第10話 見えない傾きと赤い目
地下室での初めての朝。
数日間の極限のストレスから解放された鈴木夫婦は、昼過ぎまで泥のように眠りこけていた。
「ん……あー……よく寝た……」
ベッドから身を起こした慎二は、頭の奥に微かな違和感を覚えた。ひどい二日酔いか、あるいは船に乗っているような、フワフワとした嫌なめまいだ。
「……なんか、気持ち悪いな。疲れが残ってんのかな?」
慎二は首をひねりながら、立ち上がってトイレに向かおうとした。
その時だ。薄暗い部屋の四隅、キッチン、そしてトイレとバスルームの脱衣所の天井に、小さな「赤い光」が点滅しているのに気づいた。
「……おい、幸子。あれ……」
慎二に揺り起こされ、幸子も天井を見上げる。
そこには、レンズをこちらに向けた監視カメラが、部屋のあらゆる死角を潰すように設置されていた。
トイレの個室の中にも、バスルームの天井にも、赤い光が不気味に瞬いている。
「嘘でしょ……トイレもお風呂も全部見られてるの……?」
幸子が血の気を引かせたその時、絶妙なタイミングで壁のモニターが『ピッ』と鳴った。
「おはようございます、お二人とも。よく眠れましたか?」
画面の中の安達は、いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
だが、カメラの存在に気づいた今の2人にとって、その笑顔は途端に気味の悪いものに見えた。
「あ、安達さん……あの、すいません! 部屋にカメラがあるのは分かるんですけど、せめてトイレとお風呂のカメラだけは、なんとかなりませんか!? さすがにそれは……」
慎二がモニターに向かって、すがるように声を張り上げる。
すると、安達は心底不思議そうな顔をして、首をコテンと傾げた。
「……鈴木さん。あなたたちは、お年寄りから大金を奪い、結果的にその命まで奪ってしまった犯罪者ですよ」
ドクン、と慎二の心臓が跳ねた。
安達の声のトーンは優しいままなのに、その言葉は鋭いナイフのように2人の急所を正確に抉ってきた。
「人を1人殺しておいて、たかだか自分の裸を見られる程度のプライドにこだわっているんですか? 私は、警察に追われているあなたたちを、自分の人生のリスクを背負ってまで匿ってあげているんですよ」
「そ、それは……! でも……!」
「それにね、お二人とも」
安達の目が、画面越しにスッと冷たく細められた。
「もしあなたたちが、罪の意識に耐えきれず、お風呂場やトイレで首でも吊ったらどうするんですか? 私はあなたたちの『命』を守るために、24時間見守っているんです。これは必要な措置なんですよ」
反論の余地などなかった。
正論という名の暴力で、2人の見え透いた羞恥心は完全に叩き潰された。
「……どうしても監視されるのが嫌なら、今すぐ荷物をまとめて上にあがってきてください。警察に行くというなら、私は止めませんよ」
「い、いやです! 出ません! お願いします、ここにいさせてください……!!」
幸子が泣き叫びながら、モニターに向かって土下座するように平伏した。
慎二も青ざめた顔で何度も頭を下げる。外に出れば刑務所行きだ。彼らにはもう、「嫌だ」と言う権利すら残されていなかった。
「分かってくれればいいんです。私は、お二人の味方ですからね」
安達は満足そうに微笑むと、通信を切った。
静まり返った地下室。どこからか、ベートーヴェンの『運命』が、不規則な音量で鼓膜を叩き始める。
見上げれば、真っ赤なカメラのレンズが、完全に「所有物」となった2人を、無機質に見下ろしていた。
続く




