第39話 法の壁と猛毒の密室
長野県小諸市。
目の前に標的がいるのに、法の壁に阻まれて手出しができない。
焦燥感が現場を包む中、係長は重い決断を下した。
「……一旦引き上げるぞ。やり方を変える」
「係長!」
「このまま張り付いていてもらちが明かん。明日の朝、安達の携帯に電話をかけるんだ。『若い夫婦があなたの車に乗り込むのを見た』とハッタリをかまして、奴を別荘から引きずり出す」
警察は無念さを押し殺し、別荘から気配を消して撤退を開始した。
そして、翌朝の午前十時。
長野の別荘で優雅な朝食を楽しんでいた安達のスマートフォンが鳴った。
画面には見知らぬ番号。安達はゆっくりと通話ボタンを押す。
『千葉西警察署の佐々木と申します。安達正志さんの携帯電話でお間違い無いでしょうか』
「はい、私ですが。警察の方が一体どのようなご用件で?」
安達は一切の動揺も見せず、穏やかで落ち着いた声色を作った。
『実は、数日前の夜、安達さんのマンションの駐車場で、あなたの車に若い男女の夫婦が乗り込むのを見たという目撃情報がありましてね。少しお話を伺いたいのですが、本日ご自宅にいらっしゃいますか?』
「若い夫婦、ですか? 何かの見間違いではないかと思いますが……構いませんよ。ちょうど今日の夕方には千葉の自宅に戻る予定でしたから、その時間帯でよろしければ」
『ありがとうございます。では、夕方にお伺いします』
通話を終えると、安達は小さく鼻で笑った。
(なるほど、あの夫婦の件でカマをかけてきたか。底の浅い連中だ)
車内の痕跡は完全に消し去っている。
警察の無能さを思い知らせてやるのも悪くない。安達は千葉の自宅へ戻る準備を始めた。
出発の支度を整えた安達は、地下室へ通じる荷物用エレベーターの前に立ち、スピーカーのマイクを手にとった。
「田口刑事。鈴木慎二くん、幸子さん。聞こえますか?」
スピーカーから響く安達の声に、床に這いつくばっていた三人の肩がビクッと跳ねる。
ガタゴトと音を立ててエレベーターが下りてきた。
そこには、1ダースのミネラルウォーターと、多めの三人分の二日分のレトルト食品が親切にも置かれていた。
「警察の相手をするという野暮用ができましてね。これから二日ほど、私はこの家を留守にします。三人で二日間生き延びられるだけの食料と水を置いていきますから、仲良く分けてくださいね」
水だ。水がある。 鈴木夫婦は飢えた獣のようにエレベーターへ這いずり寄り、水を奪い取って貪るように飲み始めた。
田口だけは動かず、鋭い眼光で天井のカメラを睨みつけている。
「それから、田口刑事。あなたがドアの隙間を弄っていたことなど、とっくにお見通しですよ」
安達の冷たい声が、地下室に響き渡った。 田口の顔色が変わる。
「釘を刺しておきますが、私が留守の間に、あの鋼鉄のドアを無理やり開けようとしたり、圧力をかけたりするのは絶対にやめてくださいね。あのドアには特殊なセンサーが仕掛けられています。規定値以上の負荷がかかると、天井の通気口から高濃度のサリンガスが噴き出す仕組みになっていますから。…五分も持ちませんよ」
「……きさまっ……!」
「おとなしく私の帰りを待っていれば、ガスは出ません。では、良いお留守番を」
プツン、と無機質な音を立てて通信が切れる。
安達はモニターを切り、上着を羽織ると、軽やかな足取りで別荘を後にした。
残された地下室の三人は、絶望的な沈黙に包まれていた。
目の前には、喉の渇きを癒すわずかな水。
しかしそれは「生かさず殺さず」の残酷な鎖だ。
扉に触れれば、猛毒のガスが命を奪う。
物理的な脱出経路を完全に塞がれた田口は、ただギリギリと奥歯を噛み締めることしかできなかった。
続く




