第42話 狂気のオーケストラと三度の傾斜
安達が「二日ほど留守にする」と言い残して去ってから、どれだけの時間が経っただろうか。 地下室を包むのは、完全な暗闇だった。
安達が置いていった六人分の水とレトルト食品は、飢えと渇きに狂った鈴木夫婦が初日のうちにほとんどを貪り食ってしまい、今はもう空のペットボトルが転がっているだけだ。
「……ああっ、あ、あああ……っ!」
「嫌だ、嫌だ、ここから出して……お母さん……っ!」
暗闇の奥から、鈴木慎二と幸子のうわ言のような啜り泣きが聞こえてくる。
二人の精神は、すでに半分崩壊していた。
彼らの正気を奪ったのは、空腹や渇きだけではない。
安達がこの地下室に仕掛けた『環境』そのものが、確実に三人の神経を削り取っていた。
一つは、床の傾きだ。この地下室の床は、完全な水平ではない。
ごくわずかに――およそ『三度』だけ傾斜しているのだ。
普段なら気にも留めないような角度かもしれない。
だが、視界を奪われた完全な暗闇の中で、この三度の傾きは人間の平衡感覚を容赦なく狂わせていく。
立っていても座っていても、常に体がどちらかへ滑り落ちていくような錯覚に陥り、無意識のうちに筋肉が緊張を強いられる。
安らぐことなど一秒たりともできない、計算し尽くされた拷問だった。
そしてもう一つが『音』だ。
――ピチョン。 ――ピチョン。
照明が落とされた直後から、天井のスピーカーから不規則な水滴の音が響き始めた。
さらにそれに重なるように、無機質なメトロノームの音が一定のリズムを刻み始める。
――カチッ、カチッ、カチッ……。
ただの音ではない。そのメトロノームは、まるで狂ったオーケストラのように、徐々に音量を増していく。
鼓膜を破らんばかりの爆音になったかと思えば、で耳鳴りほどの微かな音量へと沈んでいく。
「やめろ……やめてくれ……! 頭がおかしくなる!!」
爆音のメトロノームが鳴り響く中、慎二が頭を抱えて床を転げ回る。
幸子もまた、耳を塞ぎながら狂ったように悲鳴を上げていた。
不規則な水滴の音と、強弱を繰り返すメトロノーム。
それは、囚われた者たちの脳髄を直接かき回す、悪魔の交響曲だった。
「……くそっ……!」
壁に背中を預けていた田口も、乾ききった唇を噛み破りながら低く唸った。
歴戦の刑事である田口でさえ、この地獄のような空間で確実に神経をすり減らしていた。
三度傾いた床のせいで全身の関節が軋み、狂ったオーケストラの音が思考の邪魔をする。 食料も水もない。
隣では一般市民の夫婦が発狂寸前で泣き叫んでいる。
だが、田口の眼の奥にある闘志の炎だけは、まだ消えていなかった。
(俺がここで諦めたら……この二人は確実に死ぬ。それに、山下の無念はどうなる!)
田口は暗闇の中で、あの分厚い鋼鉄のドアを睨みつけた。
無理やり圧力をかければ、サリンガスが噴き出す死の扉。
物理的な破壊は不可能だ。
水はない。武器もない。光すらない。
何をしていいかも分からない絶望の底で、田口はただ一つ、刑事としての『思考』だけを止めなかった。
(何かあるはずだ……。どんなに完璧な密室にも、どんなに頭の切れる犯罪者にも、必ず綻びはある。このイカれた水槽から脱出する方法が……!)
爆音のメトロノームが再び地下室に響き渡る中、老刑事の脳細胞だけが、生き残るためのわずかな光を必死に手繰り寄せようとしていた。
続く




