焼けた人別
赤沢の便の帰り、城下まであと二里の峠の上で、シカネは東の空が赤いのに気づいた。
夜明けには、まだ早かった。空の低いところだけが、夕焼けのように赤い。乾いた北西の風が背中から吹いていて、その風は、城下のほうへ流れていた。
シカネは、文箱の紐を締め直して走りだした。
西の門に着いたのは、明け方だった。門の内の通りは、荷車と人でふさがっていた。布団を背負った男、鍋を抱えた女、裸足の子供。みんな、門の外へ出ようとしていた。
門をくぐったところで、雨が降りだした。大粒の冷たい雨が、風に流されて横から顔に当たった。周りの者が、空を見上げた。
「竜の雨だ」
誰かが言った。
「今ごろかよ」
別の誰かが言った。
◇
裏長屋のあった通りには、もう家がなかった。黒くなった柱が何本か立っていて、その上に雨が落ちていた。残っているのは、井戸の石の囲いだけだった。
大家は、焼け残った戸板を屋根にして、長持の上に座っていた。
「おう、シカネか。生きてたか」
「赤沢の便に出てた。みんなは」
「店子は、みんな逃げた。うちの婆さんが腰を抜かしたのを、隣の大工が背負ってくれた」
大家は、長持を手のひらで叩いた。
「出せたのは、これだけだ。お前の部屋のものは、何も出してやれなかった。すまねえな」
シカネの部屋にあったのは、布団と鍋と、着替えが二枚だった。
「いい。大したもんはねえ」
鱗の根付は、小銭袋につけていつも腰に下げている。お守りは帯の左前、印籠は右の腰だ。いつも持ち歩いているものは、全部無事だった。
大家は、雨のなかの焼け跡を見た。
「名主さんの家も、焼けた。人別の帳面も、蔵ごと焼けたそうだ」
「人別」
「この町に誰が住んでるか、書いてある帳面だよ。お前の名も、三年前に書いてもらった。あれが、なくなった」
大家は、袖で顔の雨を拭いた。
「建て直しても、誰が店子か、一から書き直しだ。お前が越してきたときは、問屋の旦那が請人の判をついてくれたな。またあれが要る」
◇
問屋は、焼け残っていた。
火は、川沿いの町を東へ焼いてきて、堀の手前の広小路で止まったのだという。問屋の西の壁は煤で黒くなっていたが、戸も屋根も無事だった。
土間では、弥吉と宗八が、吹きこんだ灰を掃き出していた。
清兵衛は、帳場で書状を読んでいた。シカネを見ると、筆を置いた。
「無事でよかった。長屋は」
「焼けた」
「そうか。しばらく、二階で寝なさい。宗八の隣が空いている」
清兵衛は、読んでいた書状をシカネのほうへ向けた。
「河原に、仮の会所ができた。焼けた町の人別を、作り直すそうだ。焼け出された者から、生まれた村と前の奉公先を聞いて、本当にそうか、村と店へ書状で問い合わせる。村の帳面には、送り出した者の名が残っているからね。その便を、うちが請けた」
「何通だ」
「今日の分で八十通。まだ増える」
弥吉が、箒を止めた。
「お前さあ、長屋が焼けたのに、まず通数を聞くのかよ」
「聞かなきゃ、何人で回るか決められねえだろ」
宗八が、灰を外へ掃き出しながら言った。
「赤沢から夜通しだろう。会所へは、昼から行け」
戸口に、くぐらが立っていた。傘を差していたが、着物の裾が濡れていた。手に、風呂敷包みを提げていた。
くぐらは土間に入ってくると、シカネの顔と手と足を順に見た。
「お守りが静かだったから、火の中におらぬのはわかっていた」
「赤沢の帰りだった。この雨、あんたか」
「景綱の許しが来たのが、夜半だ。風が強くて、雲を集めるのに明け方までかかった」
くぐらは、傘をたたんだ。それから、風呂敷包みをシカネに渡した。握り飯の重さがした。
「長屋は、焼けたと聞いた。屋敷へ来い。部屋は空いておる」
「問屋の二階で寝る。ここなら、朝の便にすぐ出られる」
くぐらは、少し黙った。
「そうか」
くぐらはそれだけ言って、清兵衛に頭を下げ、雨の中を帰っていった。
◇
昼過ぎに雨はやんだ。
河原には、筵で屋根を葺いた御救い小屋が三棟並んでいた。炊き出しの大鍋から、湯気が上がっていた。
小屋の前に机が二つ出ていた。一つは仮の会所の机で、町役が二人、焼け出された者の名と生まれを聞いて帳面に書いていた。
もう一つの机には、茶色の着物の男が座っていた。年は五十ほど、眉が薄く、よく笑う口をしていた。机の上には証文の筒が四つ並び、横の板に「請人 引き受け候 喜平」と書いてあった。並んでいる者は、会所の机より喜平の机のほうが多かった。
シカネが会所の机で照会の書状の束を受け取っていると、隣で町役が、小さな子に名を聞いていた。
子は、筵の端に座っていた。女の子で、前髪の先が焦げて縮れていた。着ている小袖は大人のもので、袖を何度も折り返してあった。膝の上に、布包みを一つ載せていた。
「名は」
「千代」
「年は」
「十一」
「生まれた村は」
「知らない」
「奉公先は」
「知らない」
町役は、筆を止めてため息をついた。
「知らないじゃ、問い合わせようがないんだがな」
喜平が、自分の机を立ってやってきた。袂から紙の包みを出して、千代に飴を一つ渡した。それから、町役に笑いかけた。
「身寄りの見つからない子は、私が請けましょう。子守の口がございますから」
喜平は、筒から紙を一枚出して、机の端で書きはじめた。
「年は、十三としておきましょう。十一では、子守には出せません」
「十一だよ」
千代が言った。喜平は「はい、はい」と言いながら、筆を止めなかった。
町役が、喜平の手元を手で押さえた。
「まだ問い合わせが済んでない。請状は、三日待ってからにしてくれ」
「もちろんです」
喜平は、書きかけの紙を筒に戻して、自分の机へ帰っていった。
千代は、飴を手に握ったまま、口に入れなかった。
「食わねえのか」
シカネが聞くと、千代はシカネを見上げた。
「あとで食べる」
千代は、シカネの背中の文箱を見ていた。
「飛脚?」
「ああ」
「どこまで行くの」
「どこでも。書状があるところなら」
千代は、それ以上は何も聞かなかった。布包みを胸に抱えて、小屋のいちばん奥の筵へ戻っていった。
シカネは書状の束を文箱に移して、小屋の裏の道へ回った。
小屋の向こうから、男の声がした。
「丁子屋の者だ。うちの奉公人で、千代という十一の子と、咲という十五の娘を探している。見た者はいないか」
羽織の男が、筵の列を一つずつ見ながら歩いてきた。焼けた小間物屋の番頭らしかった。番頭は、奥の筵の前で足を止めた。
「お前、千代じゃないか」
千代は、番頭の目をまっすぐ見た。
「人違い」
番頭は、しばらく千代の煤けた顔と、焦げた前髪を見ていた。それから首をかしげて、次の筵へ歩いていった。
千代の手は、膝の上の布包みを強く握っていた。
番頭は、小屋を一回りして出てくると、シカネの背中の文箱に目を留めた。
「問屋の飛脚か。ちょうどいい。これを頼む」
番頭は、懐から書状を一通出した。
「千代と咲の親元への問い合わせだ。二人とも、店に戻っていない。駄賃は、店に取りに来てくれ。店は焼けたが、裏の蔵で商いをしている」
シカネは、書状を受け取った。宛名は、芦田村の名主殿だった。
番頭が行ってしまってから、シカネは小屋の奥を見た。千代は、飴を握ったまま、川のほうを見ていた。




