第15話 汚物と赤い目
漆黒の闇の中、かつてメトロノームが刻んでいた不規則な音は、いつの間にか不気味な水滴の音へと変わっていた。
『ポチャン……』
忘れた頃に響く冷たい音が、地下室の湿っぽい空気と混ざり合い、ジトジトと2人の神経を侵食していく。
だが、幸子にとって水滴の音以上に耐え難いものがあった。
部屋の四隅、そしてトイレとバスルームの天井で、24時間瞬きもせずにこちらを見下ろしている監視カメラの『赤いランプ』だ。
トイレで用を足す時も、シャワーを浴びようと服を脱ぐ時も、常にあの気味の悪い老人の視線がまとわりついている。
そのおぞましい屈辱感と恐怖に、幸子の精神はすでに限界を迎えていた。
「……ねえ、慎二」
暗闇の中、幸子はすがるような声で、隣のベッドに背を向けて寝転がる夫に語りかけた。
「お願い……あのカメラ、なんとかしてよ。服を脱ぐのもトイレに行くのも、ずっと見られてるなんて……私、もう気が狂いそう……」
少しでもいい。慰めの言葉や、「俺が安達に頼んでやる」という夫らしい頼もしさを期待していた。
だが、慎二から返ってきたのは、ひどく面倒くさそうな舌打ちだった。
「あーもう、うっせえな! そんなの気にしなきゃいいじゃねえかよ!」
「え……?」
「見られたからって減るもんじゃねぇし。文句言って飯抜きにされたらどうすんだよ! 俺だって疲れてんだから、つまんねえことでいちいち騒ぐな!」
その瞬間だった。
幸子の中で、ギリギリで繋がっていた「何か」が、音を立てて完全にちぎれ落ちた。
(ああ……私は、なんてクズと結婚してしまったんだろう)
怒りでも、悲しみでもなかった。
スッと全身の血が冷めていくような、底知れない後悔と軽蔑。
幸子はゆっくりと身を起こし、暗闇の中で1本だけの懐中電灯のスイッチを入れた。
その淡い光の先で、背中を向けて丸まっている夫の姿を、彼女は氷のように冷たい目で見下ろした。
それはもう、長年連れ添った家族に向ける視線ではない。道端に落ちている腐った「汚物」を見るような、決定的な見下しの目だった。
(こいつは、私を守る気なんて少しもない。自分の身の安全と腹を満たすことしか頭にない、ただのゴミだ)
幸子は無言のまま懐中電灯を消し、再びベッドに横たわった。もう、夫に言葉をかける気すら起きなかった。
上の階のモニター越しに、暗視カメラでその一部始終を観察していた安達は、満足そうにシワだらけの頬を緩めた。
「素晴らしい。自分の愚かさに気づき、他者を心底軽蔑する。道徳の授業の成果が、しっかりと出ていますね」
『ポチャン……』
冷たい水滴の音が、完全に終わってしまった夫婦の間に、虚しく響き続けていた。
続く




