第1話 仮初めの城
まとわりつくような真夏の熱気が、網戸越しに新築特有の接着剤の匂いと混ざり合ってリビングに充満していた。
「っっっはぁー! やっぱ自分の城で飲む酒は最高だな!」
まだ片付いていない段ボール箱の山に背中をもたせかけ、鈴木慎二は安物の発泡酒を喉の奥に流し込んだ。
だらしなく開いた襟元には、引っ越し作業でかいた脂っこい汗がベッタリと張り付いている。
35年のローンを組んで手に入れた、新築分譲マンション『ルミナスガーデン習志野』。
3LDKの真新しいフローリングに座り込む慎二の顔は、安酒の酔い以上の高揚感で赤く染まっていた。
「ちょっと、新居の床に水滴こぼさないでよね。あとでワックスがけするんだから」
妻の幸子は口でこそ文句を言いながらも、その顔はだらしなくニヤけっぱなしだ。
彼女の視線の先、ベランダの窓から見下ろす駐車場には、夏の陽射しを反射してギラギラと純白の真新しいアルファードが停まっている。
「分かってるっての。にしてもよ、あそこだけオーラが違えよな。窓ガラス全部真っ黒のフルスモークにしてっからよ、前の車をベタベタに煽るとみんなビビって道譲るんだぜ。あの無敵になった気分、たまんねえよな」
「ほんとウケるよね、みんなスモーク見て勝手にビビって避けていくし。ま、これで私の友達にもでかい顔できるし、ウチら完全に勝ち組っしょ」
アルファードの月々のカツカツの支払いも、ケチって一番下のランクにした盗難保険のことも、今の2人の頭からは完全に抜け落ちていた。
ただただ、自分たちのちっぽけな虚栄心を満たしてくれるこの「箱」と「鉄の塊」に酔いしれていた。
「よし、ひと息ついたら隣に挨拶行くか。どんな奴が住んでるか知らねえけど、お前が買ってきたカステラ、早く渡さねえと腐っちまうぞ」
2人は浮かれた気分のまま、隣室である「302号室」の前に立った。
『安達』とだけ書かれた、プラスチックの素っ気ない表札。
慎二が迷いなくインターホンを押すと、ほどなくして、ガチャリと重い金属音が響き、ドアがゆっくりと開いた。
隙間から顔を出したのは、白髪交じりの頭に、清潔だがくたびれたポロシャツを着た小柄な老人だった。安達正志、68歳。
「はい。どちら様でしょうか?」
「あ、今日隣に越してきた鈴木です! これ、つまらないものですが……」
「あらあら、ご丁寧にどうも。安達と申します。いやぁ、若いご夫婦が来てくれて、私も嬉しいですよ」
安達の顔に、しわくちゃの笑顔が広がる。
どこにでもいる、温和で人の良さそうなお爺ちゃんの顔だ。
ニコニコと笑いながら手土産の紙袋を受け取る安達。
だが、その声のトーンとは裏腹に、目の奥だけが泥水のように濁りきっていた。
口元は笑っているのに、目には一切の感情がない。
ただひっそりと、目の前の見栄で膨れ上がった若い夫婦を上から下まで眺めるような、薄気味の悪い静けさがあった。
しかし、優越感で目が曇っている2人は、目の前の老人が放つかすかな異常性に全く気づかなかった。
「これから末長く、よろしくお願いしますね、鈴木さん」
2人はヘラヘラと愛想笑いを浮かべて頭を下げる。
この数ヶ月後、彼らの見栄の象徴である車が消え、自分たちが地獄の底へ転がり落ちていくことなど、今の2人は知る由もなかった。
続く




