第34話 死んだふりの虎と悪魔の告白
三日。
田口が長野の山奥の別荘で意識を失ってから、それだけの時間が経過していた。
三度傾いたコンクリートの地下室は、人間の精神と肉体を削り取るための完璧な拷問器具だった。
安達が荷物用エレベーターで下ろしてくる食事は、一日にたった一度。
それも、三人に対して乾いたパンが二切れと、五百ミリリットルのペットボトル二本だけだ。
極限の飢えと渇き、そして常に体が斜め下へと引っ張られる不自然な重力が、三人の体力を容赦なく奪っていった。
「……みず……水、くれよ……」
「やめて……それ、私の……」
部屋の最も低い場所――排水溝の近くで、鈴木慎二と幸子が、泥水でもすするような目で空のペットボトルを奪い合っている。
反撃の意志などとうの昔に消え失せ、二人はすっかり覇気をなくし、ただ本能のままに這いずるだけの家畜へと成り下がっていた。
その部屋の片隅で、田口もまた壁に背を預け、力なくうなだれていた。
無精髭が伸び、頬はこけ、濁った瞳は虚空を見つめている。
二十四個の監視カメラから見れば、完全に心を折られ、死を待つだけの哀れな老人そのものだった。
だが。 うなだれた前髪の奥、見えない角度に隠された田口の瞳の奥の光だけは、決して死んではいなかった。
(……観察しろ。考えろ。絶対にどこかに『綻び』はあるはずだ)
田口は、監視カメラには絶対に悟られないよう、瞬きの回数や呼吸のペースまで「絶望した人間」を演じきりながら、脳内だけでフル回転の思考を続けていた。
エレベーターが下りてくる時間の間隔。壁に埋め込まれたマイクの集音性。空調の風の流れ。
安達という完璧主義の異常者が作り上げたこの密室の、たった一つの致命的な「ミス」を探し出すために。
「……おい。安達、聞いてるんだろ」
不意に、田口はひび割れた唇を開き、かすれた声で天井のスピーカーに向かって呟いた。
数秒の沈黙の後、ノイズと共に、あの耳障りなほど上品な声が降ってくる。
『ええ。もちろん聞いていますよ、田口刑事。何か御用ですか? 申し訳ありませんが、次のお食事の時間はあと十時間後ですよ』
「……食事のことじゃねえ。……一つ、教えてくれ」
田口は、膝の上で組んだ両手の拳を、カメラの死角となるコートの裾の裏で、爪が食い込むほど強く握りしめた。
「あの焼却炉の中に落ちていた、銀色のライターだ。……数年前に行方不明になった、俺の先輩の山下……あんたが、やったのか?」
『ああ、山下さん』
安達の声は、まるで昨日見かけた近所の犬の話でもするかのように、あっけらかんとしていた。
『ええ、よく覚えていますよ。あの人もあなたと同じように、最後まで私のシステムに抗おうとして、それはもう煩く吠え立てていました。ですが……あの人、膝に古傷があったんでしょう? この三度傾いた床は、相当にこたえたみたいでしてね』
「…………」
『最後はもう、痛みに泣き叫んで歩くこともできなくなってしまって。可哀想に、見ていられませんでしたよ。ですから――』
安達は、ふふっ、と優しく微笑むような吐息をマイクに乗せ、こう言い放った。
『私が、苦しまないように殺してあげましたよ』
その言葉の異常な軽さに、田口の心臓が激しく波打つ。
殺したのではない。「殺してあげた」のだと、この男は本気で思っている。
人間の命の重さという概念が、根底から欠落している本物のバケモノだ。
『あの巨体をノコギリで解体して、外の焼却炉で骨の髄まで灰にするのは、本当に骨が折れましたけどね。……おや? 田口刑事、また心拍数が上がっていますよ。まさか、あの頃と同じように私に立ち向かおうだなんて、無駄なことは考えていませんよね?』
「……まさか。……俺はもう、疲れたよ……」
田口はわざとらしく大きなため息をつき、さらに深く首を垂れて、完全に諦めたようなポーズをとった。
『ええ、それが賢明です。おとなしくしていれば、あと数日は生かしておいてあげますから』
プツン、と通信が切れる。
地下室に再び、絶望的な静寂が戻った。
だが、深くうなだれた田口の眼光は、暗闇の中で獣のように鋭く研ぎ澄まされていた。
(先輩の仇は、絶対に俺が討つ……。見下ろしてふんぞり返っていられるのも、今のうちだけだぞ、安達……!)
死んだふりの虎は、その絶対的な監視網の裏側で、冷たく静かに反撃の爪を研ぎ続けていた。
続く




