第25話 静かなる夜と三人分の水
深夜の長野県。
街灯すらない山奥の別荘地へ、田口の乗る古ぼけたセダンが息を殺すように滑り込んだ。
助手席のタブレットに表示されたGPSの赤い光点は、数時間前からこの先の私有地で完全に沈黙している。
田口は上着のポケットから使い古した双眼鏡を取り出し、木立の隙間から標的の別荘を覗き込んだ。
だが、田口の予想に反して、山下の名義となっているその別荘は、深い闇に沈みきっていた。
窓から漏れる明かりは一つもなく、人の気配すら感じられない。
「……真っ暗じゃねえか」
田口は拍子抜けした。
サイコパスの手がかりを掴んで息巻いて乗り込んできたものの、現実はあっけない。
千葉からの長距離ドライブは、初老に差し掛かった安達の体力も確実に削っていたのだ。
到着してすぐに何か異常な行動を起こすわけでもなく、ただ疲労を癒やすために眠りにつく。
そのあまりにも生活感のある「人間の顔」が、かえって田口の背筋に薄ら寒いものを走らせた。
「バケモノの皮を被るのにも、体力がいるってことか……」
田口は車のエンジンを切り、シートを深く倒した。
長野の冷え込みが、老いた体に容赦なく牙を剥く。
だが、排気音やライトで悟られるわけにはいかず、ヒーターをつけることはできない。
田口は毛布代わりの薄いコートに包まり、老朽化した関節の痛みに耐えながら、ジリジリと白みゆく空を待った。
翌日の昼前。
硬直した体をさすりながら張り込みを続けていた田口のタブレットが、微かな電子音を鳴らした。
別荘から、あの白いBMWが動き出したのだ。
田口はすぐさまエンジンをかけ、一定の距離を保ちながら尾行を開始した。
山を下りた安達の車が向かった先は、地元の大型スーパーだった。
駐車場に車を停め、田口は店内に入る安達の後ろ姿を遠巻きに追った。
休日のスーパーは家族連れで賑わっている。
その中で、アイロンの効いたシャツを着た安達の姿は妙に浮いていた。
陳列棚の陰に身を隠し、田口は安達の買い物カートの中身を鋭い目つきで観察する。
「……おいおい、安達さんよ」
田口の口元が、自然と吊り上がった。
カートの中には、500mリットルのミネラルウォーターが箱で3ケース。
さらに、日持ちのするレトルト食品や惣菜やパンが、カゴから溢れんばかりに積まれている。
週末を一人で過ごす初老の男の買い物としては、どう見ても異常な量だった。確実に「三人分以上」の消費を見越した買い出しだ。
田口の脳裏に、あの若い夫婦の顔が浮かんだ。
「生きてる……。あいつら、間違いなくあの別荘で飼われてやがる」
確信が、冷え切っていた田口の体に熱い血を巡らせた。
証拠は揃いつつある。
あとは、あの別荘のどこに夫婦が隠されているのかを暴き出すだけだ。
田口は獲物から目を離さないまま、静かに息を吐いた。
続く




