第2話 空っぽの駐車場
引っ越しから3ヶ月が過ぎた、10月の半ば。
朝の冷え込みが厳しくなり始めたその日、鈴木慎二の日常は唐突に、そしてあっけなく崩壊した。
「……は、え?」
出勤のため、いつものように眠い目を擦りながらマンションの1階に降りた慎二は、自分たちの契約している駐車スペースの前で完全にフリーズしていた。
手に持っていたコンビニの100円コーヒーが傾き、熱い液体が革靴にこぼれても気づかない。
ない。
昨日までそこにあったはずの、純白の巨大な鉄の塊がない。
車止めのブロックの前に残されていたのは、運転席側の窓ガラスだったと思われる、粉々に砕けた無数のガラス片だけだった。
「嘘だろ……おい、嘘だろ!?」
血の気が一気に引き、心臓が早鐘のように打ち始める。
震える指でスマホを取り出し、警察に通報するまでの記憶は、後から思い返してもほとんどすっぽ抜けていた。
駆けつけた警官の態度は、慎二の絶望をさらに抉るような事務的なものだった。
「あー、アルファードね。最近この辺のエリア、プロの窃盗団に狙われてるんですよ。手口からして、もう海外のコンテナに乗せられてるかもしれませんね。被害届を出してくださいね。」
同情の色など微塵もない。
彼らにとって、数千万の家を守るための見栄の道具も、ただの「よくある被害届の1つ」に過ぎなかった。
だが、本当の地獄はそこからだった。
数日後の夜。
3LDKの真新しいリビングには、重く息苦しい沈黙がドロドロと横たわっていた。
ダイニングテーブルを挟んで向かい合う慎二と幸子の顔は、幽霊のように青ざめている。
テーブルの上には、保険会社から送られてきていた契約書の束が乱雑に放り出されていた。
「……どういうことよ!」
絞り出すような幸子の声が、静まり返った部屋に響く。
「なんで、車がないのに200万も払わなきゃいけないのよ! 保険入ってたじゃない!」
「だから、しょうがねえだろ! マンションのローンで毎月カツカツだったんだぞ! 盗難保険の等級を一番下にすりゃ、月の支払いが浮くって言ったのはお前だろうが!」
「私は『少しでも安くならないの?』って聞いただけで、まさかこんな借金だけ残るような安いプランにしろなんて言ってない! あんたが勝手に決めたんでしょ!」
残価設定ローン、通称『残クレ』。
数年後の下取り価格を差し引いて月々の支払いを安く見せかけるその魔法は、車という「担保」が消滅した瞬間、最悪の牙を剥いた。
ケチった盗難保険では、莫大な残債を到底カバーしきれない。
結果として、手元にはハンドルすら残っていないのに、200万円というリアルな借金だけが2人の肩に重くのしかかることになったのだ。
「ふざけんなよ……俺のせいにするのかよ! お前だって、友達にマウント取りたいからデカい車がいいって、はしゃいでいたただろうが!」
「はぁ!? あんたの見栄に付き合ってやっただけじゃない! だいたい200万なんて、これからどうやって払うのよ! ボーナスだってカットされたばっかりなのに!」
新築の接着剤の匂いは、いつの間にか消えていた。
代わって部屋に充満しているのは、互いの責任を醜くなすりつけ合う、ドロドロとした怒りと焦燥感だ。
つい昨日まで「勝ち組」だと信じて疑わなかった自分たちの足元が、音を立てて崩れていく。
家を手放すか、それとも――。
絶望と怒りで充血した慎二の目が、テーブルの上のスマホに向けられた。
この時すでに、2人の頭の中からは「まともな手段で解決する」という選択肢が消え去ろうとしていた。
続く




