第32話 死角なき水槽
頭上のスピーカーから響いた安達の冷酷な嘲笑が途切れても、田口の胸の奥で燃える闘志はまだ完全に消え去ってはいなかった。
「いいか、お前ら。あいつがどれだけ安全な場所でふんぞり返ろうと、所詮ここはただのコンクリートで作られた地下室に過ぎねえ。どんな精巧な監視システムだろうと、レンズには必ず『死角』が存在する」
長年の現場捜査で培った老刑事の言葉には、確かな重みがあった。
田口は痛む関節に鞭を打ち、三度傾いた床に両手をつきながら、鋭い視線を壁の四隅、そして剥き出しの便器や排水溝の陰へと走らせた。
「まずはカメラの位置を完全に割り出す。そして奴の視界から外れた安全地帯を作るんだ。そこで作戦を練るぞ」
だが。
力強く声をかけた田口の期待とは裏腹に、慎二と幸子の反応はあまりにも虚ろなものだった。
「……無理だよ、刑事さん」
慎二は傾いた床にへたり込んだまま、まるで哀れな生き物を見るような目で田口を見上げた。
その瞳には、先ほどの怒りの炎はすでになく、底なしの諦念だけがどろりと濁っている。
「死角なんて……この部屋のどこを探しても、絶対にないんだよ」
「馬鹿野郎、レンズの画角ってものがあるんだ! 右奥の天井にカメラがあるなら、その真下や便器の裏側に張り付けば――」
『――田口刑事。彼らの言う通りですよ』
再び、頭上のスピーカーから安達の鼓膜を撫でるような声が降ってきた。
ビクリと、幸子が怯えたように身をすくめる。
『あなたが今、鋭い眼光で睨み上げている右奥のドーム型カメラ。あれを意識して隠れようとしても無駄です。それはあなた方に「監視されている」と意識させるための、ただの飾りにすぎませんから』
「……ッ!?」
田口は弾かれたように周囲の壁を睨みつけた。
そこにあるのは、ただの無機質なコンクリートの壁だ。
だが、安達の底知れない声が、目に見えない粘液のように頭上からねっとりと降り注ぐ。
『あなたが今、排水溝の横の壁に触れた右手の指先の、微かな震え。そして……ええ、今あなたの顎を伝って、冷や汗が一滴、コンクリートの床に落ちましたね。……すべて、私には見えているんですよ』
田口の背筋に、氷の刃をねじ込まれたような強烈な悪寒が走った。
どこにレンズが潜んでいるのかすら分からない。
壁のヒビ割れか、照明の縁か、それとも換気口の奥か。
だが、安達の言う通り、自分の極小の身体的反応すらも、上の階にいる悪魔に完璧に把握されている。
『長年、獲物を追い詰める側だった人間が、完全に「観察される側」に堕ちた瞬間……。ええ、とても素晴らしい絶望の顔だ。さあ、あなたも早く、自分がただの水槽の虫なのだと自覚してください』
プツン。 一方的に通信が切れた。
田口は、見えない無数の目に全身を舐め回されているような悍ましい感覚に囚われ、息を呑んだ。
どこを見ても、見られている。
どこへ逃げても、安達の視界の中。
人間としてのプライバシーや最低限の尊厳すら、ここでは一切許されない。
刑事としての長年の経験。起死回生の脱出への希望。
それらすべてが、「絶対に逃げられない」という圧倒的な現実の前に、音を立てて崩れ去っていく。
「あ……ぁ……」
田口の老いた膝から、ふっと力が抜けた。
三度傾いた冷たいコンクリートの床に、老刑事は無様に崩れ落ちた。
その隣で、慎二と幸子が再び、絶対に完成しないパズルの白いピースを、虚ろな目で拾い始める。
尖っていた反撃の意志は完全にへし折られ、三人は正真正銘、安達の用意した水槽の中で飼われる「ただの虫」へと成り果てたのだった。
続く




