第9話 優しい飼育箱と狂ったオーケストラ
GPSや電波で警察に居場所を特定されないため――そんなもっともらしい理由で安達にスマホを預けてしまった鈴木夫婦は、今や外界との繋がりも、正確な「時間」を知る術も完全に失っていた。
分厚い鉄扉に閉ざされた、窓一つない地下室。
毛布にくるまり、ただ疲労と安堵でぼんやりとしていた2人の耳に、ふいに電子音が響いた。
『ピッ』
部屋の壁の上部に設置された小さなモニターの電源が入り、そこに安達正志の穏やかな顔がドアップで映し出された。
「鈴木さん、お疲れのところすみません。少し落ち着きましたか?」
スピーカーから流れてくるのは、まるで高級ホテルの支配人のような、どこまでも優しく丁寧な声だった。
慎二と幸子は弾かれたように起き上がり、モニターに向かって何度も頭を下げる。
「あ、安達さん! はい、おかげさまで……これでやっと、安心して眠れそうです!」
「警察のサイレンに怯えずに休めます……」
モニターの中の安達は、シワだらけの目尻を下げてニッコリと笑った。
「それは良かった。今日はとりあえず、何も考えずにゆっくりしてくださいね。ただ、寝てしまう前に少しだけこの部屋の設備について説明しておきます」
安達の言葉に、2人はすがるような目でモニターを見つめ返した。
「まず、このメインの部屋には照明のスイッチがありません。私が管理室の方で設定していて、朝になれば自動的に電気がつき、夜、寝る時間になれば自動的に消えるようになっています。規則正しい生活を送るのが、心身の回復には1番ですからね」
「あ、なるほど……お手数おかけしてすみません」
慎二は何の違和感も抱かず、ただ感謝の言葉を口にした。
自分たちの「光」という最低限の環境すら他人にコントロールされているという異常性に、この時の2人は全く気づいていなかった。
「それから、トイレとお風呂場だけは手動のスイッチがありますから、安心してください。あと、備え付けの棚の引き出しに、懐中電灯を1本だけ入れてあります。夜中にトイレに起きる時など、足元が暗いと危ないですから使ってくださいね」
「何から何まで……本当に気を使って頂いて、頭が上がりません」
「いえいえ。あと、机の上には筆記用具とメモ用紙をいくつか用意してあります。ずっと部屋にいると気が滅入るでしょうから、暇つぶしにでも使ってください。段ボールの食料や水も、好きな時に自由に食べて構いませんよ」
安達は最後まで「命の恩人」の顔を崩さなかった。
「それから、お二人がリラックスして眠れるように、私の方からBGMを流しておきますね。優雅なクラシック音楽です。それでは、ゆっくり休んでください」
『プツッ』
モニターが切れ、代わりに天井のスピーカーから、ベートーヴェンの『第九』の重厚なオーケストラが静かに流れ始めた。
「……本当、いい人でよかったな。これでやっと寝られそうだな」
慎二は安堵の大きなため息をつき、段ボールの中からカップ麺を2つ取り出した。
幸子もまた、すっかり安心しきった顔でペットボトルの蓋を開けている。
しかし、彼らはまだ気づいていない。
その優雅なクラシック音楽のボリュームが、数分おきに不規則に、わずかに大きくなったり小さくなったりを繰り返していることに。
光も、時間も、音すらも支配された飼育箱。
わずか3度だけ傾いた床の上で、2人は自分たちの精神が内側から削り取られていく地獄の始まりに、まだ気づいていなかった。
続く




