第八章
白井係長との顧客回りはそれからも続いた。同じ顧客に二度、三度と足を運ぶことも多かった。なぜそう考えたのかはわからないが、白井係長は徹底して機械メーカーばかりを狙っていた。
「仕方ない。出直そう」
いくら足を運んでも取引には至らない。それでも白井係長は諦めなかった。
ひょっとして白井係長は外回りをしている事実だけが欲しいんじゃないかと勘繰ったこともあった。ちゃんと回っているが売り上げには結びつかないという言い訳が欲しいためにこんなことを繰り返しているんじゃないか。ずっと職場に座っていては村西部長にまた怒鳴られるから、こうして無理にでも外に出てるだけじゃないのか。ときどき俺はそう疑った。
「これだけわかりやすい資料をまとめて、きちんと説明もして、価格だって他社より抑えているのに取引に至らないのは、商品力や営業努力が足りないんじゃなくて、所詮は西横部品が自動車部品の会社だと思われてるからですよ。機械メーカーが相手にしてくれないのはそういうことじゃないんですか?」
そう言って白井係長に食ってかかったこともあった。
「ここが我慢のしどころだ。諦めたら終わってしまう」
そういうときはいつも、興奮気味の俺を諭すように白井係長は静かにそう言った。
その日も朝一番から機械メーカーを回ることになっていた。白井係長との待ち合わせは、もう何度も利用したことのある駅前の喫茶店だった。ところが、最寄り駅に着いたところで白井係長から俺の携帯電話に連絡が入った。
「申し訳ない。油断して風邪を引いてしまった。高熱で動けないから仙道君一人で行ってくれないか」
これまで白井係長が会社を休んだことなどなかった。
「では、先方に連絡して今日のところはアポをキャンセルしましょうか?」
「いや、それはそれで先方に失礼だ。君一人でも行ってくれ。じゃあ、後は頼む」
そう言って電話はすぐに切れてしまった。
俺は途方に暮れた。自分一人で顧客のところに行った経験もない。商品説明は一通りできるかもしれないが、商談を成立させることなど不可能だ。まあ、いいか。白井係長といっしょに行ったところでどうせ成立なんかしないのだ。しかも、今日の顧客はもう三度も通ったところで勝手はわかっている。いつもの嫌味な購買担当の係長に軽く説教などされて、短時間で引き上げてこよう。白井係長だって商談が成立することなど期待しているわけではないだろう。顔つなぎだけしてさっさと引き上げよう。
いつもの不愛想な受付の女性社員に案内されて小さな応接室に通された俺の態度は自分でも少しおかしかった。待たされている間、徐々に緊張感が高まっていくのが自分でもわかった。そのうち、小刻みに身体が震え出した。大一番の先発マウンドでも感じたことのない感覚だった。逃げ出したくて仕方なかった。そのたびに白井係長の顔を思い出し、とにかく係長に迷惑をかけないよう、この場を穏便に済ませたいということしか考えられなかった。
「お待たせしてすみません」
応接室には三人の男が入ってきた。いちばん後ろから見慣れた購買係長が入ってきたが、先に入って来た二人に見覚えはなかった。名刺交換すると購買部長と購買課長だった。いつもの係長は神妙な顔つきでおとなしくしている。
「お忙しいところお時間をいただき申し訳ございません。本日は弊社のこの部品をご紹介させていただきたくまいりました」
気の利いた世間話を前置きするなどということもできない俺は、すぐに商品に関する説明資料をテーブルの上に差し出した。白井係長の説明を何度も聞いているから、通り一遍の説明はできるはずだったが、緊張のせいかうまく話せない。しどろもどろになっているのが自分でもよくわかった。時折視線を上げてみたが、三人ともただ静かに俺の下手な説明を聞いている。
「以上、アフターサービスについても誠心誠意対応してまいりますので、ぜひご検討いただけましたら幸いでございます」
そう締め括った俺は、その瞬間に商談の失敗を確信した。俺なんかの説明を我慢強く十五分も聞いてくれたことに感謝しながら。
「仙道さんとおっしゃいましたね」
「あ、はい」
購買部長が俺の目を直視していた。
「仙道清志さんですよね?」
「はい。そうですけど………」
購買部長は俺の名刺を見ながらそう確認した。
「道城大学野球部のあの仙道さん?」
「えっ、はい。そうですが………」
俺は何を言われているのかよくわからなかった。
「私は野球が大好きでね。プロ野球のみならず甲子園や大学野球もよく見てるんですよ。そうか、あの仙道さんですか………」
そう言うと、購買部長の目尻がにわかに下がった。
「私のことをご存知なんですか?」
「大学野球のファンなら知ってますよ。あの福山と二枚看板で活躍されたあの仙道さんでしょ。そりゃあ、知ってます。道城大学が連覇したときは福山と両輪で大活躍されましたよね」
俺は恐縮するしかなかった。
「あの仙道さんがわざわざわが社に来てくれたんですから、そりゃあ検討せざるを得ないですよね。君、早速試作品を工場に運ぶ手配をして」
「あ、はい、かしこまりました」
端っこに座っていた購買係長が縮こまって頭を下げた。
それだけ? 俺は呆気に取られていた。これまで何度足を運んでも、どれだけ商品説明しても、価格をいくら下げても、まったく取り合ってくれなかったというのに、たったこれだけで試作品のテストを了承してくれるのか? 理由がわからない。こういうことは購買部長の鶴の一声で決まってしまうものなのか? そして、購買部長はなぜその一声を発してくれたのか?
翌日、まだ少し熱っぽいと言って出社してきた白井係長に俺は早速報告をした。白井係長はいつもの柔らかい笑顔でじっと聞いていた。そして最後に、「ありがとう。よくやってくれました」と一言言っただけだった。
営業二課の木島係長は俺と同期だった。そんなことがわかったのは、俺が営業四課に配属されてから半年も経ってからだった。俺は平社員だが木島は係長。しかし、同期ということもあり、木島とは馬が合った。ある日の昼休み、俺は木島にこの不思議な商談成立について打ち明けた。
「まあ、俺には機械メーカーのことはわからない」
木島は昼食後の大福餅を頬張りながら俺の話を聞いていた。木島は昼食後に必ず甘いものを食べる。菓子パンかアイス、コンビニの季節限定のデザートなんかもよく頬張っていた。そういえば、定期健診で血糖値が高いの何のと漏らしていた気がする。
「そういえば、俺にも似たようなことがあったよ。俺がまだ営業駆け出しの頃、『今日はお前一人で顧客のところに行って来い。商談まとめて来いよ』って課長に言われてさ。そんなのまとめる自信なんかまるでなかったよ。恐る恐る先方に行って、冷や汗掻きながら説明してたらどういうわけかまとまっちゃったのよ。そのときは嬉しくてさ。急いで戻って課長に報告したさ。そうしたら、後で先輩が教えてくれたんだよ。あれは商談がもうまとまることがわかっていて、最後にお前に花を持たせるために課長が仕組んだことだって。今回のお前の件もそういうことかどうかはわからないけどさ。機械メーカーへの営業なんて俺にはまるでわからないから」
俺は白井係長に心から感謝した。それは、ここ数年でいちばんうれしい出来事だった。




