自体を買ったのはまぁガラクタに類する値段だ。でも、この壺は、ちゃんと400年前の壺だ」。
「400年?ってことは、信長とか秀吉とかがいた時代?」
「そういうことになるね」
「関ヶ原の合戦の時には、もうあった?」
「うんうん、備前焼というのはね、元をたどれば平安時代まで遡ることができるんだ。というのまぁ現代人が歴史をたどることができる、というだけの話しで、ホントはもっともっと前、多分人が何かを食べる時に器が必要だと思った時から備前のルーツはあると思うよ」
「縄文とか弥生とかの時代?」
「そうだね。この壺を見てごらん。釉がかかっていない。窯の中で熱せられて、この土自身が汗をかいて出した色だ。それに窯の薪が灰になってちょっと手伝って色を出している。自然が生み出した色だ」
「はぁ」みんには何のことだかさっぱりわからない。
「僕のした事と言えば、市場でこの壺にぴったりの箱を探して、その箱に古く見える文字で「備前」と書いて納めただけだ。ある人の蔵の中で、何百年もずっとほこりをかぶっていた壺が、いきなり300万円になったりする。まぁ、それがいいのか悪いのかは、まったく別の問題なんだけれどね」
「さ、300万円。この壺がですか?」
「高いのか安いのかは、誰にもわからない。桃山時代というのは、茶道が一番盛んだった時代なんだよ。現代の技術じゃ、とても及ばないくらいいいものを作っていた。だからこの壺も戦国大名の国ひとつ分の価値があったのかもしれない。さて、300万円で国ひとつ、買えるかい?」
ますます、さっぱりわからない。ただ、この壺を見ているだけで、何だか急にまぼろしの向こうにある時代が、現実味を帯びてきて、今いる自分が歴史とずうっとつながっているのが実感できる。
骨董というのは、奥の奥に、まだまだ奥がはてしなく広がっているようだ。
骨董屋というのは、確かに面白い商売なのだろう。




