↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
濁流  作者: 亜蘭
PR
9/18

第九章

 それからしばらくして、白井係長は群馬にある関東北部支店への異動を命じられた。

「村西部長が白井係長を気に入らなくて飛ばしたんだって」

「へえ、でも逆に受け取り手がよくあったもんだねえ」

「陰で人事部がかなり調整したって聞いたわよ」

「いやいや、部長の執拗な叱責にとうとう耐えられなくなって、白井係長が精神的におかしくなったらしい。それでどうしようもなくなって、人事部が白井さんを配慮で異動させたんだって」

「いずれにしたってそのほうがお互いに幸せよね。白井係長はほっとするだろうし、村西部長のキャリアにも傷がつかないってわけよ」

 西部支店の中ではそんな噂話で持ち切りだった。

 しかし、そのどれも事実とは異なっていた。白井係長の真下で毎日その様子を見ていた俺が言うのだから間違いはない。白井係長の異動がどういう経緯で決まったのか詳細は知らないが、最後の最後まで白井係長はいつもの白井係長のままであり、異動に当たっても淡々とそれを受け入れただけのことだ。俺は、村西部長の執拗な攻撃に決して屈することのなかった白井係長のタフさをある意味では敬服していた。

 代わって四課の責任者として俺の上司になったのは、三十代後半の比較的若い課長だった。明山という名のその課長が正式に営業四課の課長に就任し、村西部長の四課課長の兼務は解かれた。俺は会社員でありながら、長らく誤解をしていた。営業四課は売り上げが小さいから、課長を置くほどのことはないから、だから部長が課長を兼務しているものとばかり思い込んでいた。実質的には係長を置いておけば、それで事足りるほどの組織と位置づけられているものとばかり思っていたのだ。しかし、このとき初めて俺は会社の中の人事というものを理解した。組織における位置づけや重要度ではなく、そのポストに就く人の個人的な資格によって、課長を置くかどうかが現実には決まっているのだ。明山課長は前職のポストですでに課長だったから、今回も課長という格で異動することになっただけのことなのだ。

 明山課長はまだ三十代後半だから、比較的早く昇進しているほうだった。白井係長とはまったく異なり、何でもてきぱきと仕事をこなしていくタイプだった。部下である俺に対しても指示が迅速かつ的確で、俺は効率的に自分の仕事を進めることができた。上司によってこんなにも仕事の仕方が変わるものかと改めて思い知らされた。部下の成長は上司次第。野球選手だって指導者次第で化ける者もいれば未完の大器のまま終わってしまう者もいる。

 見る見るうちに営業四課の売り上げは伸びていった。村西部長も明山課長には大声をあげて怒鳴りつけるようなことはなかった。むしろ放置するようになり、四課のことには無関心になったように思えた。時期を同じくして営業二課の成績が振るわなくなり、村西部長の怒りの矛先は二課の桜井課長に向けられるようになった。桜井課長は当初は弁明したり反論したりしていたが、それが村西部長の怒りをさらに煽るようになってからは、ただ下を向いて黙るようになった。同期の木島も苦労しているようだった。

 半年に一度、本社では営業会議なるものが開催される。会社全体の販売状況を共有するとともに、営業本部長の今後半年間の営業活動方針が示される一大イベントである。さらに、他の支店の模範となるような取り組みを行っている支店の営業部長が、その成果を誇らしげに発表するというのが営業会議の通例となっていた。今回の営業会議におけるその発表者に本社が指名したのは、あの村西部長だった。村西部長が俄然張り切ったのは言うまでもない。そして、一課や二課ではなく、営業四課がいかにして売り上げを倍増させたかというプレゼンテーションを行いたいと急に言い出した。

「仕事が増えちゃいましたね」

 俺は明山課長に浮かぬ顔でそう言った。

「プレゼンの資料作成なんて面倒くさいねえ。そんなことをしている暇があったら、もっと顧客のところに行く時間をつくりたいものだ。だって、内部の会議に力を使ったところで売り上げには一円も貢献しないだろう」

 明山課長は陰ではそうぼやいていたが、村西部長の指示に表立って逆らうことはなかった。

 その資料作成のために残業をしていた夜のことである。時計の針はすでに十時を過ぎていた。他の課のメンバーはすでに全員退社して、営業部の部屋は不気味に静まり返っていた。部屋の北隅に四課はあるのだが、その一角だけに煌々と灯りがついていた。

「仙道君、こんな時間まですまないねえ。何しろ今度のプレゼンには部長も力が入っているものだから。何でも社長まで出席するらしいよ。そんなことは異例中の異例だ」

 歳をとったといっても、俺は体力には自信があった。少々の残業は苦にならない。それに、ある程度の残業代も稼ぐ必要がある。家計のためだ。

「いえいえ、私がこの部署に来て以来、営業四課がこんなに目立ったのは初めてのことです。うれしいことじゃないですか。部長がどうこうなんて関係ありませんよ。四課にとってはとにかく光栄なことなんですから、それに、これぐらいの残業はどうってことはありませんよ。体力だけはありますから。そんなことは気にしないでください」

「そうかい。そう言ってもらえると気が楽になるというもんだ」

 ネクタイを緩めながら明山課長はそう言った。

 その頃には、俺のパソコンスキルもかなり上達していた。すでに、いろいろな種類のグラフを作成することだって覚えている。

「しかし、明山課長がいらっしゃってからというもの、四課の成績はうなぎ上りです。私などは明山課長の指示どおりにただ動いていただけですけどね。実際のところは何の戦力にもなっていない。しかし、明山課長の指示どおりに動いてさえいれば、自然に売り上げが伸びていくから不思議です。部下である私ですら驚きです。明山課長の手腕には、さすがの村西部長もびっくりというところでしょう」

 いつも涼しい顔をしている明山課長の額に、珍しく脂汗が滲んでいた。

「いやあ、そんなたいしたことではないよ。そもそも四課にはこれまで会社として力を入れてこなかったわけだから。ほんの少し力を入れれば誰がやったって売り上げはすぐに伸びていくんだよ。売り上げが倍になったからといって、それだけ聞けばみんなびっくりするかもしれないが、もともとの規模が小さいんだから。倍といっても絶対額で見ればたいしたもんじゃない」

「それでもやっぱりすごいですよ。倍というのは………」

 そんな話をしながらも、明山課長の指はすばやくキーボードを叩き続けていた。その指の動きは、まるでシャム猫のようにしなやかだった。

「そういえば、前任の白井さんの話を聞いたが、実に気の毒な話だね。その当時、四課にはほとんど予算もついていなかったんだろう? そんな状況で白井さんが何かをしようと思っても何もできやしないよ。どうしようもなかったんだと思うよ。それでもかなり村西部長には掛け合ったらしいけどね。すべて却下されたらしい」

 白井係長が村西部長に掛け合った? そんな話は初耳だった。

「でも、白井さんの引継書は随分と役に立った。あの人はよく考えてたんだな。今後の攻略すべき顧客や売れる見込みのある商品、それに新しい取引形態までもがアイデアとしていろいろ書き残されていた。村西部長がすべて却下してしまったんだろうが、実は私はそれをかなり踏襲している。結果はご覧のとおり。やっぱりあの人は正しかったんだ」

 俺は言葉が出なかった。どう反応すればいいのかわからなかった。

「白井係長の時代は、私も仕事を始めたばかりの頃でしたからね。単なる足手まといにしかならなかったんです。そういう意味では、白井係長には不運が重なったとも言えます。もちろん今でも私なんぞはたいした戦力にはなっていないんですけどね」

 俺は自嘲気味に笑った。

「しかし、もともと仙道君は将来を嘱望された野球界の星だったんだろう。そんな君を部下にしているなんて、私は本当に幸せ者だ。そんな上司なんて、西横部品の中でもいない。いや、どこの企業にもそうはなかなかいないはずだよ」

「いえ、野球をしていたことなんて、もうずっと昔のことですよ」

 明山課長がパソコンの手を止めて俺のほうをまじまじと見つめた。

「しかし、よくこの会社で仕事を続ける決心がついたものだね。野球選手が会社員に転身するなんて、普通の人間にはなかなか想像できないよ。君にとってはよほどのハードルだったんだろう?」

 そのとき、俺の心の奥底で何かが弾けた。ずっとそっとしておいたはずの何か大切なものに突然触れられた思いがした。

「実は………」

 俺は自分の気持ちを正直に話していいものかどうか一瞬躊躇した。しかし、気がつくと無心に話し始めていた。

「実は、あまり心の整理がつかないまま野球を辞めて、流されるままにこの部署で働き始めてしまったんです。正直、野球に対する未練もありました。明山課長もプロ野球の福山投手のことはご存知でしょう?」

「福山? あの福山かい? そりゃあ知ってるさ。最近ではナイターもあまり観なくなったけど、それでも福山のことぐらいは知っている。いや、知らないという人のほうが珍しいだろう。あの大投手の福山のことであれば………」

「はい、あの福山です。実は、私と福山は大学の同級生でしてね。福山は今や日本球界を代表する投手、かたや私はこの会社の単なる平社員というわけです。この会社の単なる平社員などと言うと、他の社員のみなさんには大変失礼な言い方になってしまいますが………。もちろん福山と私とでは、大学時代からその実力の差は歴然としていました。だから、今お互いがこうなっていることには何の不思議もありません」

 明山課長がパソコン越しに上半身を乗り出した。

「それはなおさらすごいことじゃないか。あの福山とチームメイトで、同じグラウンドで毎日汗を流していたわけだろう。今まで聞いたことはなかったが、普通ならもっと自慢してもいいことじゃないのかい?」

 俺は自分でも何を話しているんだろうと後悔した。

「いや、福山のことはもうどうでもいいんです。これは自分自身の問題なんですから。今さら福山と比較しても何の意味もありません」

 俺は大きな溜息をついた。

「正直申し上げて、私は本当の意味でまだ踏ん切りがついていないんだと思います。この会社で、この営業四課で、この先もずっと会社員として生きていくことに疑問を感じないと言ったら恐らく嘘になるでしょう。まだ野球を引きずっているということかもしれません。だから、今の仕事に全身全霊を傾けているかというと、残念ながらそうとも言い切れないんです。明山課長にこんなことを申し上げて大変お恥ずかしいのですが………」

 明山課長はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと小さな声で呟いた。

「しかし、私のような人間から見れば、仙道君のような人間は羨ましい限りなんだけどね」

 明山課長はそう言って顔をごしごしと掌でこすり上げた。

「私は君のことが羨ましいよ。君には大きな夢を見ることのできる時代が確かに存在した。しかも、単なる夢ではなくて、もう少しのところで手の届きそうなところまで行ったんだ。普通の人間なら、夢を実現するどころか、あと一歩で夢をつかめそうだというようなところまでもなかなか行き着けないものだよ。私だってそうだ。君のような大きな夢ではなかったが、その夢に手が届きそうだと思えたことすらない。しかし、仙道君は違う。そういう心が躍るような時代が確かにあったんだ。たとえ結局はその夢が実現しなかったとしても、それだけで私には君が羨ましく思えるんだよ。歌手や芸能人でよく一発屋と言われる連中がいるだろう。一発屋というと何か蔑んだような言い方だけど、一発屋でもいいじゃないかって私なんか思うけどね。ほとんどの人は一発屋にすらなれない。一発だけでも売れただけ羨ましい」

 明山課長の目が微笑んでいた。

「しかし、私は今何をすればいいのかよくわからないんです。もともとこの会社に仕事がしたくて入ったわけではありません。野球ができればそれでよかったんです。しかし、その野球も諦めざるを得なかった。私には何も残っていない。私から野球を取り上げたら何の取り柄もない。そして、周りの人に言われるがまま今日まで来てしまった。本当は自分が何をすればいいのか、何をすべきなのか、野球以外に何ができるのかといったことがさっぱりわからないんですよ」

 俺はそう言ってうつむいた。こんな話をしてしまった自分が恥ずかしかった。

「今の君は、この営業四課で頑張っている。営業四課で毎日仕事をしている。そして、営業会議で発表されるまでの成果を出している。そして、残業しながらその資料を一所懸命つくっている。円グラフも折れ線グラフもつくっている」

 明山課長が冷静な口調でそう言った。

「いや、そういうことではないんです。もちろん会社から給料をもらうからには、給料に見合った働きはしなければならないと思っています。今の私の仕事が給料に見合っているかどうかははなはだ自信はありませんけど。でも、もっと人生全体を見渡したときに、私はこのままでいいのだろうかとふと考えることがあるんです。でも、いまだにその答えは見つかっていない」

 明山課長が俺の顔を再びまじまじと見つめた。俺はその視線が怖くて、逆に明山課長に質問を返した。

「明山課長はそんなことはないんでしょう? 実際にこうして四課の成績も上げられている。明山課長はすばらしい管理職だと思います。今の仕事に熱意を燃やされ、人生を賭けて仕事をされているんでしょう? 間違いなくもっと昇進だってされるでしょうし、そうすればもっと大きな仕事もできる。私にはそれが羨ましい。情熱を燃やす対象があること自体が羨ましい」

 明山課長が笑い出した。

「そんなことはないよ。何も今の仕事に私は人生を賭けているわけじゃない」

 私は首を捻った。

「当たり前だろう。雇われ会社員で仕事に人生まで賭けている奴なんて今までに見たことがないよ。そうだな、せいぜいうちの部長ぐらいのものじゃないか?」

「村西部長のことですか?」

「そうだ。村西部長のことだ。あの人は例外中の例外だ。何があろうが、どんなことをしようが、とにかく偉くなることがあの人にとっては重要なんだ。きっとそれがあの人の人生の目標なんだろう。だけど、ほとんどの会社員はそうではないと思う。自分の実力の限界だってよく知っている。どれぐらいで自分の昇進が止まるのか、それぐらいのことはおおよそ想像がついている。それがいくら先の将来の話だろうがね。私だって、自分の給料分ぐらいの仕事はしなければならないという責任感はあるさ。だからこうして残業もしている。だが、何も自分の人生をこの会社に捧げようなんて思っているわけじゃないよ」

 明山課長の話は俺にとって意外だった。

「では、課長にとっての人生の目標って何ですか?」

 明山課長は困ったような顔をした。

「仙道君はさすがに大きな夢を見たことのある男だね。なかなか凡人にはできないような質問だ。青臭いが非常に重要な質問で、なおかつ答えるのが難しい。だが、人生の目標なんて言われても困ってしまうよ。そもそもそんなだいそれたものは私にはない。いや、私だけじゃないだろう。ほとんどの人にはそんなものはないんじゃないかな。それが見つかっていれば、今頃私もこんなところにはいないと思うよ。そうだな、せいぜい小さな達成感を求めているのかな? いや、達成感なんて言うと言い過ぎだ。日々の仕事の小さな終了感。うん、終了感。きっとそうだ」

 吹っ切れたように明山課長が笑った。

「君みたいな人間にしか悩むことができない問題なのかもしれないな。普通の人間は、ただ流されるままに流されて、そのときそのときが何とかなればそれでいいと思いながら生きている。それでも何とかなるもんだ、人生なんて。仙道君は大きな夢を一度でも見たことがあるから、それに匹敵するような別の大きな夢を見つけなければならないと思い込んでいるんじゃないかな。だが、普通の人間はそんなことは考えもしないよ」

 明山課長がワイシャツの袖を捲り上げた。

「さあ、あと三十分で片付けてしまうぞ。終電までには絶対帰るからな」

 そう言うと、明山課長は勢いよくキーボードを叩き始めた。営業部の広い部屋に忙しない音が鳴り響いた。俺もパソコンの画面に集中した。お尻の時間が決められているせいかもしれなかったが、そんなに仕事に集中したのは初めてのことかもしれなかった。

 その翌日、本社の営業会議を終えた村西部長が興奮気味に支店に戻って来た。そして、営業部の部屋に入るなり大きな声でまくし立てた。

「新規顧客の売り上げが倍になったという話をしたら、それまで他の支店の話のときはずっと下を向いていた社長が急に顔を上げられてね。私の話を興味津々で聞き始めたんだ。そして、私の説明が終わると同時に、私に向かってこう言うんだ。『どうしてそんな短期間で売り上げを倍増することができたのかね。一通りの説明は聞いたがコツは何かね? もっと泥臭い話を聞きたいな』ってな。私はすかさず答えたさ。『つい数カ月前まで私が課長を兼務していたときに、実は人知れずいろいろと種は蒔いてあったんです。それがやっと花開いたのです』ってね。いやあ、今日のプレゼンは大成功だ。これで社長の私に対する見方も随分と変わったことだろう。他の出席者だって目を丸くしていたぞ。『やられた』って感じだろうな」

 村西部長の上機嫌を尻目に、明山課長と俺は顔を見合わせながら苦笑いするしかなかった。しかし、俺はこのときほど村西部長の存在に感謝したことはなかった。というか、部長に感謝したことは後にも先にもこの一度切りだったかもしれない。もともと村西部長はプレゼン上手だ。一のことを十にも膨らませて話をすることができる。そういうことにかけては天才的だ。しかし、今回については村西部長のおかげで、西部支店の営業四課の存在を西横部品全社に広く知らしめることができたのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。