第54話 暗闇の底と、刑事の矜持
電力が断たれ、重い摩擦音とともに鋼鉄の扉が開かれた瞬間。
中島の顔を、強烈な腐臭と淀みきった空気が打ち据えた。
懐中電灯の鋭い光が、暗闇に閉ざされていた地下室の奥へと突き刺さる。
「田口さん……!」
光が捉えた凄惨な光景に、中島は思わず息を呑み、言葉を失った。
冷たいコンクリートの床に倒れ伏していたのは、もはや自力で立ち上がることすらできないほど衰弱しきった田口だった。
エレベーターの扉を殴り続けた右腕は赤黒く腫れ上がり、削れた指先からは夥しい血が滴っている。
そして、その後ろの壁際。
互いの体をかばい合うようにして横たわっていた鈴木夫婦の姿は、さらに凄惨を極めていた。
極限の飢餓と死の恐怖、そして完全な暗闇に長期間閉じ込められたことで、夫婦の精神はすでに半分壊れかけていた。
光を向けられても全く焦点の合わない、虚ろな半目を開けたまま。
ただ放心状態で、微かに胸を上下させてピクピクと痙攣するように呼吸を繰り返している。
人間の尊厳を根こそぎ奪われ、ただ命の灯火が消えるのを待つだけの残酷な姿。
安達がこの地下室で楽しんでいた「娯楽」の正体が、そこにあった。
「田口さん! しっかりしてください!」
中島は弾かれたように駆け寄り、床に這いつくばる田口の身体を力強く抱き起こそうとした。
だが、田口はその震える血まみれの右手で、中島の腕をきつく押し留めた。
「……中、島……」
ひび割れた唇から、掠れた声が漏れる。
田口の身体はボロ雑巾のように限界を迎えているのに、その双眸だけは、暗闇の中でも決して刑事としての鋭い光を失っていなかった。
「俺は……いい。頼む……まず、この二人を……救ってやってくれ……」
自分が死の淵に立たされながらも、最後まで被害者を最優先にする。
その泥臭くも純粋な刑事の矜持に、中島は奥歯を噛み締め、熱いものが込み上げてくるのを堪えきれなかった。
「……っ、担架を早く回せ! 救助隊、中へ入れ!! 急げ!!」
中島の血を吐くような号令とともに、階段で待機していた長野県警の刑事たちと救急隊員が一斉に地下室へと雪崩れ込んでくる。
次々と毛布にくるまれ、ストレッチャーに乗せられていく鈴木夫婦。
そして田口もまた、中島と同僚たちの肩に両腕を回され、泥だらけの足を引きずりながら、ゆっくりと外の光へと向かって歩み始めた。
階段の上。
リビングへと続く入り口では、両腕を拘束された安達が、その光景を亡霊のように見下ろしていた。
自らが作り上げた「完璧な死の要塞」から、泥臭い執念の塊のような刑事たちによって、命が次々と外の世界へ引きずり出されていく。
絶対に開かないはずの扉が破られ、サリンの罠も不発に終わった。
安達の顔から、あの不気味な余裕は完全に消え失せていた。
「安達……お前の負けだ」
田口を支えながら階段を上り切った中島は、安達の顔を鋭く睨みつけ、はっきりと宣告した。
だが、田口の執念は、ただ生還しただけでは終わらない。
同僚に支えられ、息も絶え絶えの田口が、不意に足を止めた。
そして、目の前に立つ安達に向けて、血まみれの指をゆっくりと突きつけた。
「……中島。外の……焼却炉を、調べろ……」
「えっ……? 焼却炉なら、さっき調べました。あそこにこの階段のスイッチが……」
「違う……その奥だ……灰の中だ……」
田口の虚ろな、しかし確かな怒りを孕んだ声が、静まり返ったリビングに響き渡る。
「そこに……山下先輩が、いる……。こいつの、完全犯罪の……証拠だ…」
続く




