第5話 隣人の挨拶と見えない亀裂
11月の冷たい風が吹く夕暮れ時。
鈴木慎二は、本業の営業回りの合間を縫って1件の仕事を終わらせ、マンションの駐車場に帰ってきた。
かつてピカピカのアルファードが停まっていた専用スペースに、今は1ヶ月契約で借りっぱなしの、傷だらけでタバコ臭い白いコンパクトカーを滑り込ませる。
助手席のビジネスバッグの中には、さっき受け取ったばかりの分厚い茶封筒が入っていた。これでトータル3回目の裏仕事だ。
「ふぅ……」
スーツのネクタイを緩め、安堵の息を吐きながら車を降りた瞬間だった。
「おや、鈴木さん。お仕事帰りですか?」
ビクッ、と慎二の肩が跳ねる。
振り返ると、マンションのエントランスから郵便物を取りに出てきた隣人の安達正志が、ニコニコと人の良さそうな笑顔を浮かべて立っていた。
「あ……ええ、まあ。安達さんもお出かけですか?」
慎二は引きつった愛想笑いを浮かべながら、バッグを無意識に強く抱え込んで答えた。
安達の視線が、慎二の顔から、その後ろに停まっているボロボロのレンタカーへとゆっくり移動する。
そして、首をコテンと傾げて、いかにも不思議そうな声を出した。
「あれ? 鈴木さん。あの立派な白い高級車……故障でもしましたか?」
ドクン、と慎二の心臓が嫌な音を立てた。
ただの隣人としての、悪気のない、ありふれた日常の質問。
しかし、200万の借金と犯罪の秘密を抱え込んでいる慎二にとって、それは喉元に刃物を突きつけられるような言葉だった。
「い、いや! 故障っていうか……ちょっと車検で! そう、車検に出してて、これ代車なんですよ!」
裏返った声で、反射的に見え透いた嘘を吐く。
買って数ヶ月の新車が車検などあり得ないのに、テンパった頭ではそんなことすら計算できなかった。
「ああ、なるほど。それは不便ですねえ」
安達は深く追求することもなく、ただシワだらけの顔で穏やかに笑った。
だが、その濁りきった目の奥は、獲物の浅はかな嘘を見透かし、ねっとりと舐め回すように冷たく光っていた。
「じゃあ、私はこれで。冷えますから、風邪など引かれませんように」
ゆっくりと背を向け、エレベーターへと歩いていく安達の背中を見送りながら、慎二の背筋を冷たい脂汗がツーッと流れ落ちた。
自分の部屋である301号室に逃げ込むように入り、玄関の鍵をガチャンと閉める。それだけでは安心できず、チェーンまでかけた。
ドクン、ドクンと耳の奥で鳴る心音がうるさい。
バレていないよな。ただの世間話だ。そう自分に言い聞かせても、あの老人の濁った瞳が頭から離れなかった。
「ただいま……」
靴を脱ぎ捨ててリビングに入ると、妻の幸子がソファに寝転がりながらテレビのバラエティ番組を見てヘラヘラと笑っていた。
テーブルの上には、昨日の「仕事」の金で買ったばかりの高級なマカロンの箱が開けっ放しになっている。
「あ、おかえりー。今日の分、ちゃんと取ってきた?」
悪びれる様子もなく、ポテトチップスをつまむような軽いノリで聞いてくる幸子を見て、慎二の中で何かが軋んだ。
「おい……ちょっとヤバいかもしれない」
慎二は声を潜め、さっき駐車場で安達に言われたことをまくし立てた。
車がないことを聞かれたこと。テンパって車検だという苦しい嘘をついてしまったこと。あの老人の目が絶対におかしかったこと。
だが、幸子の反応は驚くほど冷ややかだった。
「は? 何それ。ただの世間話じゃん。あんたがオドオドするからでしょ、マジでビビりすぎ」
幸子はマカロンを口に放り込みながら、呆れたように鼻で笑った。
「あのな、買って数ヶ月の新車が車検なんて明らかにおかしいだろ! 絶対怪しまれてるって!」
「だったら『こすっちゃって修理に出してる』とか適当に言えばよかったじゃん。あんたの頭の回転が遅いだけでしょ。だいたい、隣のジジイに車の事聞かれたくらいでガタガタ騒がないでよ。あと数回やれば終わるんだからさ」
幸子の目は完全にテレビの画面に戻っていた。
200万の借金という首輪を外すことしか頭になく、他人の不審な動きなど気にも留めていない。
慎二は何も言い返せず、その場に立ち尽くした。
つい数日前まで「2人で乗り切ろう」と肩を寄せ合っていたはずなのに。
自分1人だけが薄氷の上を歩いているような、強烈な孤立感と寒気が彼を襲う。
お互いの見栄と欲で結びついていた夫婦の間に、決定的な亀裂が走った瞬間だった。
そして、ベランダを隔てた隣の302号室。
暗闇のベランダ越しに聞き耳を当てていた安達は、微かに漏れ聞こえてくる夫婦の言い争いの気配に、満足そうに目を細めていた。
「さあ……そろそろ、次の授業の準備をしましょうかね」
続く




