第31話 神の視座
地下室に漂う悪臭と冷気とは無縁の、暖かな上の部屋。
アイロンの効いた清潔なシャツを着た安達正志は、革張りの高級ソファに深く腰掛け、アンティーク調のグラスに注がれた赤ワインを優雅に揺らしていた。
部屋には静かなクラシック音楽が流れ、彼の口元には、抑えきれない歓喜の笑みが浮かんでいる。
「クックック……素晴らしい」
安達の視線の先には、壁に設置された大型の監視モニターがある。
そこに映し出されているのは、三度傾いた床の上で、額を集めるようにして必死に話し合う三人のネズミたちの姿だった。
完全に絶望し、ただ壊れるのを待つだけだった若夫婦に、老刑事が『真実』という名の毒にも等しい希望を与えた。
そのおかげで、夫婦の目に再び闘志が宿り、密室の綻びを探そうと這いずり回り始めたのだ。
「やはり人間はこうでなくては。絶望の底で無様に希望へしがみつく姿こそ、至高のエンターテインメントだ」
安達はワインを一口含むと、手元の操作パネルに手を伸ばし、地下室へ繋がるマイクのスイッチをゆっくりと押し込んだ。
一方、地下室。
田口は排水溝の構造や、壁のわずかな隙間を調べようと身を屈め、慎二と幸子もそれに倣って立ち上がろうとした、まさにその時だった。
『――そんなこと考えても、無駄ですよ』
不意に、頭上のスピーカーからノイズ混じりの声が響き渡った。
そのあまりにも穏やかで、しかし冷酷な声に、三人の動きがピタリと凍りつく。
『田口刑事。あなたが彼らに、強盗致死罪は私の嘘だと教えたのですね? ええ、素晴らしいご名答です。お二人はただの愚かな詐欺師に過ぎない』
スピーカー越しの安達の声には、秘密を暴かれた焦りなど微塵もなかった。
ただ純粋に、無駄な足掻きを嘲笑う絶対的な優越感だけが満ちていた。
慎二と幸子が、壁の奥に埋め込まれたカメラのレンズを睨みつける。
その目には激しい憎悪が燃えていたが、安達にとってそれは、心地よいスパイスでしかなかった。
『しかし、それがどうしたというのです? 罪状が何であれ、あなた方が今、絶対的な密室にいるという事実に変わりはない』
モニター室のソファで、安達は背もたれに深く体重を預け、ふんぞり返った。
その目は、水槽の中の虫けらを見下ろすような、絶対的な支配者の目だ。
『あなた方の命は、完全に私の手のひらにあります。せいぜい、その傾いた床の上で、ありもしない希望を探して這いずり回ってください。私が飽きる、その時まで』
プツン、と無機質な音と共に通信が切れた。
地下室を支配したのは、先ほどまでの熱を帯びた連帯感を一瞬にして凍りつかせる、圧倒的な静寂だった。
どんなに知恵を絞っても、どんなに団結しても、そのすべてを上の階から安全に監視され、鼻で笑われている。
その絶対的な「神の視座」の暴力が、三人の心に容赦なく冷や水を浴びせかけた。
「……クソ野郎が。見てろよ」
田口は排水溝の冷たい金属の格子をギリッと握りしめながら、天井のカメラに向かって、決して折れることのない鋭い眼光を放ち続けていた。
続く




