第28話 剥ぎ取られた牙
凍える指がスマートフォンの画面に触れ、本庁への発信ボタンを押し込もうとした、まさにその瞬間。
「……ネズミが一匹、増えましたね」
背後の闇から、鼓膜にねっとりと絡みつくような、あのぞっとするほど穏やかで上品な声が響いた。
田口がハッと振り返ろうとした、動索のほんの一瞬の隙。
バチバチバチバチッ!!!
「ガッ……!? ぁ……あ、あ……ッ!」
首筋に、容赦のない衝撃が叩き込まれた。
安達が迷いなく押し当てたスタンガンから、数万ボルトの凶悪な電流が、田口の老いた肉体を瞬時に駆け抜ける。
視界が強烈な白光とともに弾け、声にならない痙攣が全身を襲った。
指先の力が完全に失われ、スマートフォンと山下のライターがカツンと音を立てて灰の中に滑り落ちる。
田口は膝から崩れ落ち、そのまま地面へと無様に転がった。
急速に遠のいていく意識の底で、田口の濁った瞳は、手袋をはめた指先で自分の衣服のポケットを淡々と探る安達の姿を捉えていた。
「手錠と拳銃。携帯電話。警察手帳。財布。タバコとライター……ああ、この腕時計も預かっておきましょうかね」
安達は、ピクリとも動かなくなった老刑事を見下ろし、まるで道端のゴミでも拾い集めるような事務的な手つきで、田口の所持品を次々と抜き取っていく。
外部へ助けを呼ぶ通信手段。
自分が警察官であることを証明する身分証。そして、暗闇の中で唯一の指標となる「時間」の概念。
すべてを剥ぎ取られ、ただの無力な老人へと貶められた田口を前に、安達は暗闇の中で口元を不気味に歪めた。
「山下さんの遺品を見つけていただいた執念には敬意を表しますが……勝手に私の裏庭を荒らされては困ります。あなたにも、あの完璧な部屋で、少し学んでいただきましょうか?」
安達の低い冷笑を最後に、田口の意識は深い闇へと沈没していった。
安達は気を失ってる田口を引きずって地下室に放り込んだ
――どれほどの時間が流れたのだろうか。
三度だけ傾いた地下の密室で、田口は激しい頭痛とともに目を覚ました。
「う……あ……」
全身の筋肉が爆弾でも埋め込まれたかのように軋み、首筋には火傷のような痛みが残っている。
田口は這いつくばるようにして、ゆっくりと身を起こした。
視界を確保しようと無意識に左腕を目の前に持ってきたが、長年愛用していた頑丈な腕時計の感触は消え失せていた。
胸ポケットへ手をやっても、拳銃と手錠も誇りだった警察手帳の厚みはない。
刑事としての牙を完全に折られたのだと、嫌でも自覚させられる。
室内には、微かなモーター音が低く響き、鼻を突くような不快な漂白剤の臭いが充満していた。
間違いない。
山下先輩が最期を迎え、あの鈴木夫婦が監禁されている。ここが、あの悪魔の胃袋の中だ。
田口は冷や汗を流しながら、ぼやける目を凝らして部屋の奥へと視線を走らせた。
そこに、白と青と赤のパズルの残骸に囲まれ、壁に寄りかかるようにしてへばりついている一組の男女の影があった。
「おい……あんたら、鈴木夫婦か……!? 鈴木慎二、幸子だな!?」
田口が声を振り絞り、這い寄りながら呼びかける。
だが、二人は新しい闖入者である田口の存在にすら、全く反応を示さなかった。衣服は汚れ、目の下にはどす黒いクマが張り付いている。
「……しね……お前なんか、死んじまえ……」
「……あんたが、死ねば……いいのよ……」
焦点の全く合わない虚ろな目で、ただ空中の一点を見つめながら、壊れたラジオのように互いを呪う言葉だけをブツブツと呟き続けている。
すでに人間の尊厳など欠片も残っていない、完全なる発狂状態だった。
田口は、目の前の凄惨な光景に息を呑んだ。
ここは人間を生かしておく場所ではない。
精神を内側から粉々にすり潰し、自滅させるための、最悪の密室。
田口刑事は、武器も盾もすべてを奪われた丸腰の状態で、狂気の底へと完全に取り残されたのだった。
続く




