第36話 死角なき監視と老犬の芝居
長野の山奥。
深い森の中で警察の捜索が難航している頃。
別荘の地下室では、三度傾いたコンクリートの床の上で、目を覆いたくなるような絶望的な光景が繰り広げられていた。
「よこせよ……! それ、俺の水だろ!」
「いやっ! 慎二は昨日飲んだじゃない! 喉が渇いて死にそうなの!」
部屋の隅で、鈴木慎二と幸子が、半分しか残っていないペットボトルを巡って、獣のように取っ組み合いの喧嘩を始めていた。
この地下室の水道は、今は安達によって完全に元栓を締められている。
蛇口をいくら捻っても赤錆の混じった泥水が一滴落ちるだけで、剥き出しの便器の水すら枯れ果てていた。
極限の飢えと渇きが、若夫婦から人間としての理性を完全に奪い去っていた。
その様子を、上の階のモニター室から見下ろしている安達は、グラスに注がれた極上の赤ワインを傾けながら満足げに微笑んでいた。
「素晴らしい。これこそ私が求めていた『教育』の成果だ」
連帯し、反撃を誓い合っていた者たちが、生き残るために互いを蹴落とし合う。
人間の尊厳が地に堕ちるこの瞬間こそ、安達にとって最高のエンターテインメントだった。
安達の視線はモニターの端――部屋の出入り口である、分厚い鋼鉄の扉の近くに倒れ伏している、田口の姿に向けられた。
内側にはドアノブすらついていない、のっぺりとした絶望の壁。
田口はその扉の前に、若夫婦の醜い争いを止める気力すらなく、乾ききった床に這いつくばっている。
その姿は、完全に寿命を待つだけの哀れな老犬だった。
「……あ、あぁ……」
モニター越しに、田口のかすれたうめき声がマイクに拾われる。
田口は震える手を伸ばし、扉の一番下の隙間に指を這わせた。
少しでも外の冷たい空気を求めて這いずり回るその無様な姿に、安達は鼻で笑った。
「元・敏腕刑事も、喉の渇きには勝てませんか。鋼鉄の扉の隙間にすがりつくその浅ましい姿、録画して警察署に送りつけてあげたいくらいですよ」
安達はソファに深く沈み込み、水槽の虫たちを観察する特等席で、完全に油断しきっていた。
二十四台のカメラには、確実に『絶望して床を這いずる老人』の姿が映っている。心拍数も呼吸も弱々しい。
だが――安達は気づいていなかった。
田口が昨日から、部屋の隅にある「古い掃除用具入れのロッカー」に寄りかかってうなだれていた、本当の理由を。
田口は絶望していたわけではない。
ロッカーの底の部分が激しい金属疲労でサビついているのを見逃さず、カメラからは死角になる背中の後ろで、己の体重をかけて静かに金属片を折り取っていたのだ。
田口の顔は床に伏せられ、カメラからは表情が読み取れない。
そして、扉の最下部の隙間に這わせたその右手が、ただすがりついているのではなく、コートの袖口に隠し持っていた「細く平たいロッカーの金属片」を、ゆっくりと、そして確実に扉の隙間へと滑り込ませていることに。
(……二十四台のカメラで監視してようが、お前が見ているのはただの『映像』だ。この数ミリの隙間の奥の構造までは、安全な場所にいるお前には見えねえだろうが)
田口は床に頬を擦り付けたまま、暗闇の中でニヤリと、獰猛な笑みを浮かべた。
三度傾いた床のせいで、扉の下部にはわずかに負荷がかかり、ごく微小な隙間が生まれている。
田口の指先は、差し込んだ金属片を通じて、外側からかかっているロック機構のラッチの感触を、研ぎ澄まされた神経で探り当てていた。
(時間はかかるが……このカンヌキは、下から押し上げれば必ず外れる)
外の警察の助けなど待たない。
老いた虎は、悪魔が油断しきったその眼の真ん前で、堂々と反撃の牙を突き立て始めていた。
続く




