第38話 法律の壁と沈黙の館
長野県小諸市。
法務局のデータが示した座標から少し離れた山道で、警察の極秘部隊は息を潜めていた。
「係長……! ありました!」
先行して森の中を探索していた中島から、押し殺した声で無線が入る。
深い木立の中、迷彩シートを被せられるようにして隠されていた一台のセダン。ナンバープレートを確認するまでもない。
三日間行方不明になっている田口の車両だ。
「間違いない……田口さんは、確実にこの近くにいる」
「よし。全隊、足音を殺して目標の別荘へ接近しろ」
暗闇の中、捜査員たちが漆黒の森を抜け、ついに「安達の別荘」の敷地へと辿り着いた。
木々の隙間から姿を現したのは、美しいモダンな建築物だった。
そして玄関脇のカーポートには、品川ナンバーの白いBMWが静かに停められている。
田口が命懸けで尾行し続けていた、ターゲットの車両だ。
窓からは微かにオレンジ色の温かい光が漏れているが、人の気配はまったくない。
静まり返った、ただの豪華な別荘にしか見えなかった。
「係長、突入の指示を! BMWも確認できました! 田口さんが中で危険な目に遭っているかもしれないんですよ!」
中島が血走った目で腰の警棒に手をかけるが、係長の太い腕がそれをガシリと制止した。
「馬鹿野郎、早まるな。……証拠がねえんだよ」
「証拠って……田口さんの車がすぐそこにあったんですよ!? 安達の車だって目の前にあるじゃないですか!」
「家主が自分の別荘に自分の車を停めているのは、ただの日常だ。田口の車が近くの森に停まっていたからといって、この家の住人が田口を監禁しているという『確証』にはならねえ。ここは法治国家だ。中から悲鳴が聞こえるとか、明らかな血痕でもない限り、令状なしで一般市民の家に踏み込むことはできん」
係長もまた、奥歯をギリギリと噛み締めていた。
相手はただの一般人だ。もし強行突破して何も事件性がなかった場合、警察組織は取り返しのつかない不祥事を抱えることになる。
「……周囲を完全に包囲しろ。窓から中の様子を慎重に伺うんだ。どんな些細な違和感でもいい、踏み込むための『理由(証拠)』を見つけ出せ」
刑事たちは別荘の周囲に散開し、息を殺して窓の隙間や勝手口へと張り付いた。
だが、安達の作り上げた完璧な館は、外から見ればあまりにも美しく、そして静かだった。どこにも不審な点など見当たらない。
警察の包囲網は、確実にシリアルキラーの首元にナイフを突きつけている。
しかし、そのナイフは「法律」という重い鞘に収められたまま、抜くことができずにいた。
彼らは知る由もなかった。
今まさに自分たちが張り付いているその建物の何メートルも地下深くで、老刑事が完全に心を折られ、若夫婦が泥水をすすりながら絶望の底に沈んでいることなど。
続く




