第26話 モニター越しの朝
――そして、四日目の朝。
いや、窓一つないこの地下室では、それが朝なのか夜なのかすら、もう二人には分からなかった。
ただ、狂ったように鳴り響いていたオーケストラの交響曲が不意に鳴り止み、耳鳴りだけが鼓膜の奥にへばりついている。
静寂。それが逆に、二人の鼓動の嫌な音と、微かなモーターの駆動音だけを際立たせていた。
慎二と幸子は、斜めに傾いた冷たいコンクリートの床に転がったまま、ピクリとも動かなかった。
わずか三度という傾斜。
一見すれば平らに見えるそのわずかな狂いが、眠ることも休むことも許さず、じわじわと筋肉の繊維を引き裂くような疲労を全身に植え付けている。
重力に逆らう気力すらとうに失せ、二人の体は部屋の最も低い場所――何かを洗い流すための、あの不気味な排水溝の近くへと、ずるずると滑り落ちたまま折り重なっていた。
ひび割れた唇からは、乾いた呼吸の音しか漏れない。
室内には、数日間風呂に入っていない二人の汗の不快な臭いと、それを誤魔化すように鼻を突く、微かな漂白剤の匂いが充満していた。
二人の視点は宙を彷徨い、どこにも合っていない。
焦点のぼやけた虚ろな瞳は、もはや人間のそれではなく、干からびて死んだ魚のように濁りきっていた。
彼らの周囲には、完成することのない地獄の欠片が散乱している。
赤い丸以外はすべて純白の「日本国旗」と、単調な青が続く「青い空と雲」。
何百回、何千回と無意味な試行錯誤を繰り返した慎二の指先は、擦り切れて赤黒く腫れ上がっている。
だが、昨日からただの一ピースたりとも動いてはいない。
もはやそれを拾い上げる意志すら、二人の脳からは完全に消え失せていた。
その時だった。
『ピッ』
無機質な電子音とともに、壁に埋め込まれた大きなモニターの電源が唐突に入った。
地下室に、暴力的なほどの白い光が放たれる。
慎二は眩しさに目を細めることすらできず、ただ濁った眼球にその光を映し出していた。幸子に至っては、瞬き一つしない。
画面に映し出されたのは、上の階のリビングだった。
朝の柔らかな日差しが差し込む中、アイロンの効いた清潔なシャツを着た安達が、革張りのソファに深く腰掛けている。
手にしたアンティーク調のカップからは、コーヒーの湯気が優雅に立ち昇っていた。
『おはようございます、鈴木さん。……三日間、お疲れ様でした』
スピーカーから響くのは、休日の来客を労うような、穏やかで上品な声だった。
返事はない。あるはずもない。
だが安達は、画面越しの二人の無惨な姿を眺めながら、愛おしいものを愛でるように目を細めた。
『パズルの出来は、どうでしょうか?』
まるで職場の部下に仕事の進捗を聞くような、あまりにも冷たく、狂気に満ちた問いかけ。
安達が手元のスイッチを押すと、壁の奥で重たい機械音が鳴った。
ワイヤーが軋む音とともに、小型の荷物用エレベーターの扉がガコンと音を立てて開く。
中には、スーパーの袋に入ったレトルトのハンバーグや惣菜パン、そして箱から出された500mリットルのミネラルウォーターが数本、無造作に置かれていた。
『買い出しに行っていて、すっかり遅くなってしまいました。さあ、遠慮せずに食事にしてください。……ああ、食事の後はまた、残りのピースを組み合わせてくださいね』
画面の中の安達は、底知れない笑みを浮かべていた。
『これはあなたたちを安全に匿うための、ほんの簡単なゲームですから。…もしパズルが嫌になったのなら、いつでも上へあがってきて構いませんよ。もちろん、そのまま外へ出て、警察に自首していただいても結構ですがね』
エレベーターから漂う食べ物の匂いに、慎二の胃袋が痙攣するように収縮する。
極限の飢えと渇き。
しかし、脳が体を動かすことを拒絶している。
水に手を伸ばせば、またあの白と青の無限の地獄が待っているのだと本能が理解していた。
逃げ出したい。今すぐこの扉をこじ開けて、狂気から解放されたい。
だが、外に出れば「逮捕」と「破滅」が待っているのだ。
自分たちは、自ら望んでこの地獄の釜の底に降りてきてしまった。
安達という悪魔に、命も尊厳も、すべてを自ら差し出してしまったのだ。
絶対に終わらないパズル。
三度傾いた床。そして、逃げ場のない自分たちを嘲笑う笑顔の悪魔。
逃げることも、留まることも地獄。
その圧倒的な事実が、ついに慎二の自我を完全にへし折った。
濁った瞳から、一筋の涙が、傾いたコンクリートの床に向かって静かに流れ落ちていった。
続く




