第33話 消えた老刑事と残された手帳
けたたましい電話のベルと、書類をめくる音、そして怒声が飛び交う千葉西警察署・刑事課のフロア。
その喧騒の中で、若手刑事の中島は、自分のデスクの向かいにある「空席」を、さきほどから何度も不安げに見つめていた。
灰皿には吸い殻が山盛りで、書類が乱雑に積まれたままのデスク。
中島が背中を追いつづけているベテラン刑事、田口の席だ。
田口が休暇を取ったのは、一日だけだ。その後、二日連続の無断欠勤だった。
中島は、昨日の夕方に田口の自宅を訪ねた時のことを思い返していた。
玄関先に出てきた田口の妻は、ひどく憔悴した顔で中島にこう言ったのだ。
『三日前の夜、主人は「ちょっと野暮用があるから出かけてくる」と言って、自分の車で出たきりなんです。携帯を鳴らしてもずっと電源が切れていて……私も連絡が取れなくて本当に困っているんです』
田口は昔気質の、いわゆる「昭和のデカ」だ。
組織のルールを無視して勝手に動き回ることは日常茶飯事だが、どれだけ無茶をしても、妻や職場への最低限の連絡だけは絶対に欠かさない男だった。
その田口が、三日間も音信不通になるなど、あり得ない。
中島は意を決して立ち上がり、部屋の奥にある係長のデスクへと向かった。
「係長。田口さんの件ですが、やはり今日も繋がりません。奥さんも三日間まったく連絡が取れていないと言っていました」
書類から顔を上げた係長が、険しい顔で眉をひそめる。
「ただのサボりじゃねえな。あの鼻の利くベテランが、三日も誰にも連絡できねえ状況に陥ってるってことだ。……中島、田口が最後に追っていたヤマはなんだ?」
「えっと……確か、十一月に起きた『高齢者特殊詐欺からの自殺事件』のことで、例の白いコンパクトカーに乗っていた男女をマークしてるって言ってました。足取りが掴めそうだと」
係長の顔つきが「管理職」から「現場の刑事」のそれへと鋭く変わった。
「中島。田口のデスクを徹底的に調べろ。三日前にあいつがどこへ向かったか、どんな些細なメモでもいいから探し出せ」
「はい!」
中島は急いで田口のデスクに戻り、乱雑に積まれた書類の山をひっくり返した。
引き出しの奥から、使い古された黒い革の手帳が見つかる。
田口がいつも持ち歩いている捜査メモの「予備」だ。中島は急いでページをめくった。
そこには、達筆すぎる乱暴な字で、いくつかの走り書きが残されていた。
『鈴木慎二・幸子。特殊詐欺の受け子。追跡中』
『マンション駐車場。夫婦の白いコンパクトカーは放置。自室にもいない。逃亡か?』
『防犯カメラ確認。夫婦が外に出た映像はなし。だが失踪と同時刻の深夜二時、同じマンションの住人の車(品川ナンバーの白いBMW)が発車している』
『スモークガラスで車内は見えず。ただの偶然か? だが、逃亡するなら車を使うはず。このBMW、念のため少し洗ってみる』
「係長! これを見てください!」
中島が手帳を差し出すと、係長はそのメモを険しい目で睨みつけた。
「失踪と同じタイミングで出庫した、同じマンションの住人の車……?」
「はい。映像に夫婦は映っていなかったようですが、田口さんはこの『白いBMW』に何か引っかかるものを感じて、単独で裏付けに動いたんじゃないでしょうか。そして、その『野暮用』の先で、何らかの事件に巻き込まれた……」
「ただの偶然かもしれん。だが、田口が三日も連絡を絶っている以上、これが唯一の手がかりだ。……すぐにNシステム(自動車ナンバー自動読取装置)の手配をかけろ! この品川ナンバーの白いBMWが三日前にどこの幹線道路を通ったか、足取りを徹底的に追うんだ!」
「はい、了解しました!」
刑事課の空気が、一瞬にしてピンと張り詰めた。
この時、警察はまだ「長野の山奥の別荘」の存在も、その車の持ち主が狂気のシリアルキラーであることも知らない。
そして、田口がどれほどの絶望の底にいるのかも。
だが、巨大な警察組織という重い歯車は、老刑事が残した「かすかな違和感」という蜘蛛の糸を頼りに、確実に動き始めていた。
続く




