第37話 折れた牙と暴かれた番地
ギギ……ッ、ヂィン……。
三度傾いた地下室の扉の前で、鈍い金属音がわずかに響き、直後、カランと乾いた音が床に落ちた。
「……くそっ……!」
田口の口から、血を吐くようなうめき声が漏れた。
扉のわずかな隙間に差し込み、カンヌキを押し上げようとしていたロッカーの金属片が、無残にも真っ二つに折れ曲がっていたのだ。
安達の作り上げたこの「水槽」は、狂気的なまでに完璧だった。
扉のロック機構は単なるラッチではなく、外側からの電子制御と物理シリンダーが複雑に絡み合った特殊構造。
薄っぺらい金属片などでは、ビクともしない重さだった。
指先に残った鈍い痛みが、田口の心にこれまで以上の重い絶望を突きつける。
武器は失われた。体力も、すでに限界を迎えている。
長年、どんな窮地でも決して諦めなかった老刑事の瞳から、ついに反撃の光がスッと消え去り、暗く冷たい闇へと沈んでいった。
一方、その頃。
長野の深い森の中。
すでに数時間に及ぶローラー作戦が決行されていたが、警察の捜索は完全に暗礁に乗り上げていた。
「係長……駄目です。GPSの電波も完全に途絶えました。車はおろか、タイヤの跡すら見つかりません……」
泥だらけになった若手刑事の中島が、肩で息をしながら首を振った。
長野の森はあまりにも広大すぎた。
視界を遮る木々と起伏の激しい地形が、警察の機動力を完全に殺している。
田口が誰にも告げずに姿を消してから、すでに丸三日が経過している。
あの手練れのベテランが自力で連絡を取れないということは、すでに最悪の事態――何らかの事件に巻き込まれ、命の危険が迫っている可能性が高い。
このまま闇雲に探し続けても、時間が過ぎるだけだ。焦燥感が、現場の捜査員たちの顔をどす黒く染めていく。
「……待てよ」
山道で立ち尽くしていた中島が、ふと顔を上げた。
田口の車を探すから、この広い森に惑わされるのだ。安達はこのエリアのどこかに、確実に自分の「拠点」を持っている。
「係長! 車を探すのはやめましょう。視点を変えるんです!」
「なんだと?」
「あのBMWの持ち主、『安達正志』の周辺を洗うんです! 安達がこの森に拠点を持っているなら、必ず法務局に『不動産登記』が残っているはずです!」
その言葉に、係長の目が鋭く見開かれた。
相手がどんな人間であろうと、日本という国に家や土地を持つ以上、国にその存在を登録しなければならない。
「すぐに関東一円と長野の法務局にアクセスして、データベースを弾き出させろ! 『安達正志』名義、あるいは彼が代表を務めるダミー会社の所有物件だ! この村の番地で登録されている土地と建物が、必ずあるはずだ!!」
係長の怒号が無線を通じて飛び交い、サイバー班と本庁の照会システムが別ルートから猛烈な勢いで稼働を始めた。
もはや森を歩き回る必要はない。データという確実な網が、安達の首元へと投げられたのだ。
十数分後。
中島の持つ端末に、本庁から一通のデータが送られてきた。
長野県小諸市。幹線道路から大きく外れた、広大な私有地。登記上の所有者は『安達正志』。
「……出ました。別荘の正確な住所です」
画面に表示されたその座標は、今彼らがいる地点から山の尾根をひとつ越えた先にある、完全な孤立地帯を指し示していた。
「よし……。全車両、サイレンは鳴らすな! 気づかれないように別荘を完全包囲するぞ!」
完全に心を折られ、死を待つだけの地下室の三人。
その頭上でふんぞり返る悪魔の館へ向け、ついに警察の銃口がピタリと狙いを定めた瞬間だった。
続く




