第29話 刑事の正体と蜘蛛の糸の真実
「……しね……お前なんか、死んじまえ……」
「……あんたが、死ねば……いいのよ……」
三度傾いたコンクリートの床の上で、鈴木慎二と幸子は、壊れた時計の針のように同じ呪詛を呟き続けていた。
視線はどこにも合わず、パズルの白いピースを汚れた指先で弄んでいる。
田口は鈍く痛む首筋をさすりながら、這うようにして二人に近づいた。
時計も警察手帳も奪われ、ここがどこかも分からない。
だが、目の前で完全に心をへし折られているこの若夫婦を放置すれば、遠からず山下先輩と同じように、安達のなすがままに処理される。
それだけは絶対に防がなければならなかった。
「おい、鈴木慎二。それに、幸子さんだな」
田口の低い声が室内に響いた。
慎二がピクリと肩を揺らし、濁った瞳をゆっくりと田口の方へ向けた。
「……だれ、あんた……。新しい、安達さんの……おもちゃ……?」
「違う。俺は警察の人間だ。千葉西署の刑事、田口だ」
その言葉が発せられた瞬間、部屋の空気が凍りついた。
それまで死んだようにうずくまっていた幸子が、弾かれたように顔を上げる。
二人の瞳に、一瞬にして猛烈な「恐怖」が蘇った。
「け、刑事……!? なんで、なんで警察がここにいるのよ!」
「あんたたちのマンションの駐車場で、レンタカーの足取りを追っていた。
安達の失言からここにたどり着いたが……あいつの罠にかかって、このザマだ」
田口は苦々しく吐き捨て、胸ポケットのあった場所を叩いた。
「手帳もスマホも奪われたが、俺がお前たちを追ってきた刑事であることは間違いない。お前たちが前に起こした、あの百万円の特殊詐欺事件。現場の防犯カメラに映っていた『白いコンパクトカー』から、俺はお前たちをマークしていたんだ」
「あ、あぁ……やっぱりバレてたんだ……!」
慎二は自分の髪を力任せに掻き毟り、傾いた床の上でのたうち回るように絶望した。
「終わりだ……もう終わりだ! 警察に捕まる! あのジジイを殺したんだから、俺たちは死刑か、よくて一生刑務所だ! 安達さんの言う通りだったんだ、外に出たら破滅なんだよ!」
「違う! 目を覚ませ!」
田口は慎二の汚れきったシャツの胸ぐらをつかみ、無理やり引き起こした。
その怒号は、無機質な地下室の壁に鋭く反響する。
「お前たちが警察に追われているのは事実だ。だがな、お前たちの罪は『殺人』じゃない。ただの特殊詐欺罪だ!」
「え……?」
幸子の口から、かすれた声が漏れた。
「テレビを見たろ。確かにあの老人は亡くなった。お前たちの詐欺が引き金になったのは事実だ。だがな!」
田口は二人を交互に見据え、刑事としての厳格な、しかし確固たる事実を告げた。
「日本の法律において、お前たちの行為は『詐欺罪』だ。老人の自殺は悲劇だが、お前たちが直接手を下したわけじゃない。因果関係はあっても、詐欺罪で死刑や無期懲役になることなんて絶対にあり得ねえんだよ!」
「……うそ……嘘よ……。安達さんは、捕まったらもう人生終わりだって……強盗致死罪で指名手配されてるって、だから、ここにいろって……」
幸子が洗剤で荒れた両手で顔を覆い、狂ったように首を横に振った。
涙が汚れきった頬を伝って流れ落ちる。
「あのバケモノの言葉を信じるな!」
田口は幸子の手をつかみ、強制的に顔を上げさせた。
「安達はお前たちの『保身』と『恐怖』を利用したんだよ! 殺人犯になるという過剰な恐怖を植え付けて、警察に駆け込ませないようにした。お前たちは、あいつが用意したこの『水槽』に、自ら感謝の涙を流しながら飛び込まされたんだ! 目を覚ませ、鈴木! お前たちは騙されてたんだよ!」
騙されていた。
その事実が、慎二と幸子の脳細胞に強烈なくさびとなって打ち込まれた。
自分たちが背負わされていると思い込んでいた「人殺し」という絶対的な破滅のかせが、今、本物の老刑事の言葉によって外されたのだ。
パチ、と慎二の手から白いパズルのピースが床に落ちた。
慎二の瞳に、じわじわと「生気」が戻ってくる。
それは安達への激しい怒りと、生き延びようとする人間の執念の光だった。
「俺たちは……人殺しじゃ、ない……?」
「そうだ。だからこんな場所で、あいつの玩具のまま死んでたまるか。…俺と一緒に、ここから出るぞ」
床はまだ三度傾いたままだ。
だが、狂気の密室に、確固たる反撃の意志が芽生えた瞬間だった。
続く




